しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

函館要塞

2021年01月28日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・北海道函館市
訪問日・2017.7.29


函館には一度しか行ったことはないが、非常に魅力的な街だった。
二度目があれば、ぜひとも昼に、歩いて函館山に登ってみたい。そして函館要塞も見てみたい。




日活映画「ギターを持った渡り鳥」では、マイトガイ・アキラが風船を買って浅丘ルリちゃんと出会う場所。
今も函館の観光名所。








♪函館山の いただきで七つの星も 呼んでいる・・・







函館山の夜景はとんでもないほどに奇麗だった。
そして、それ以上にとんでもない・・・・人の数だった。
(間違いなく星の数よりも多かった)



かつて函館山は要塞だった。
軍人以外は立入禁止の山だった。






「戦争遺跡の辞典」 柏書房 2002年発行

函館要塞
日露戦争からアジア太平洋戦争までの戦跡が残る戦跡考古学の一大宝庫


市議地の南西に位置する函館山(334m)は、山頂から眺める景観は”百万ドルの夜景”と絶賛され、
四季を通じて全国各地から多くの観光客を魅了している。

函館要塞は、1895年(明治28)日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に計画された。
1897年道路工事を開始、
翌年第7師団の視察を受け砲台の建設が始まった。
1900年には「要塞地帯法」が公布され、函館山への一般人の立ち入りは禁止された。
日露戦争で一発も発射することはなかった。


アジア太平洋戦争では、1945年4月高射砲陣地を設けた。
7月14.15日の米軍空襲の際には果敢に火を噴き、米軍1機を撃墜した。

1946年開放され、その翌々年、函館市は公園整備した。












「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行

函館要塞跡
港をロシアの軍艦から守った砲台群


標高334mの函館山は、敗戦まで一般人が近づけない要塞地帯だた。
函館要塞は明治29年(1896)に計画された。
日清戦争後、ロシアと緊張が高まっていたため、本州と北海道を結ぶ函館港を守るのが最大の目的だった。

要塞は当時の最新技術を投入して明治35年に完成した。
その2年後に日露戦争が始まると、
さっそくロシア軍は津軽海峡周辺で通商破壊の挙に出る。
これを聞いた函館市民の間では街が砲撃されるという噂が広まり、避難する人で大混乱になった。

要塞の大砲は函館湾をカバーする7.800mが射程距離で、
ロシアも射程を見極めて通過していた。


函館要塞はすぐ時代遅れとなり、砲台が廃止され多くの砲が撤去された。
昭和にはいると津軽要塞地帯と改名し、東西の海峡封鎖を可能にした。

太平洋戦争中は、
函館山の施設は無用の長物となっていた。

戦後は昭和21年5月に函館山が開放され、市民の憩いの場となった。





コメント
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