しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦中戦後の国民学校⑥大島中国民学校

2021年01月01日 | 城見小・他校

(元・大島東小学校) 2019.4.12  笠岡市大島中



大島中国民学校 
「大島東小学校百年史」 昭和50年発行より



S11.11.1 二宮尊徳像を建てた

S15.11.10 紀元2600年記念式典を挙行

S16.4.1 大島中尋常小学校を大島中国民学校と改称した

S17.2.18 シンガポール島陥落戦捷祝賀式挙行
S17.-.- 二宮尊徳像を金属回収として供出した

S18.1.1 二宮尊徳像の石像を再建した
S18.4.- 運動場南側道路に面した境に築堤した

S19.-.- B29爆撃機が度々空襲し、授業を中断することが毎日のように続いた

S21.1.4 連合軍司令部の指令により、学校で神社参拝、神道による祭式儀式が禁止される

S21.4.- 電話加入(西大島13番)
S21.7.- 斜面流下式コンクリートの製塩施設を造った

S22.4.1 大島中国民学校を大島中小学校と改称した
S22.5.- 4大節の祝賀式が廃止された

S23.4.1 児童数が増加して7学級とした

S24.7.23 南校舎改築起工式---小烏・四軒家・農協正頭に分散して授業
     (昭和24年歴代最多の生徒数343人)

S25.1.- 新校舎できたので分散授業廃止した
S25.4.1 学級編成を8学級とした
S25.4.30 大島中小学校を大島東小学校と改称(新制大島中学校が設立で誤りやすいので)

S26.4.1 学級編成を9学級とした。(管理人記・以後は学級数減少。平成30年統合により廃校)





大島中校在職の思い出  N男(大島中国民学校校長)

大島中校に赴任したのは、昭和13年4月であった。
来てみれば南には広々とした海原を臨め、北には緑の山を背負って、風光明媚なところであった。

学校は6学級でこじんまりとしていて、首席訓導は温厚なA君が何かとよく事情を知らせてくれた。

在職中ほとんどが大東亜戦争中で、学校教育も戦時体制のもとに行われたので統制もあり、苦労も多かった。
すべての物資が不足で、食塩なども少なくて海水を代用した時代であった。
学校でも校庭の一部で製塩研究所を設けて、濃塩水を造っていたのを覚えている。

終戦後は、アメリカの進駐軍が、日本の軍国主義や国家主義などを根元から打ち壊すために、あらゆる方面ににらみをきかせて、
小学校にも米兵が視察に何時来るかも知れぬとの情報もあり、校内の整理を心掛けるなど、心配する日々があった。



大島東小の思い出   H男(元大島東小教諭)

一番なつかしいのは校庭の藤棚です。
美しい白い花房が風に揺れる頃、よくこの下で授業をしました。
木が大きかったので一学級の児童が入ることができました。

昭和20年になって疎開が激しくなり、この学区も疎開の児童が相当多くなって、私が受け持っていた4年生などは2人掛の腰掛に3人掛けさせても、まだ足らなくなり、
教壇に本やノートを置いて座って授業したこともあります。
習字の時間には2人掛でないと書けないので、廊下も使用していたほどです。
児童数は一学級80人くらいまでになっていたと思います。
机の間を通って巡視することなど出来ませんでした。

学校で一番困っていたのは台風で、台風が来るたびに海岸の通学路が流失しました。
児童の安全に帰宅させるために、上の農道や裏道を通らせました。
高波のしぶきが間の工場を越えて運動場へ来るのは台風の度ごとでした。

13年近くお世話になり、その上校歌まで私のものを採用していただいて感謝に堪えません。


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下は大島中国民学校でなく”大島中尋常小学校”時代のもの







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