しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

犬養木堂⑤5・15事件後

2021年05月15日 | 昭和元年~10年




「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行


5・15事件の裁判
5・15の軍事裁判は、横須賀の軍事法廷で行われた。
求刑は、死刑の大方の予想を裏切って、大半が無期であった。
減刑嘆願にことよせて軽くなり、
ついに禁固15年が最高刑であった、いっぽう民間人は求刑通り無期となった。



国民感情
犬養の暗殺犯は海軍中尉らの軍人であるが、
間接的に葬ったのは当時の日本の民衆である。
当時の日本の世論は、満州国の即時承認を強く要求していた。
その先頭に立ったのはマスメディア、とりわけ新聞だった。

満州や中国への侵略は軍閥・官僚だけが推進したのではなく、それと併せて日清戦争の頃から
国民の間に徐々に浸透してきた東洋人蔑視の感情があったことは見逃せない。
当時は幼い少年までが中国人を蔑称で呼んだりしていた。


助命嘆願
事件の実行犯への国民の熱烈な助命嘆願が澎湃(ほうはい)として日本全国にひらがった。
彼らを救国の英雄とまで祀り上げ、自らの小指を封筒に入れて助命を乞う人まで現れた。



内務省は5月16日、
「事件の性質お余りに重大なるに鑑み、直に公安維持の必要あり」という理由で
犯人の氏名経歴その他の発表を禁じた。
事件から1年を経た昭和8年5月17日、
司法・陸軍・海軍の三省から公表文が発表され,記事差し止めもようやく解除された。







「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書  1995年発行

いわゆる革新将校の規律違反を、
張作霖の爆殺事件の時も、
3月事件、
満州事変、
10月事件等に際しても、
厳罰に処することができなかったところに、最大の禍根があった。

5・15事件についても、
犯行の動機が純粋であるとか、
愛国の至情に出たものであるとか同情論ばかりが強調されて、
厳罰は行われなかった。



事件の1年余り後になって公表された司法、陸軍、海軍三省の共同声明は次の通りである。

 本件犯罪の動機および目的は、各本人の主張するところによれば、
近時わが国の情勢は、政治、外交、経済、教育、思想および軍事等あらゆる方面に行きづまりを生じ、
国民精神また頹廃を来たしたるを以って、現状を打破するに非ざれば、帝国を滅亡に導くの恐れあり。
しかしてこの行きづまりの根元は、政党、財閥および特権階級たがいに結託し、
ただ私利私欲にのみ没頭し、国防を軽視し、国利民福を思わず、腐敗堕落したるによるものなりとなし、
その根元を剪除(せんじょ)して、以って国家の革新を遂げ、真の日本を建設せざるべからずにあり。

今日冷静な頭でこの共同声明を読めば、1933年頃の日本人がすでに発狂していたと断定しなければなるまい。
共同声明と同時に発表された荒木陸軍大臣の次の談話は、されに驚くべき内容である。

 純真なるこれ等青年が、かくのごとき挙措に出たる心情を考えれば。、涙なきをえない。
真にこれが皇国のためになると信じて行ったことであるが故に、
この事件を契機として、再思三省を以て被告の心事を無にせざらんことを切望する。

これではまるで、虐殺された犬養首相の方が悪人で、
テロリストは「皇国のためになると信じた」愛国の志士だということになる。

そもそも荒木陸軍大臣は、11名もの陸軍士官学校の士官候補生が反乱罪を犯して犬養首相を襲撃し、射殺したからには、
当然その責任をとって辞職しなければならないはずである。
ところが反乱罪の被告たちを”純真”とか”愛国のため”とか、醜悪な運動をした。


5・15事件はほぼ確立された議会政治を葬り、帝国議会に基礎を置かない超然内閣時代に逆行させた。
そして荒木陸軍大臣のような無責任きわまる野心家がはばをきかせる時代が到来した。

5・15事件の被告をほめたたえて減刑しようという運動は、全国的規模で展開された。
被告たちを義士扱いにして、全国から被告たちを激励する手紙や贈物が送られてきた。
被告に結婚を申し込んだ女性も少なくなかった。

5・15事件は、日本国民の少なからぬ部分が精神に異常を来たしていることを示した。





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犬養木堂④5・15事件

2021年05月15日 | 昭和元年~10年
「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行


犬養暗殺の前奏曲

満州で関東軍が成功した後の陸軍は、すっかり逆上して正気ではなくなっていた。
犬養が、いつかやられるだろうという空気は、当時すでに横溢していた。

当時の政治家という職業は、軍人に比べて、さほど割が合わなかった。
当時の政治家の多くは憂国の至情に燃え、私財を投じて活動し、「井戸塀」と呼ばれた。
死んでみたら井戸と塀しか残っていなかった。

兵隊たちが血相をかえて土足で闖入してきて犬養にピストルをつきつけた時
「話せばわかる」と何回も言い続けた。
彼は終生議会主義の権化といわれた筋金入りの政治家だった。
「いや、わしは逃げない。そいつたちに会おう」と悠然としていた。


日本の軍国主義

昭和6年12月13日~翌年5月15日に至る犬養内閣ほど、激流する荒波に翻弄されたものはない。
満州事変、上海事変、満州国建国、リットン調査団。
国内的には、虎ノ門事件、前蔵相井上準之助の暗殺、総選挙で民政会が未曽有の大勝、三井合名の団琢磨の暗殺、そして5.15事件で終止符を打った。




「5・15事件  日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 

この事件はあくまで、それに先だつ
10月事件・3月事件、血盟団事件、その後につづく神兵団事件・226事件という一連の事件の関連の中でとらえなくては、明らかにできない。
犬養内閣でなくても、このような事件はおきたであろう。

犬養内閣は、陸軍青年の憧れの人ともいえる荒木貞夫を陸相とする内閣であった。
では、なぜに政党というものは彼らの目の敵にされたのであろうか。
5・15事件の檄文に、
「日本国民よ!刻下の祖国日本を直視せよ。
政治・外交・経済・教育・思想・軍事、
何処に皇国の姿ありや。
・・・
天皇の御名において君側の奸を葬れ。
国民の敵たる既成政党と財閥を倒せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を打破せよ!
農民よ労働者よ全国民よ、祖国日本を守れ。
起て!起って真の日本を建設せよ」
と既成政党とそれと結んだ財閥が日本を堕落させた元凶だと思い込んだのである。
だから犬養内閣であろうとなかろうと、殺される運命にあった。

それというのも、打ち続く凶作で、農村の貧しさは極限に達していた。
岩手県では餓死するのみという農家が10万戸のうち7万7千、全人口の半数に達する始末。
ナラ、トチの実を袋に入れて持ってくる児童。木の実まで不作で持ってくることのできない児童。
教室で空腹のあまり卒倒する学童は100人にのぼる有様。
娘を東京方面に売る者は後をたたない。

日本の政治経済をたてなおすことは左翼右翼に関係なく、当時国民の待望するところであった。
日本の農民を救うことを目的としていた。

事件は海軍将校有志を中心として、陸軍士官候補生の有志、血盟団残党、愛郷塾一派、が起こした。
4組に分かれて襲撃、
東京を暗黒街にするという目的は果たさなかった。
引き揚げた後東京憲兵隊に自首。
成果はあまりに少なく、単に犬養首相を殺したにとどまった。
ただ、その空気に軍部が便乗し軍部独裁への道をひたばしることになった。











サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」  保坂正康

議会の誕生と共に岡山県から当選し、ただの一回も落選することなく、その座を守った「憲政の神様」。
議会政治家として使命を全うし、テロの犠牲になった悲劇の政治家であった。

5.15事件は奇妙な事件であった。
とくに軍人側には存分に法廷で弁明の機会が与えられた。
自分たちは自分自身のことなどこれっぽちも考えていない。考えているのはこの国ことだけ。軍の指導者は、この国の改革について考えてほしい。
テロの決行者は英雄だとの受け止め方が一気に広がった。
テロの犠牲になったはずの犬養家のほうが社会的な制裁を受けることになったのだ。

事件当日、首相官邸にいた11歳の少女は祖父の死をどのようにみたか?
道子氏はこのような歪な日本社会を具体的な作品に書き残している。
昭和6年12月、政友会が与党になり、その代表であった犬養毅は元老西園寺公望の推挙もあり、天皇から大命が降下される。
満州事変から3ヶ月ほどあとのことだ。
満州事変解決を目指して動くと、森恪内閣書記官長は激越な調子で食ってかかった。
「兵隊に殺されるぞ」森は閣議後に、捨てるように言った。
『兵隊に殺させるという情報が久原房之助政友会幹事長の筋に入っている』、父(犬養健)が外務省から密かな電話を受けたのはその晩であった。この情報は確かだったのである。

道子氏は、こうした動きを当時から聞きとめ、メモに残していたのである。
「あの事件は本当にひどい事件でした。テロに遭った私たちのほうが肩を狭めて歩く時代だったのですから。何か基軸になるものが失われていたのですね」。






「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書  1995年発行

犬養首相の射殺

1932年5月15日午後5時半ごろ、首相官邸の表門と裏門との二組に分かれて侵入した暴徒は、
首相官邸日本館食堂で犬養首相を発見し、
日本間客室へ首相を連れ込み、拳銃で首相を射殺した。
犬養首相の死亡時刻は5月15日午後11時20分であった。








「狼の義 新・犬養木堂伝」  林・堀川共著 角川書店  2019年発行



昭和7年5月15日、第29代内閣総理大臣、犬養毅は軍の凶弾に斃れた。
内務省は、当局にによる取り調べが終わるまで一切の報道を禁じた。
『九州日報(現・西日本新聞)の菊竹六鼓だけが軍閥を批難する執念の記事を一年にわたって書き続けたが、
他の新聞社はおしなべて沈黙の時に入った。
死に体となっていたのは政党だけではなかった。
記者魂も、とうに死んでいたのである。


午後5時半、二台のタクシーが総理大臣官邸に到着した。
一台は表門、もう一台は裏門近くである。

「旦那様、大変です、大変です!」
今度は護衛の巡査が血相を変えて飛び込んできた。
「総理、大変です!暴漢が乱入しました、避難してください!」
そうしているうちに、何度か拳銃の発砲音が響く。
「総理、逃げてください、逃げてください!」
「いや、逃げん」

「なあに、心配はいらん。そいつらに会って話を聞こう」
「君らはなぜ、このようなことをする。まず理由を聞こう」
「ああ、そのことか。それならば話せばわかる」

犬養は応接間に入った。
客人用の煙草入れを開けた。
「君らもどうだ」
「おい、靴ぐらい脱いだらどうじゃ」

三上中尉が言葉をひねりだした。
「何か言い残すことがあれば、早く言え」
「撃て!撃て!問答はいらん!」
パン ダン
「引き揚げろ!」

「旦那様、傷は浅いです」
「テル、煙草に火をつけてくれ」
「テルよ、今の若いもんをもう一度,呼んでこい。よく話して事情を聞かせる」

「お父さん、どうしました、健ですよ」
「おじいちゃま!おじいちゃまあ!」
祖父の枕元で声を限りに泣き叫ぶ道子を、健は止めなかった。
「テル、帰ろう」
二度繰り返された言葉が最後となった。


事件の11日後、海軍元大将斎藤実を総理大臣とする挙国一致内閣が誕生。
4ヶ月後の9月15日、日本政府は満州国を承認した。

その死から13年間、この国が焦土と果てるまで、政党政治が復活することは二度となかった。







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