しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大湊和七像

2021年05月21日 | 銅像の人
場所・広島県尾道市長江 御袖天満宮参道



力石は尾道や鞆や笠岡や寄島で見たが、たぶん多くの湊に残っているのだろう。

”大湊和七”は明治初期の人で、力自慢で有名な人。








(Wikipedia)

力石

石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。
ほとんどの力石は60キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。
上限は様々で、中には300キロに達するものもある。
山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。
重さが異なる石を複数用意することが多かった。
置き場所は神社や寺院、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。

石に文字を刻むことも盛んに行われた。
「力石」という普通名詞としての名のほか、石の「固有名」、持ち上げた人の名と年月日。
しかし大半は無銘で、ただの大きな石。








力持ち・力試し

力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち(ばんもち)などという。
典型的には石を抱えて持ち上げる。
持ち上げ方は、
胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。
また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。
石に縄をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは、石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、
石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。

力試しに挑戦するのは主に村の若い男達であったが、
中高年の男達が加わる事も多かった。
武道を習うのが一般的でない村落のような環境では、格闘能力の優劣に繋がると見なされた。
中高年の男性が強い力を披露できることは、若者組の増長を抑える面でも重要だった。
娯楽が少ない環境では、力試しは若者達のスポーツの一種であった。
通過儀礼的に力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。
力試しの位置付けもまた多様である。

米問屋では働く若者を採用する時に力石を用いた。








岡山県総社市の総社宮の力持ち競争

(総社宮のHP)

力石のルール
石は重さの違う半貫(1.9キロ)から横綱力石(180キロ)の23種類があり、地上10センチ以上の高さで10秒間持ちこたえると成功。
自分が持てると思う石から始め、26貫(97.5キロ)を成功すると決勝に進出できる。
決勝は30貫(112キロ)以上の石8種類のうち、審判の指定する石に順次挑み、最後は横綱力石を持ち上げている時間で優勝を決める。



岡山県笠岡市の力石

(「笠岡の文化財」より)

笠岡市立郷土館の前庭に16個の力石が、文化財に指定されている。
江戸時代、寄港した帆船に物資を船積み・荷揚げする浜仲仕が、この石をかつぐことで体と精神を鍛え、力を試し、給金などを決めていたという。
大正末期まで、笠岡港の浜仲仕は東浜組と西浜組の2つのグループに分れていた。
最も重い力石は200kg以上の重さがあり、持ち上げた人の名前や江戸時代の年号などが刻まれている。




港の沖仲仕というイメージを持っていたが、
港以外にもあり、多くの意味合いがあり、ところにより採用・給金を決められていたようだ。



撮影日・2013年4月12日



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仮谷忠男

2021年05月21日 | 銅像の人
場所・高知県土佐清水市旭町 鹿島公園




(よさこいネット)

仮谷忠男像  かりやただおぞう
志半ばで倒れた、努力と信念の大臣
1913年5月30日~ 1976年1月15日

鹿島公園から、右手を胸前に掲げて清水港沖の海を見渡しているのは、高知県土佐清水市以布利出身の政治家・刈谷忠男の銅像である。
三木内閣の建設大臣に就任した後、本四連絡橋架設、激じん災害対策緊急整備事業の制度化などに尽力したが、
その激務に志半ばで倒れた彼を偲び、ゆかりの人達の声掛けによって県内外に寄付を募り完成に至った。







撮影日・2018年10月2日
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羽田武嗣郎

2021年05月21日 | 銅像の人
場所・長野県上田市 上田城跡公園




(Wikipedia)

羽田武嗣郎
はた ぶしろう

1903年4月28日~1979年8月8日(76歳没)

長野県小県郡和田村(現長和町)に教育者羽田貞義の三男として生まれる。
1937年、立憲政友会公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し、当選する。
「羽田書店」を創立する。社員にはのちに独立してみすず書房を創業する小尾俊人らがいた。

1939年の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新同盟(革新派、中島派)に所属。
1941年大政翼賛会中央訓練所錬成部副部長に就任する。
1942年、翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。

戦後日本進歩党の結成に参加するが、翼賛議員だったことが原因で公職追放になる。
1952年に追放解除となり政界復帰。
農林政務次官、自由党政調副会長を歴任する。1955年、自由民主党に参加する。

自民党では緒方派→石井派に所属し、党副幹事長、衆議院建設委員長などを務める。
1963年、脳出血の発作に襲われる。
病魔に苦しみながらも1967年、第31回総選挙に立候補し当選する。しかしその後も満足な政治活動が困難になり、1969年引退。
後援会の意向もあり長男の羽田孜が後継者となった。
1979年8月8日、76歳にて死去。

親族
羽田孜(長男)
羽田雄一郎(孫)
羽田次郎(孫)






撮影日・2017年9月26日

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オスカルとアンドレ

2021年05月21日 | 銅像の人
場所・兵庫県宝塚市 宝塚歌劇大劇場前~はなの道~


漫画家の池田理代子が少女雑誌に連載した人気漫画「ベルサイユのばら」は、
宝塚劇場で上演され国民的人気と話題になった。

オスカル!
アンドレ!

とテレビや新聞で、毎日見たり聞いたりするかのような日々だった。







(Wikipedia)
『ベルサイユのばら』は、池田理代子による漫画作品。
通称「ベルばら」。
フランス革命前から革命前期のベルサイユを舞台に、
男装の麗人オスカルとフランス王妃マリー・アントワネットらの人生を描く、史実を基にしたフィクション作品。


(Wikipedia)
『ベルサイユのばら』は、宝塚歌劇団のミュージカル作品。原作は池田理代子の同名漫画『ベルサイユのばら』。
1974年の初演以来再演を繰り返し、2006年1月9日には通算上演回数1500回を突破、
2014年6月27日には通算観客動員数500万人を記録した、
宝塚歌劇団史上最大のヒット作である。






劇場前の通りは、ほかにも銅像が立っている。









撮影日・2012年3月15日


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島津忠義

2021年05月21日 | 銅像の人
場所・鹿児島県鹿児島市照国町 照国神社

島津忠義は、薩摩の斉彬→久光→忠義とつづく藩主・知藩事。
実母は「お由良騒動」の由良、孫に昭和天皇の皇后がいる。

政治に関心がなかったのか、部下に有名な首相や大臣や将軍が多数いるが、本人の知名度は低い。





島津忠義
しまづ ただよし
1840年(天保11)~1897年(明治30)

島津久光の長男として生まれた。
1858年(安政5)、第29代薩摩藩主になった。
祖父の斉輿、父久光の補佐を受け藩の政治を行った。
斉彬のこころざしを受け継いで藩の政治の改革と陸海軍の充実に努めた。
1862年(文久2)の久光の率兵上京、幕政改革、生麦事件、薩英戦争には藩をあげて行動した。
また、イギリスとの関係を改善して、五代友厚などによる留学生を送り、紡績(せんいをより合せて糸にすること)機械を買って、磯に日本最初の紡績工場をつくった。
幕府を倒す時には官軍の主力になった。
その後、藩の土地や人民を朝廷に返した。
自らは鹿児島藩の知事になり、のちに貴族院議員になった。
幕末から明治維新の真っただ中に生きた忠義だが、性格は律気で、父久光の遺言で死ぬまでチョンマゲを切らなかったという。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)







撮影日・2013年8月8日



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愛野與一郎先生像

2021年05月21日 | 銅像の人
場所・佐賀県鹿島市大字高津原 旭ヶ岡公園


愛野與一郎先生は佐賀県出身の衆議院議員だった人。





Wikipedia)

愛野 興一郎(あいの こういちろう)
1928年4月18日 - 1998年3月20日)

父は実業家で元衆議院議員。
農協組合長、佐賀県議会議員、祐徳自動車副社長・社長。
1972年の第33回衆議院議員総選挙に自由民主党から立候補し初当選。当選回数9回
自民党では田中角栄→竹下登派に所属する。
1989年、済企画庁長官。
1992年、自民党を離党、新生党を結成した。
1998年、反小沢の旗頭であった鹿野道彦を代表とする新党・国民の声に参加した。同年3月20日死去(享年69)。





(鹿島城の石垣)




撮影日・2014年1月11日


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