場所・岡山県岡山市北区足守
製造・1990年(平成2年)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/61/1ba0e64c1b14f132ec30e2a95cd9122c.jpg)
「日本史探訪16」 角川文庫 昭和60年発行
司馬遼太郎 緒方富雄(医学者)
緒方洪庵
岡山県吉備郡足守町、
のどかな山陽地方の田園。そこが洪庵のふるさとである。
備中足守藩二万五千石。
洪庵は、この町のはずれに、三十三表四人扶持の武士の三男として生まれた。
後年、医学の修業中、按摩や玄関番をして学費をつないだというから、家はけっして裕福ではなかった。
洪庵の若いころの医学の主流は、漢方であった。
洪庵は西洋医学を蘭方を道を選んだ。
時に杉田玄白の『蘭学事始』より11年後、洪庵17歳の時である。
洪庵の特色は、何よりもその語学力の冴えにある。
彼の開いた適塾は、
いつしか医学塾にとどまらず、しだいに語学塾の性格が強い塾へと発展していった。
そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につけることにほかならなかった。
福沢諭吉の『福翁自伝』によれば、
「学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる。
日が暮れたからというて寝ようとも思わず頻りに本を読んでいる。
眠くなれば、机のうえに突臥して寝るか。
ついぞ本当に蒲団を敷いて枕をして寝るということは、只の一度もしたことがない」
医者を志しながらのちに軍事参謀となった村田良庵こと大村益次郎。
安政の大獄に処刑された橋本左内。
外交官として活躍した大鳥圭介。
衛生学の長与専斎。
明治を代表する思想家福沢諭吉。
適塾出身者の活躍分野は広い。
適塾の自由な雰囲気、それは庶民の町大坂の土地柄によるところが大きい。
適塾は異色の蘭学塾として発展し、
医者洪庵の評判もとみに高まった。
ついに江戸に召されて、将軍の侍医に任命される。
医師としては最高の地位についたが、過労で10ヶ月後倒れた。
洪庵54歳、維新の5年前のことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/ce/78582096d02655ed7c50e257030edfc3.jpg)
撮影日・2007年8月18日
製造・1990年(平成2年)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/61/1ba0e64c1b14f132ec30e2a95cd9122c.jpg)
「日本史探訪16」 角川文庫 昭和60年発行
司馬遼太郎 緒方富雄(医学者)
緒方洪庵
岡山県吉備郡足守町、
のどかな山陽地方の田園。そこが洪庵のふるさとである。
備中足守藩二万五千石。
洪庵は、この町のはずれに、三十三表四人扶持の武士の三男として生まれた。
後年、医学の修業中、按摩や玄関番をして学費をつないだというから、家はけっして裕福ではなかった。
洪庵の若いころの医学の主流は、漢方であった。
洪庵は西洋医学を蘭方を道を選んだ。
時に杉田玄白の『蘭学事始』より11年後、洪庵17歳の時である。
洪庵の特色は、何よりもその語学力の冴えにある。
彼の開いた適塾は、
いつしか医学塾にとどまらず、しだいに語学塾の性格が強い塾へと発展していった。
そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につけることにほかならなかった。
福沢諭吉の『福翁自伝』によれば、
「学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる。
日が暮れたからというて寝ようとも思わず頻りに本を読んでいる。
眠くなれば、机のうえに突臥して寝るか。
ついぞ本当に蒲団を敷いて枕をして寝るということは、只の一度もしたことがない」
医者を志しながらのちに軍事参謀となった村田良庵こと大村益次郎。
安政の大獄に処刑された橋本左内。
外交官として活躍した大鳥圭介。
衛生学の長与専斎。
明治を代表する思想家福沢諭吉。
適塾出身者の活躍分野は広い。
適塾の自由な雰囲気、それは庶民の町大坂の土地柄によるところが大きい。
適塾は異色の蘭学塾として発展し、
医者洪庵の評判もとみに高まった。
ついに江戸に召されて、将軍の侍医に任命される。
医師としては最高の地位についたが、過労で10ヶ月後倒れた。
洪庵54歳、維新の5年前のことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/ce/78582096d02655ed7c50e257030edfc3.jpg)
撮影日・2007年8月18日