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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

食べるものがない③食糧危機

2021年01月14日 | 昭和21年~25年
進駐軍からチューイングガムやチョコレートをもらう子供たち


(「戦後50年」山陽新聞社)



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「岩波講座・日本歴史22」  岩波書店 1977年発行



食糧危機


敗戦後の生活窮乏化をもっとも端的に、しかもするどくあらわしているのは、食糧危機であった。

戦時経済の下で農業生産は、農機具・肥料などの素材不足と労働力不足のために押しなべて減少傾向にあったが、
特に敗戦の1945年度の主要作物は、米が天候不順と収穫期の風水害がたたって、平年作を3割も下回る減収となった。
小麦・大麦・野菜・果物いずれも大幅な減少であった。

辛うじて甘藷と馬鈴薯が増収だった。

日本人にとって重要な蛋白資源である水産物も、船舶・燃料・労働力不足、
米軍攻撃の危険のため遠洋は1939年の1/10、沿岸も1/3以下に減少した。

朝鮮からの米移入も当然なくなった。


石炭不足と占領軍の輸送で鉄道輸送の大混乱が重なり、食糧・物資の供給不足を一層ひどくした。
もともと乏しい食糧の配給そのものを続けることがむつかしくなり、遅配がひろがっていった。


東京・横浜などで最もひどかった1946年4月~5月の食糧不足がそのまま続いたならば、大量の餓死者か広範な疾病者が生ずるのは、
ほとんど時間の問題だとされた。
成人男子は標準1日2400カロリー摂る必要があるが、
東京都民の摂取量は都庁調査で、1.064カロリー。(配給723カロリー、ヤミ341カロリー)
まさしく餓死線上にあった。



「米よこせ」住民運動

民衆は生き抜くために必死の思いで食糧の確保にあらゆる努力をはらい、
農村に買い出しに出かけ、
狭い土地でも菜園に利用した。

しだいに隣組や町内会と連帯し「米よこせ」運動が組織的にのりだした。
不正な配給を許さず、
隠匿物資を摘発し、
自主的に公平に分配するなどの戦いが住民主体に行われた。

軍需物資の放出・隠匿は、敗戦直前の鈴木内閣時代から、すでにはじめられていた。
繊維・鉄鋼・木材・油脂・原油・石炭などを企業に交付しはじめられていた。
8月14日、軍と政府は軍需資材の放出と隠匿を秘密裏に指令した。
膨大な物資が企業やヤミ物資として放出された。
軍用米だけでも30万石と推定された。


5月12日世田谷で行われた「米よこせ」大会は宮城デモにまで発展した。
「朕はたらふく食っているぞ、ナンジ臣民飢えて死ね」のプラカード「不敬事件」までおこし、
天皇批判が大衆運動の中で強くなる傾向をもたらせた。
天皇は二度目のマッカーサー元帥訪問を行った。


マッカーサーは「多数の暴民によるデモと騒乱に対し警告を発する」と声明を発表し、
占領軍は輸入食糧緊急放出を行った。




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食べるものがない②戦後(終戦~昭和25年)

2021年01月14日 | 昭和21年~25年
戦争中は、なんとか調達できていたものが、終戦後は衣・食・住、そのすべてが不足した。

農村に住む人は
着るものがない。
食べるものはある。
住むところが不足した。←復員や焼失のため引揚で一家が大家族


生活する苦労は、町の人も田舎の人も、戦中よりも戦後の方が苦しかった。



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「昭和・平成家庭史年表」 河出書房新社 1997年発行



昭和20年


9.- ヤミ市氾濫。
-.- メチルアルコールの使用による死者が続出。
-.- ”タケノコ生活者”
-.- 米の収穫量が587万トン(前年比68.8%)。昭和最大の凶作。




昭和21年


1.22 食糧難のため人口10万以上の都市への転入が禁止される。
1.- 文部省、学校農園による給食の普及を奨励
2.- 食糧の遅配が始まる。
春- 食糧難で京浜地方の餓死者1.300人。
5.- 食品に水溶性サッカリンの使用許可。人工甘味料ズルチンの製造販売許可。
6.6 農林省、1ケ月に10日間の食糧休暇を決定。
6.- 宝くじの賞品にサッカリンがつく。
8.- 露店の飲食店などでメチルアルコールが飲用に販売され、各地で中毒による死者・失明者が続出。
9.- GHQ放出のメリケン粉によるコッペパンが全国の児童に配給される。
9.- 東京都、都民一世帯当たりにズルチン5gを配給(15円)。
12.12 ガリオア資金による小学校給食が開始される。
12.- 大蔵省、国民の生活費を発表。生計費の70%が飲食費。




昭和22年

1.28 小学校でララ物資による給食が再開(副食のみ)。
8.12 皇居前広場で食糧確保国民大会が開かれる。
9.- 米・甘藷の供出割り当てが難航し、GHQは供出量確保に強行指示。
10.- 食糧難のため、東京中央郵便局などで大量の欠勤。
10.- 少量難のため、登校時を狙って児童から弁当を奪う少年が激増。




昭和23年

4.- メチルアルコールを多量に含むヤミ・ウイスキーが横行。
10.- 砂糖の輸入が激増、菓子業界も活況を呈す。
10.- カボチャの人気が急降下。
11.2 主食の米が配給で1人当たり2合7尺に増配された。
-.- みそ、配給切符制になる。一世帯1日当たり22.5g。




昭和24年

1.- ヤミ米防止のため、米を以って旅行する場合は食糧事務所長の証明が必要になる。
2.9 尼崎市で武装警官1.200人を動員して密造酒を急襲、130人を逮捕。この頃、カストリやドブロクなどの密造酒が激増。
2.15 第1回栄養士試験。
5.7 全国の料理・飲食店が再開、屋台も出現。
9.- ユニセフから児童に、脱脂粉乳や原綿の贈り物が届く。
11.3 第1回全国栄養週間が始まる。




昭和25年

3.1 池田勇人蔵相「所得の多い人は米を、少ない人は麦を食べるように」と発言。
4.- 寿屋、「トリスウィスキー」を発売。(昭和26年にはトリスバーができる)
4.- お茶の水大学に栄養学・食品学・調理学の3つの講座ができる。以前は調理割烹のみ。
7.- みそ・醤油が自由販売になる。
9.1 大都市の小学校で完全給食開始。
-.- 米や食料品が値下がり。
-.- 食用ガエルの輸出が674屯で、最高を記録。朝鮮戦争の米軍用。


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昭和24年 紙芝居

(「日本の歴史を見る・10」 世界文化社  2006年発行)





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