「岩波講座・日本歴史22」 岩波書店 1977年発行
終戦工作
1945年4月5日、ソ連は日ソ中立条約の不延期を通告してきた。
前年、ロシア革命記念日にスターリンが日本を侵略国と呼んだこと、
1945年2月からソ連の極東兵力の増強が目立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の参戦n危険が迫っていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
中ソ大使館付武官から
「1日12~15列車におよび開戦前夜を思わしむものあり、
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される。
約20個師団の兵力輸送には約2ヶ月を要するであろう。」との電報が参謀本部に到着していた。
こうしたソ連軍の増強に、関東軍の兵力はとうていたちうちできない状態になっていた。
とくに飛行機、戦車、火砲、対戦車砲などを持たない状態であった。
最高指導者会議で、ソ連の好意的中立を獲得する、戦争の終結に我が方に有利なる仲介を為さしむる申し合わせをした。
この会議の結果、
東郷外相は広田元首相を起用し、ソ連駐日大使マリクに接触させ、佐藤駐ソ大使にソ連との接触を訓電した。
既に5月8日ドイツは降伏していた。
ソ連を利用しようとしたこの方針は、
国際情勢についても、日本の国力についてもあまりに見当違いの希望的観測にたったものといえよう。
ソ連側からは相手にされるはずもなかった。
この期間、フィリピンや沖縄や南方の島々で、なすところなく数十万の生命が失われていた。
6月8日の御前会議
「今後とるべき戦争指導の基本大綱」を決定した。
和平か継戦がを決定する重大な岐路にさしかかっていることは誰の目にも明らかだった。
しかし、そのような議論はいっさい行われなかった。
「あくまで戦争を完遂し以って国体を護持し皇土を保衛し聖戦目的の達成を期す」
という方針のもと、本土決戦を戦い抜くとおいうものであった。
一億総玉砕の方針を決定したのである。
戦争終結についての意見表明がなにびとによっても行われなかった。
天皇が急に戦争終結に熱心になるのはこの御前会議以後のことである。
ドイツの降伏、ソ連参戦の必至化、国体護持、東京空襲なだが作用しているのは事実であろう。
なお侍従武官が6月3日、九十九里浜を視察し、防備がほとんどできていないことを報告している。
6月22日天皇が召集した最高戦争指導者会議では、
「戦争の終結についても考えなければならぬと思うが」と言葉がありソ連との交渉を進めることを申し合わせた。
マリクは7月になって病気と称して会見に応じなかった。
その間に戦局はいっそう緊迫した。
7月10日からアメリカ機動部隊が一ヶ月にわたって本土に接近し、空襲と艦砲射撃をくりかえした。
大打撃を受けたが、大本営は本土決戦のため兵力を温存するとこれに反撃を加えず、敵機の跳梁にまかせた。
前年以来ソ連軍によって解放された東ヨーロッパ諸国における革命の進展、王政の転覆は、日本の支配層に大きな脅威と受けてられていた。
英米側は天皇の地位が重要視されているなどによって、戦争終結への動きがようやく早まってきた。
産業資本の意向もあった。
国内産業の根本は破壊に先立って戦争を終わらせることが必要と感ぜられるにいたった。
ポツダム宣言を知ったのは7月27日の朝である。
7月28日、「ただ黙殺するだけである」。
8月6日、広島に原爆投下。
8月8日、ソ連の参戦。
8月9日、長崎に原爆投下。
8月8日東郷外相は天皇に新兵器の出現について上奏し、
8月9日ソ連参戦を知った東郷外相は早朝、鈴木首相を訪ねポツダム宣言受諾の必要を説き、首相も同意した。
日本の戦争指導者は、原爆の投下によっては必ずしも動揺しなかった。
それによってただちに戦争終結への努力を行われた形跡はない。
決意させたのは、疑いもなくソ連参戦であった。
8月9日の閣議では、
農相が食糧の不足から飢餓状態がおこる。
内相は敵愾心があがらず戦争の将来に不安を持ち、また共産党は君主制の廃止で危険だ。
陸軍相は軍への信頼感がなくなっている。
午後11時50分から御前会議が開かれた。10日午前2時「ご聖断」を下した。
日本の支配者層は戦争遂行が不可能になったことが明らかになった1945年にはいってからも、
戦争の終結のための具体的な方策を講じず、
軍作戦当局がすうsめる本土決戦準備にずるずるとひきずられていった。
国民の運命を担っている責任を戦争指導者は感じなかったのである。
この段階になって以後、
戦死・餓死・焼死・水死などで200万人を超える軍人と一般人が命を落としたのである。
食糧難と空襲の激化によって民心の不安が急に高まってきた6月ころから、終戦の動きがはじまるが
それは被害の増大にたいするよりも、
国内の混乱と革命にたいする危惧からだったのである。
終戦工作
1945年4月5日、ソ連は日ソ中立条約の不延期を通告してきた。
前年、ロシア革命記念日にスターリンが日本を侵略国と呼んだこと、
1945年2月からソ連の極東兵力の増強が目立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の参戦n危険が迫っていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
中ソ大使館付武官から
「1日12~15列車におよび開戦前夜を思わしむものあり、
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される。
約20個師団の兵力輸送には約2ヶ月を要するであろう。」との電報が参謀本部に到着していた。
こうしたソ連軍の増強に、関東軍の兵力はとうていたちうちできない状態になっていた。
とくに飛行機、戦車、火砲、対戦車砲などを持たない状態であった。
最高指導者会議で、ソ連の好意的中立を獲得する、戦争の終結に我が方に有利なる仲介を為さしむる申し合わせをした。
この会議の結果、
東郷外相は広田元首相を起用し、ソ連駐日大使マリクに接触させ、佐藤駐ソ大使にソ連との接触を訓電した。
既に5月8日ドイツは降伏していた。
ソ連を利用しようとしたこの方針は、
国際情勢についても、日本の国力についてもあまりに見当違いの希望的観測にたったものといえよう。
ソ連側からは相手にされるはずもなかった。
この期間、フィリピンや沖縄や南方の島々で、なすところなく数十万の生命が失われていた。
6月8日の御前会議
「今後とるべき戦争指導の基本大綱」を決定した。
和平か継戦がを決定する重大な岐路にさしかかっていることは誰の目にも明らかだった。
しかし、そのような議論はいっさい行われなかった。
「あくまで戦争を完遂し以って国体を護持し皇土を保衛し聖戦目的の達成を期す」
という方針のもと、本土決戦を戦い抜くとおいうものであった。
一億総玉砕の方針を決定したのである。
戦争終結についての意見表明がなにびとによっても行われなかった。
天皇が急に戦争終結に熱心になるのはこの御前会議以後のことである。
ドイツの降伏、ソ連参戦の必至化、国体護持、東京空襲なだが作用しているのは事実であろう。
なお侍従武官が6月3日、九十九里浜を視察し、防備がほとんどできていないことを報告している。
6月22日天皇が召集した最高戦争指導者会議では、
「戦争の終結についても考えなければならぬと思うが」と言葉がありソ連との交渉を進めることを申し合わせた。
マリクは7月になって病気と称して会見に応じなかった。
その間に戦局はいっそう緊迫した。
7月10日からアメリカ機動部隊が一ヶ月にわたって本土に接近し、空襲と艦砲射撃をくりかえした。
大打撃を受けたが、大本営は本土決戦のため兵力を温存するとこれに反撃を加えず、敵機の跳梁にまかせた。
前年以来ソ連軍によって解放された東ヨーロッパ諸国における革命の進展、王政の転覆は、日本の支配層に大きな脅威と受けてられていた。
英米側は天皇の地位が重要視されているなどによって、戦争終結への動きがようやく早まってきた。
産業資本の意向もあった。
国内産業の根本は破壊に先立って戦争を終わらせることが必要と感ぜられるにいたった。
ポツダム宣言を知ったのは7月27日の朝である。
7月28日、「ただ黙殺するだけである」。
8月6日、広島に原爆投下。
8月8日、ソ連の参戦。
8月9日、長崎に原爆投下。
8月8日東郷外相は天皇に新兵器の出現について上奏し、
8月9日ソ連参戦を知った東郷外相は早朝、鈴木首相を訪ねポツダム宣言受諾の必要を説き、首相も同意した。
日本の戦争指導者は、原爆の投下によっては必ずしも動揺しなかった。
それによってただちに戦争終結への努力を行われた形跡はない。
決意させたのは、疑いもなくソ連参戦であった。
8月9日の閣議では、
農相が食糧の不足から飢餓状態がおこる。
内相は敵愾心があがらず戦争の将来に不安を持ち、また共産党は君主制の廃止で危険だ。
陸軍相は軍への信頼感がなくなっている。
午後11時50分から御前会議が開かれた。10日午前2時「ご聖断」を下した。
日本の支配者層は戦争遂行が不可能になったことが明らかになった1945年にはいってからも、
戦争の終結のための具体的な方策を講じず、
軍作戦当局がすうsめる本土決戦準備にずるずるとひきずられていった。
国民の運命を担っている責任を戦争指導者は感じなかったのである。
この段階になって以後、
戦死・餓死・焼死・水死などで200万人を超える軍人と一般人が命を落としたのである。
食糧難と空襲の激化によって民心の不安が急に高まってきた6月ころから、終戦の動きがはじまるが
それは被害の増大にたいするよりも、
国内の混乱と革命にたいする危惧からだったのである。