(島原大門 京都市下京区 2020.1.31)
「日本の歴史14 「いのち」と帝国日本」 小松裕著 小学館 2009年発行
自由廃業運動
自由廃業運動が全国的に盛んになったのは、函館蓬莱町の遊郭丸山楼の娼妓坂井フタが、楼主に対して廃業届への捺印を求め、
それを拒否されたために訴訟を起こしたのが契機である。
1900年(明治33)に勝訴を勝ちとった。
廃娼運動の盛り上がりのなかで、その根拠は、文明国にあるまじき「国辱」という点に力が置かれ、娼婦たちの「人権」擁護という観点が薄かった。
娼妓を不道徳な存在として「醜業婦」(しゅうぎょうふ)と呼ぶ感覚だった。
ハンセン病への取り組み開始が、「国辱」意識にあったことを思いおこされる。
楼主たちは暴力団などを使って、自由廃業や廃娼運動に対抗した。
性病予防につながること、
一般婦女の「性の防波堤」になっているなどを理由に,公娼制度の必要性を強調していった。
性病を理由に兵役免除になる割合がもっとも高かったのは九州で、久留米師団では1.000人中58人にものぼった。
これは帝国の根幹をゆるがしかねないゆゆしき事態であった。
私娼に対する厳重な取り締まり、娼妓の検梅制度が強化されていった。
性の二重基準
内務省によれば、1924年(大正13)、全国の娼妓数は52.256人にのぼった。
こうした公娼制度を、日本は、植民地台湾と朝鮮にも輸出した。
山室軍平によれば、海外の日本人娼婦は、1914年で22.362人存在していた。「からゆき」さんである。
その数は、海外に在住する約300.0000人の日本人の1割弱におよんでいた。
女工も坑夫も娼妓も、前借金(せんしゃくきん)に縛られた存在だったが、
「籠の鳥」であった娼妓は、逃亡もままならない境遇に置かれていた。
女性に貞操を強制しておきながら、
男性が妾をおいたり遊郭に登楼したりする性的放縦を許容していたのである。
それは、帝国日本が典型的な男性中心社会であったことの証明でもあった。