しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

緒方洪庵像

2021年05月03日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区足守
製造・1990年(平成2年)






「日本史探訪16」 角川文庫 昭和60年発行

司馬遼太郎 緒方富雄(医学者)



緒方洪庵

岡山県吉備郡足守町、
のどかな山陽地方の田園。そこが洪庵のふるさとである。
備中足守藩二万五千石。

洪庵は、この町のはずれに、三十三表四人扶持の武士の三男として生まれた。
後年、医学の修業中、按摩や玄関番をして学費をつないだというから、家はけっして裕福ではなかった。

洪庵の若いころの医学の主流は、漢方であった。
洪庵は西洋医学を蘭方を道を選んだ。
時に杉田玄白の『蘭学事始』より11年後、洪庵17歳の時である。
洪庵の特色は、何よりもその語学力の冴えにある。
彼の開いた適塾は、
いつしか医学塾にとどまらず、しだいに語学塾の性格が強い塾へと発展していった。
そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につけることにほかならなかった。


福沢諭吉の『福翁自伝』によれば、
「学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる。
日が暮れたからというて寝ようとも思わず頻りに本を読んでいる。
眠くなれば、机のうえに突臥して寝るか。
ついぞ本当に蒲団を敷いて枕をして寝るということは、只の一度もしたことがない」


医者を志しながらのちに軍事参謀となった村田良庵こと大村益次郎。
安政の大獄に処刑された橋本左内。
外交官として活躍した大鳥圭介。
衛生学の長与専斎。
明治を代表する思想家福沢諭吉。
適塾出身者の活躍分野は広い。

適塾の自由な雰囲気、それは庶民の町大坂の土地柄によるところが大きい。


適塾は異色の蘭学塾として発展し、
医者洪庵の評判もとみに高まった。
ついに江戸に召されて、将軍の侍医に任命される。
医師としては最高の地位についたが、過労で10ヶ月後倒れた。
洪庵54歳、維新の5年前のことである。










撮影日・2007年8月18日





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畑中平之丞

2021年05月03日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市北木島町

北木島は、今はお笑いコンビ「千鳥」大悟の出身地で知られるが、
管理人が子供の頃は、もっとも勢いを感じる地域というイメージを持っていた。







「井原・笠岡・浅口の歴史」 太田健一監修  2009年発行

北木島の石材業


石材の採掘が本格的に行われだしたのは、伊予の国の畑中平之丞が多数の石工とともに
この北木島に移住してからで、
地元民の持ち山を賃借りして石材の採掘を大規模に始めたようである。
これに対して地元島民は、
危険で重労働を伴う採石場の仕事を敬遠し丁場の石工にはならず、
むしろ石材の加工業、販売業に進出した。
また地元島民にとって採石業者から支払われる地代(石材出荷額の一割)も大きな収入であった。

石材産業に依存した島民の生活水準は極めて高く、
そのためか水産や観光業の発達はいま一歩のところである。

戦前には明治神宮、桃山御陵、大阪府庁、日本銀行などのビルの壁・床の装飾用に北木石が使用され、
なかでも靖国神社の大鳥居(太さ1.8m、長さ12.7m、重量80屯)が金風呂港で出荷され、
北木石の名を全国に知らせることになった。

しかし平成の現在では中国石に押され、操業中の丁場は1~2ヶ所のみとなっている。

(森文忠)









「ひらけゆく笠岡」 笠岡市教育委員会  昭和35年発行

畑中平之丞

天保14年(1843)北木島村豊浦に生まれました。
北木島といえば石材といわれるほど、北木島の石は有名です。
彼は花崗岩の採掘方法や販路について日夜苦心して北木島の石を全国に紹介する基礎を作った人です。
同時に通信の不便な島のことを考えて、北木島郵便局の開設にも努力し、初代の郵便局長にもなりました。
島の人々から恩人としたわれましたが、昭和5年なくなりました。










撮影日・2016年8月11日


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