しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

籠の鳥

2021年01月16日 | 大正

(島原大門  京都市下京区 2020.1.31) 


「日本の歴史14 「いのち」と帝国日本」  小松裕著 小学館 2009年発行

自由廃業運動

自由廃業運動が全国的に盛んになったのは、函館蓬莱町の遊郭丸山楼の娼妓坂井フタが、楼主に対して廃業届への捺印を求め、
それを拒否されたために訴訟を起こしたのが契機である。
1900年(明治33)に勝訴を勝ちとった。

廃娼運動の盛り上がりのなかで、その根拠は、文明国にあるまじき「国辱」という点に力が置かれ、娼婦たちの「人権」擁護という観点が薄かった。
娼妓を不道徳な存在として「醜業婦」(しゅうぎょうふ)と呼ぶ感覚だった。
ハンセン病への取り組み開始が、「国辱」意識にあったことを思いおこされる。

楼主たちは暴力団などを使って、自由廃業や廃娼運動に対抗した。
性病予防につながること、
一般婦女の「性の防波堤」になっているなどを理由に,公娼制度の必要性を強調していった。

性病を理由に兵役免除になる割合がもっとも高かったのは九州で、久留米師団では1.000人中58人にものぼった。
これは帝国の根幹をゆるがしかねないゆゆしき事態であった。
私娼に対する厳重な取り締まり、娼妓の検梅制度が強化されていった。



性の二重基準

内務省によれば、1924年(大正13)、全国の娼妓数は52.256人にのぼった。
こうした公娼制度を、日本は、植民地台湾と朝鮮にも輸出した。

山室軍平によれば、海外の日本人娼婦は、1914年で22.362人存在していた。「からゆき」さんである。
その数は、海外に在住する約300.0000人の日本人の1割弱におよんでいた。

女工も坑夫も娼妓も、前借金(せんしゃくきん)に縛られた存在だったが、
「籠の鳥」であった娼妓は、逃亡もままならない境遇に置かれていた。

女性に貞操を強制しておきながら、
男性が妾をおいたり遊郭に登楼したりする性的放縦を許容していたのである。
それは、帝国日本が典型的な男性中心社会であったことの証明でもあった。




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従軍看護婦

2021年01月16日 | 江戸~明治
戦争と看護婦


「日本の歴史14 「いのち」と帝国日本」  小松裕著 小学館 2009年発行
   

本確的な看護婦養成が始まったのは、1887年(明治20)に日本赤十字が創設されてからである。
日清戦争の開戦とともに、広島予備病院に看護婦21名を含む救護班が派遣されたが、
軍の上層部に軍隊内の風紀が乱れるなどの懸念が強かった。
入選基準に「なるべく年をとり、しかも美貌でない者」という一項をいれた。


日露戦争では、看護婦は患者輸送船に乗船して治療にあたったが、戦地に送られたのは男性の看護人だけだった。
実際に戦地に派遣されるようになるのは、第一次世界大戦中の青島出兵やシベリア出兵からであるが、まだその数は少なかった。

1919年(大正8)から陸軍看護婦制が採用され、満州事件から日中戦争の時期に本格的に戦地へ派遣されるようになる。
従軍看護婦の誕生である。

看護婦は日清戦争後から叙勲対象になり、戦病死者は靖国神社に祀られた。
看護婦として従軍することが、国家に対する「女子の忠」とされたのである。



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従軍看護婦


ウィキペディア

1901年(明治34年)12月の日本赤十字社条例(勅令223号)が改正され、
「陸海軍ノ戦時衛生勤務ヲ幇助ス」
「陸軍大臣、海軍大臣ハ第1条ノ目的ノ爲日本赤十字社ヲ監督ス」
「救護員ハ陸海軍ノ規律ヲ守リ命令ニ服スルノ義務ヲ負フ」
「看護婦長及看護人長ノ待遇ハ下士官ニ、看護婦、看護人ハ兵ニ準ス」
と規定され、日赤看護婦と陸海軍の関係は、不即不離のものとなる。

日露戦争においては2160名もの日赤看護婦が従軍し、39名の犠牲者を出した。

1919年(大正8年)、それまで平時の陸軍の病院には看護婦は全く存在しなかったが、
東京衛戍病院において試験的に看護婦を採用したところ、大変に評判がよかったので、翌年からすべての陸軍衛戍病院において看護婦を採用し、
「陸軍看護婦」と称するようになった。待遇は、婦長は「伍長相当待遇」看護婦は「二等兵相当待遇」であった。
戦時においては陸軍看護婦も日赤看護婦と同じく、外地での勤務も命じられた。


満州事変中の日本の従軍看護婦。(1931年9月)
日中戦争が勃発し戦線拡大すると、従軍看護婦の不足と従軍者の補充が大きな問題となった。
太平洋戦争勃発後の1942年には従来の救護看護婦(高等女学校卒業)を甲種看護婦に格上げし、新たに乙種看護婦(高等小学校卒業の学歴で、2年間の教育)という速成コースを設ける。
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、
延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。

太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。
応召中の日赤看護婦は15,368名であった。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。




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初めの頃は「なるべく年をとり、しかも美貌でない者」だったが、


太平洋戦争になると、逆に「なるべく若く、しかも美貌である者」になったのだろうか?
それとも、それは映画の世界だけ?


もっとも南の戦場、ラバウルに派遣された赤十字社の看護婦。美しい!!!!!!


東宝映画「さらばラバウル」の岡田茉莉子





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