(玉音放送「戦後50年」山陽新聞社発行)
「昭和戦後史・上」 古川隆久著 講談社2006年発行
圧倒的な国力さ
日本政府や軍部は、開戦前から日本の工業生産力はアメリカの1/7~8にすぎないことを知っていた。
だが、アメリカ人の多くはアジアに関心がないこと、
アメリカの国民性は享楽的であるという判断から、
アメリアkが本気で日本と戦うとは考えていなかったようだ。
ところが、開戦の際、ワシントンにある日本大使館のミスで真珠湾攻撃の前に開戦通告が米国に届かなかった。
日本はだまし討ちをしたとして、米国民は敵愾心が一気に高まった。
「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、アメリカは本気で日本と戦うことになってのである。
アメリアはイギリスや中国など連合国側に軍事援助をおこなっていたが、強大な工業力ゆえに日本とも十分に戦う力を持っていた。
軍艦、空母、飛行機、洗車、銃器がすさまじい勢いで大量生産され、十分な訓練と栄養、休養を与えられた元気いっぱいの米兵とともに前線に送り出された。
最高権力者マッカーサー
マッカーサーには事実上、絶大な権限があった。
彼は日本の最高権力者になってのである。
マッカーサーは占領軍の威信を示すために、絶対君主のようにふるまった、
日本の一般の人々の前に姿をあらわすのは、第一生命ビルの正面玄関で、
住まいとした米大使館と第一生命のあいだを送迎する車の乗り降りをするときだけ。
首相などごく一部の政府首脳以外の日本人には会わず、二度以上会見した日本人は、
昭和天皇と、占領期に長く首相をつとめることになる吉田茂くらいだったといわれる。
それまでは、毎年元旦の新聞の一面は、天皇あるいは皇后の写真で飾られてきたが、
昭和21年元旦の、いわゆる人間宣言の記事と肖像写真を最後に、
マッカーサーが連合国軍総司令官を解任される26年まで、元旦の新聞第一面には、
毎年、マッカーサーの肖像写真と年頭メッセージが掲載された。
視覚的にも、マッカーサーが最高権力者であることが示されたのである。
天皇の人間宣言
天皇とマッカーサーの初めての会見は、昭和20年9月27日、天皇がマッカーサーを訪れるというたかちでおこなわれた。
昭和天皇が、太平洋戦争の開戦責任は君主たる自分にあるという主旨の発言をしたのは明らかとなっている。
昭和天皇は大臣や軍高官に責任を押し付けてすますような無責任な人間ではなかったと解釈されている。
マッカーサーは国民の皇室制度への支持が高いという事前の情報に加え、昭和天皇の誠実な態度に感銘を受け、昭和天皇の協力を得て統治をおこなうことを決意したようである。
実際、毎日新聞が昭和20年暮れにおこなった世論調査では、皇室制度への支持率は9割を超えていた。
マッカーサーは、諸外国で高まっていた「天皇を戦犯として裁判にかけて処刑せよ」という声や、国内で出始めた「天皇は責任をとって退位すべきだ」という議論を封じる必要が生じた。
日本政府も、昭和天皇を戦犯にするのは避けようとした。
「天皇は立憲君主として政府や軍の決定に従っただけ、終戦時は意見が割れたので決断したのだから、天皇に戦争責任はない」という見解を昭和20年11月にまとめた。
天皇は11回のマッカーサーとの会見があるが、度重なり国家国民への援助要請をした。
自分の住所宮殿の再建は、住居は昭和36年まで、宮殿は43年まで仮住まいだった。
GHQのすすめもあり、国民を直接励まそうと日本全国に出かけた。地方巡幸である。
おおむね熱狂的な歓迎を受けた。