進駐軍からチューイングガムやチョコレートをもらう子供たち
(「戦後50年」山陽新聞社)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「岩波講座・日本歴史22」 岩波書店 1977年発行
食糧危機
敗戦後の生活窮乏化をもっとも端的に、しかもするどくあらわしているのは、食糧危機であった。
戦時経済の下で農業生産は、農機具・肥料などの素材不足と労働力不足のために押しなべて減少傾向にあったが、
特に敗戦の1945年度の主要作物は、米が天候不順と収穫期の風水害がたたって、平年作を3割も下回る減収となった。
小麦・大麦・野菜・果物いずれも大幅な減少であった。
辛うじて甘藷と馬鈴薯が増収だった。
日本人にとって重要な蛋白資源である水産物も、船舶・燃料・労働力不足、
米軍攻撃の危険のため遠洋は1939年の1/10、沿岸も1/3以下に減少した。
朝鮮からの米移入も当然なくなった。
石炭不足と占領軍の輸送で鉄道輸送の大混乱が重なり、食糧・物資の供給不足を一層ひどくした。
もともと乏しい食糧の配給そのものを続けることがむつかしくなり、遅配がひろがっていった。
東京・横浜などで最もひどかった1946年4月~5月の食糧不足がそのまま続いたならば、大量の餓死者か広範な疾病者が生ずるのは、
ほとんど時間の問題だとされた。
成人男子は標準1日2400カロリー摂る必要があるが、
東京都民の摂取量は都庁調査で、1.064カロリー。(配給723カロリー、ヤミ341カロリー)
まさしく餓死線上にあった。
「米よこせ」住民運動
民衆は生き抜くために必死の思いで食糧の確保にあらゆる努力をはらい、
農村に買い出しに出かけ、
狭い土地でも菜園に利用した。
しだいに隣組や町内会と連帯し「米よこせ」運動が組織的にのりだした。
不正な配給を許さず、
隠匿物資を摘発し、
自主的に公平に分配するなどの戦いが住民主体に行われた。
軍需物資の放出・隠匿は、敗戦直前の鈴木内閣時代から、すでにはじめられていた。
繊維・鉄鋼・木材・油脂・原油・石炭などを企業に交付しはじめられていた。
8月14日、軍と政府は軍需資材の放出と隠匿を秘密裏に指令した。
膨大な物資が企業やヤミ物資として放出された。
軍用米だけでも30万石と推定された。
5月12日世田谷で行われた「米よこせ」大会は宮城デモにまで発展した。
「朕はたらふく食っているぞ、ナンジ臣民飢えて死ね」のプラカード「不敬事件」までおこし、
天皇批判が大衆運動の中で強くなる傾向をもたらせた。
天皇は二度目のマッカーサー元帥訪問を行った。
マッカーサーは「多数の暴民によるデモと騒乱に対し警告を発する」と声明を発表し、
占領軍は輸入食糧緊急放出を行った。
(「戦後50年」山陽新聞社)
・・・・・・・・・・・・・・・・
「岩波講座・日本歴史22」 岩波書店 1977年発行
食糧危機
敗戦後の生活窮乏化をもっとも端的に、しかもするどくあらわしているのは、食糧危機であった。
戦時経済の下で農業生産は、農機具・肥料などの素材不足と労働力不足のために押しなべて減少傾向にあったが、
特に敗戦の1945年度の主要作物は、米が天候不順と収穫期の風水害がたたって、平年作を3割も下回る減収となった。
小麦・大麦・野菜・果物いずれも大幅な減少であった。
辛うじて甘藷と馬鈴薯が増収だった。
日本人にとって重要な蛋白資源である水産物も、船舶・燃料・労働力不足、
米軍攻撃の危険のため遠洋は1939年の1/10、沿岸も1/3以下に減少した。
朝鮮からの米移入も当然なくなった。
石炭不足と占領軍の輸送で鉄道輸送の大混乱が重なり、食糧・物資の供給不足を一層ひどくした。
もともと乏しい食糧の配給そのものを続けることがむつかしくなり、遅配がひろがっていった。
東京・横浜などで最もひどかった1946年4月~5月の食糧不足がそのまま続いたならば、大量の餓死者か広範な疾病者が生ずるのは、
ほとんど時間の問題だとされた。
成人男子は標準1日2400カロリー摂る必要があるが、
東京都民の摂取量は都庁調査で、1.064カロリー。(配給723カロリー、ヤミ341カロリー)
まさしく餓死線上にあった。
「米よこせ」住民運動
民衆は生き抜くために必死の思いで食糧の確保にあらゆる努力をはらい、
農村に買い出しに出かけ、
狭い土地でも菜園に利用した。
しだいに隣組や町内会と連帯し「米よこせ」運動が組織的にのりだした。
不正な配給を許さず、
隠匿物資を摘発し、
自主的に公平に分配するなどの戦いが住民主体に行われた。
軍需物資の放出・隠匿は、敗戦直前の鈴木内閣時代から、すでにはじめられていた。
繊維・鉄鋼・木材・油脂・原油・石炭などを企業に交付しはじめられていた。
8月14日、軍と政府は軍需資材の放出と隠匿を秘密裏に指令した。
膨大な物資が企業やヤミ物資として放出された。
軍用米だけでも30万石と推定された。
5月12日世田谷で行われた「米よこせ」大会は宮城デモにまで発展した。
「朕はたらふく食っているぞ、ナンジ臣民飢えて死ね」のプラカード「不敬事件」までおこし、
天皇批判が大衆運動の中で強くなる傾向をもたらせた。
天皇は二度目のマッカーサー元帥訪問を行った。
マッカーサーは「多数の暴民によるデモと騒乱に対し警告を発する」と声明を発表し、
占領軍は輸入食糧緊急放出を行った。