しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「戦病死」

2021年01月19日 | 昭和16年~19年
戦病死とは何か---戦場と餓死




(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)

「日本の歴史 15巻」 大門正克著 小学館 2009年発行 



戦病死とはなんなのか。
戦病死とは食糧不足による栄養失調とマラリア、脚気などの病気、行軍による心身消耗が重なって餓死することである。

みずからも中隊長として中国戦線に参加した体験を持ち、戦後の軍事史研究の第一人者であった藤原彰は、晩年に、
日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち約6割が餓死だったとする研究を明らかにした。

藤原は、1942年のガダルカナル島の戦いからポート・モレスビー攻略戦、ニューギニアの戦い、44年のインパール作戦、メレヨン島など孤島への置き去り部隊、
フィリピン戦、中国戦線を詳細に検証し、大量餓死をもたらした要因について解明している。

無謀な作戦計画、情報の軽視、兵站地誌の調査不足、作戦参謀の独善、補給や兵士の人命の軽視、現地自活主義の破綻、降伏の禁止と玉砕の強制など、
日本軍隊の体質が大量の餓死につながったと説明する。


ニューギニアで戦病死が多かった理由を整理すると以下の三つになる。

一つ
大本営はニューギニアの地誌について知識をもたず机上の計画と作戦をたてた。
ニューギニアは日本の三倍もある巨大な島である。
全島が熱帯の密林、大河と湿地が多い、集落は海岸線に点在するだけ。中央に5.000mの山脈が連なる。

二つ
補給がきわめて軽視された。
自活の条件を欠く地域で、兵士たちは事実上放置された。

三つ
降伏の禁止と玉砕の強制
日本軍は兵士が降伏して捕虜になることを厳しく戒めた。
捕虜になるくらいなら死ねと、自決の方法まで教育された。
軍規の退廃現象がひろがり、放火や略奪、暴行などが多発した。


行軍と飢餓と病で極限状態になって、大量の餓死者が出現したのである。


生存率
師団長をはじめ師団司令部に属した人々は2/3が生きて帰れた。
それ以外は生存率が3割にとどまった。
階級によって大きな格差があったのである。





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天皇③天皇の戦争責任

2021年01月19日 | 昭和21年~25年
天皇の戦争責任



(東京裁判)


「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行


ポツダム宣言に戦犯追及は明記されていた。
日本側にも自主裁判を模索する動きはでたものの、「東京裁判」の場に委ねられた。

マッカーサーは1945年8月30日、ソープ准将に
「日本で最初の命令をする、東条将軍を逮捕しろ。
できるだけ早く同種のリストを作ってほしい」と指示した。

ソープ准将は、東条内閣の閣僚を中心に東郷外相、島田海相ら39人のリストを作った。
逮捕令が出た9月11日の夕、米軍の到着を確かめた東条は軍用ピストルで自らの左胸を撃った。
医師団の措置で未遂になった。

終戦とともに自決した軍人・軍属らは599人に及ぶ。
50.60代の幹部から20代の若者まで、大将から二等兵まで多岐にわたる。
戦争責任を取っての自決もあれば、戦犯として処断されるのを避けるものもあった。


「共同謀議罪」適用

英国は当初、裁判でなく即時処刑を主張した。
審議が長期化することを懸念した。
これに対しスティムソン米陸軍長官らは裁判方式を訴えた。
時間がかかる問題点は「共同謀議罪」を提案する。
二人以上の者が違法な行為をなそうと合意したことを以って犯罪とする。
米政府は、米国主導とするため権限を連合国最高司令長官に集中させることにした。

昭和20年12月2日、59人の逮捕令が出た。
衝撃的だったのは、梨本宮の名が含まれていた。
「皇族も例外扱いされない」という悲観的な見方が広がった。

12月6日、元首相近衛文麿に逮捕令が下る。
近衛自身は自らが追訴されるとは予想しておらず、
10月4日のマッカーサーとの会談でも「軍閥と極端な国家主義者が今日の破局に陥れた」と述べ、
すべての責任を軍閥などにかぶせる発言をしていた。
12月16日、近衛は邸宅で服毒自殺した。

拘禁した100人超の容疑者の中から誰を起訴するかの検討に入った。
この詰めの作業に天皇側近の内大臣だった木戸幸一が尋問に積極的に応じた。
対米強硬派だった佐藤賢了や武藤章を挙げ、さらに、いわゆる「木戸日記」を提出した。
もう一人、陸軍省局長の田中隆一も尋問に協力した。
田中は張作霖爆破の河本大作、満州事変の板垣征四郎、石原莞爾の名を挙げるなどした。



天皇の処遇問題

1945年8月29日、昭和天皇は内大臣木戸幸一に戦争責任者を連合国に渡すのは忍び難く、
「自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」と述べた。
木戸は、皇室廃止に結びつく可能性があると反対した。

9月から、米国務省、陸軍省、海軍省の三者調整委員会で昭和天皇の処遇をめぐる議論が始まった。
そこでは、
昭和天皇を退位させ、戦犯として追訴すべきだという意見と、
それでは混乱が生じるとの意見が拮抗していた。

10月2日、マッカーサーは腹心のフェラーズ准将から天皇制に関する覚書を受けたとった。
「もし、天皇が戦争犯罪に問われれば、政府の機構は崩壊し、大規模な暴動が避けられない。
占領期間は長引き、我々は日本人の信頼を失う」と記されていた。

1946年1月25日、マッカーサーは米陸軍参謀総長のアイゼンハワーに返信した内容は、フェラーズの覚書にほぼ沿っていた。
天皇が政治上の諸決定に関与したことを示す明白な証拠は発見されていないこと、
天皇を告発すれば大騒乱が起き、これを抑えるには100万の軍隊が必要なことも併せて伝えた。
これにより、マッカーサーが昭和天皇を裁判にかけないという方針は明確になる。
一方でオーストラリアは1月9日、昭和天皇が含まれた戦犯リストを出した。

天皇はなぜ開戦を阻止できなかったか
その説明が求められていた。
昭和21年3月18日~4月8日まで、計4日間天皇からの聞き取りが行われた。
(昭和天皇独白録)
「開戦の閣議決定を私が拒否していたなら、国内は必ず大内乱となり、日本は亡びる事になったであろうと思う。
終戦の際は、首相が裁断を求めたので事を裁いた」

オーストラリアの天皇追訴の主張は米国が抑え込む形となり、
極東委員会は46年4月3日、昭和天皇不起訴を決定した。


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天皇②天皇制の内なる危機

2021年01月19日 | 昭和元年~10年
昭和の初め、天皇制は世継ぎがなく危機を迎えた。(下記の①②③)
令和の始め、やはり世継ぎが不安定で①②③に加え、結婚しない自由④が追加され懸念は一層高まる。


・・・・



(大正10年皇太子訪欧)



日本の歴史14 「いのち」と帝国日本」  小松裕著 小学館 2009年発行

天皇制の内なる危機


治安維持法は、マルクス主義者を天皇制にとって最大の政治的異端とあぶりだし、徹底的に弾圧した。
こうして天皇制はさらに強化されたようにみえるが、天皇制の真の危機はその内部にあった。

皇太子裕仁は1921年(大正10)のヨーロッパ外遊で目の当たりにしたイギリスやオランダなどの皇室のありように、
大きな影響を受けて帰ってきた。

帰国後、皇太子は女官制度の改革に取り組むが「近代家族」への憧れがあった。
これまで、生まれた子供は里子に出すのが通例であったが、これからは自分の手もとで育てたい、
「家庭的団欒」を女官に気兼ねすることなく楽しみたい、というのである。
皇太子には一夫一妻制への強い意思があった。

天皇家が一夫一妻制を採用することになると、当然跡継ぎの問題が出てくる。
一夫一妻制の夫婦の間には、
①男児が生まれる②女児しか生まれない③どちらも生まれない、という三つの可能性しかない。
そのために皇室典範には、「庶子」の皇位継承について定められていた。
つまり、天皇が側室を置けるようにしていた。



1929年(昭和4)9月30日に第三子が生まれたころから、側近のなかに漠たる不安が生じ始めた。
そして、
1931年3月7日に生まれた第4子も女児だった。
周辺はざわめきはじめた。
たとえば、
宮内大臣は、元老西園寺公望に「養子」制度の可否を諮問した。
さらに、
「胎中天皇」の皇位継承の可能性、つまり皇后のお腹に子供がいる間に不幸にして天皇が亡くなった場合の皇位継承についても検討を開始した。
まぎれもなく天皇制の危機であった。

ところが1933年12月23日明仁親王が誕生したことで、皇位継承の危機は脱した。
こうして、②③のケースにどのように対応するかという問題は先送りされ、現在に至っている。



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天皇①宮中某重大事件

2021年01月19日 | 大正
宮中某重大事件


管理人が小学生の時は、毎年の身体検査で必ず色盲検査があった。
大正天皇の後継者の婚約者は色盲でないが、その家系に色盲者がいたようだ。
元老の第一人者である山県有朋は、それを理由に「婚約破棄」を迫り
”宮中某重大事件”と呼ばれる騒動になった。
結果山県の横やりは通らず、失脚した。






・・・・・・・・・・

「教養人の日本史(5)」 藤井松一著 社会思想社 昭和42年発行


大正天皇は、大正8年12月の議会開院式に出席がなく、病気がかなり重いことがわかった。
国民の間にもさまざまな噂が流れ、不治の脳病であると取りざたされた。
国民の期待と関心は皇太子裕仁親王にむけられるようになった。

その皇太子妃には、すでに婚約に久邇宮良子女王が内定していた。
皇太子と女王の婚約について暗い噂が流れた。
これは「宮中某重大事件」といわれ、ひそやかに国民につたえられた。

良子女王の母方である薩摩藩島津家には色盲の系統があるので、
天皇家の神聖を護るため婚約を破棄すべし、という運動が
長州閥の元老、枢密院議長山県有朋を中心に進められた。
「長閥の陰謀」を攻撃する久邇宮家や薩摩閥の松下正義の婚約推進運動も活発化した。

けっきょく大正10年2月、
「種々の噂あるやに聞くも、何ら変更なし」と宮内大臣の発表が行われた。
直後に宮相は辞任し、
山県有朋は辞表を出した。
時の首相原敬は、老練にこの事件をさばき、色盲事件は下火となった。

事件が収まったこの年3月、皇太子はヨーロッパ諸国訪問に旅立ち、9月帰国した。
11月、皇太子は摂政に任じられた。



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