場所・広島県竹原市忠海町大久野島
訪問日・2006年9月26日
忠海の沖は、小説や映画でも知られた美しい”エデンの海”が広がる。
沖に浮かぶ大久野島には、東洋一の高さの大鉄塔が建ち大三島方面へ伸びている。
その大久野島は、要塞の島→毒ガスの島→うさぎの島と大転換をしてきた。
島内の電力を賄った火力発電所。
旧研究室。
「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行
造兵廠忠海製造所跡
地図から消され毒ガスを造った島
昭和4年(1929)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(のち東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)が開設される。
倒産しない官営の軍需工場は、町に活気を与え「久野島景気」と歓迎した。
ただ、そこで何が製造されるかは、知る由もなかった。
毒ガスは国際法で禁じられたが、各国で秘密に研究が進められ、日本もこれに倣った。
場所が大久野島に決まったのは、秘密保持と公害の面で居住地から隔離された島が適していたため。
東京で研究、大久野島で量産、船や列車で福岡県曽根へ運ばれて充填。
運用や訓練は千葉県習志野で行われ、中国各地で実戦に投入された。
イペリットやルイサイトなど多様の毒ガスや信号筒の製造が軌道に乗り、工場は拡張を重ねた。
他の軍関係施設同様に地図から消された島で、1.000名を越える人たちが危険な作業に携わった。
敗戦になると、毒ガス工場のことはすぐ占領軍の調査で知られることになる。
焼却されたり、船に積んで海に沈めるなど、粛々と工場の解体と毒ガス処分が行われた。
朝鮮動乱勃発によって米軍の弾薬基地、続いて弾薬解体処理工場場が置かれた。
現在は休暇村として国民の保養地となった。
ウサギは戦後、小学校が放した数羽のウサギが30年ほどの間に増えたものという。
戦後、大久野島関係者の多くが長い間後遺症に苦しんできた。
彼らのガンによる死亡率は一般の30倍ともいわれる。
毒ガス貯蔵庫。
「日本の島 産業・戦争遺産」 斎藤潤著 マイナビ出版 2018年発行
毒ガス工場跡
明治から大正にかけては芸予要塞の島だったが、昭和に入ると毒ガス工場の島に変身を遂げる。
1963年には国民休暇村となってリゾートの島に再度大変身。
1923年毒ガス研究を秘密裏に進めていた陸軍は、東京戸山ヶ原の科学研究所敷地内に毒ガス研究所や製造実験室の設置を決定。
その直後、関東大震災が発生して延期になる。
周辺人口も多く皇居も近いことから土地探しをはじめた。
各地の有力政治家軍人を巻き込み、陸軍軍需工場の激しい誘致合戦が起きる。
その結果、要塞が造られた後、軍縮のために放棄された大久野島に1927年白羽の矢が立った。
提灯行列で歓迎して祝ったという。
1929年忠海兵器製造所が完成し、毒ガスの生産を開始した。
最盛期、従業員は5.000人に達した。
その頃地図から消されてしまう。
1940年、技能者養成所を設け、近隣の高等小学校の卒業生たちを採用するようになる。
採用された人は、
島でのことは親兄弟にも一切口外しないという誓約書を書かされた。
1944年には原料不足で下火になる。
終戦時、3.000トン以上の毒ガスが残されていた。
大半の毒ガスは土佐沖120kmに運び、船ごと爆破して海洋投棄処分した。
その頃竹原周辺では、痰が絡んで息ができない人が多かった。
1949年頃から救済を求める運動がはじまり、実際に救済がはじまるのは1954年で、
その間に症状の重い人は亡くなった。
学徒の救済は、1970年代からはじまった。
訪問日・2006年9月26日
忠海の沖は、小説や映画でも知られた美しい”エデンの海”が広がる。
沖に浮かぶ大久野島には、東洋一の高さの大鉄塔が建ち大三島方面へ伸びている。
その大久野島は、要塞の島→毒ガスの島→うさぎの島と大転換をしてきた。
島内の電力を賄った火力発電所。
旧研究室。
「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行
造兵廠忠海製造所跡
地図から消され毒ガスを造った島
昭和4年(1929)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(のち東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)が開設される。
倒産しない官営の軍需工場は、町に活気を与え「久野島景気」と歓迎した。
ただ、そこで何が製造されるかは、知る由もなかった。
毒ガスは国際法で禁じられたが、各国で秘密に研究が進められ、日本もこれに倣った。
場所が大久野島に決まったのは、秘密保持と公害の面で居住地から隔離された島が適していたため。
東京で研究、大久野島で量産、船や列車で福岡県曽根へ運ばれて充填。
運用や訓練は千葉県習志野で行われ、中国各地で実戦に投入された。
イペリットやルイサイトなど多様の毒ガスや信号筒の製造が軌道に乗り、工場は拡張を重ねた。
他の軍関係施設同様に地図から消された島で、1.000名を越える人たちが危険な作業に携わった。
敗戦になると、毒ガス工場のことはすぐ占領軍の調査で知られることになる。
焼却されたり、船に積んで海に沈めるなど、粛々と工場の解体と毒ガス処分が行われた。
朝鮮動乱勃発によって米軍の弾薬基地、続いて弾薬解体処理工場場が置かれた。
現在は休暇村として国民の保養地となった。
ウサギは戦後、小学校が放した数羽のウサギが30年ほどの間に増えたものという。
戦後、大久野島関係者の多くが長い間後遺症に苦しんできた。
彼らのガンによる死亡率は一般の30倍ともいわれる。
毒ガス貯蔵庫。
「日本の島 産業・戦争遺産」 斎藤潤著 マイナビ出版 2018年発行
毒ガス工場跡
明治から大正にかけては芸予要塞の島だったが、昭和に入ると毒ガス工場の島に変身を遂げる。
1963年には国民休暇村となってリゾートの島に再度大変身。
1923年毒ガス研究を秘密裏に進めていた陸軍は、東京戸山ヶ原の科学研究所敷地内に毒ガス研究所や製造実験室の設置を決定。
その直後、関東大震災が発生して延期になる。
周辺人口も多く皇居も近いことから土地探しをはじめた。
各地の有力政治家軍人を巻き込み、陸軍軍需工場の激しい誘致合戦が起きる。
その結果、要塞が造られた後、軍縮のために放棄された大久野島に1927年白羽の矢が立った。
提灯行列で歓迎して祝ったという。
1929年忠海兵器製造所が完成し、毒ガスの生産を開始した。
最盛期、従業員は5.000人に達した。
その頃地図から消されてしまう。
1940年、技能者養成所を設け、近隣の高等小学校の卒業生たちを採用するようになる。
採用された人は、
島でのことは親兄弟にも一切口外しないという誓約書を書かされた。
1944年には原料不足で下火になる。
終戦時、3.000トン以上の毒ガスが残されていた。
大半の毒ガスは土佐沖120kmに運び、船ごと爆破して海洋投棄処分した。
その頃竹原周辺では、痰が絡んで息ができない人が多かった。
1949年頃から救済を求める運動がはじまり、実際に救済がはじまるのは1954年で、
その間に症状の重い人は亡くなった。
学徒の救済は、1970年代からはじまった。