場所・福岡県田川市伊田 田川市石炭記念公園
田川市
(Wikipedia)
明治から1960年代にかけて
明治末から、田川は三井を中心とした炭鉱の街として繁栄した。
1900年、三井田川鉱業所が設立されると、仕事を求めて全国から移住者が訪れた。
田川は筑豊最大の炭都として栄え、1943年、後藤寺町と伊田町が合併し、田川市が誕生。
戦後、1950年代には人口が10万人を突破した。
しかし、1960年代のエネルギー革命でエネルギー源が石炭から石油に転換すると、石炭産業にかげりが見え始めた。
1964年、三井田川鉱業所は閉山。
その後は新会社の新田川炭鉱が事業を引き継ぐ形で操業を始めたが、1969年に閉山。
この影響で、市内に残っていた小規模炭鉱も閉山を強いられ、1971年に田川市内の炭鉱は全て閉山した。
「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行
筑豊炭田はすでに文明10年(1478)に遠賀郡で土民が薪として採掘していた。
江戸時代になると上方にも石炭が燃料として使われた。
元禄時代になると農村だけでなく、城下町でも風呂の燃料として普及しはじめた。
製塩ようにも用いられた。
1750年頃には筑豊の石炭が県外に販路を拡大した。
農民の炭鉱夫で、庄屋が運営していた。
三池炭田は1721年から始まった。柳川藩。
筑豊には徳川時代より小経営が多く、三池は埋蔵量も多く,炭層も厚く、藩の経営によっていた。
製塩の燃料、外国船の燃料ん、用途拡大されていった。
三池では囚人が労働が86%を占めていた。三池は明治21年三井に払い下げされた。
筑豊は零細が多く、坑内の水との戦いであった。
蒸気ポンプの出現で軌道にのった。
炭量の増加は輸送問題を引き起こしてきた。
坑口から馬の背で最寄りの川岸に運ばれ、そこから「ひらた」と呼ばれる川舟に積まれ、遠賀川を下り芦屋・若松に運ばれた。
地元資本として三菱・三井に対抗したのは、
安川敬一郎・貝島太助、麻生太吉であった。”筑豊の御三家”と呼ばれた。
明治21年から海軍が直属の炭坑を開抗、30年頃払い下げ、三井や三菱が入手した。
明治26年から三池を合わせると60%を占めるようになった。
赤い煙突目当てにゆけば 米のまんまが あばれ食い
と、石炭景気に筑豊の赤レンガの煙突をめざして抗夫は集まってきたが、
かれらはいつも事故の危険に身をさらしていた。
嫁に行くときゃ 抗夫に行くな
ガスがばれたら 若後家よ ゴットン
と、保安設備のほとんどない地底で、落盤の危険にさらされながら歌ったゴットン節は、
明治30年ごろ、伊田地方の選炭場の歌となり、たちまち筑豊一帯にひろがった。
「筑豊炭鉱誌」(明治31年刊)につぎのように記す。
彼等の労働は地下幾百尺の底にて一点のカンテラを力として暗黒界裡に労働す。
その炭層薄くして天井の高さ四尺以下に及ぶものは匍匐(ほふく)して切羽に近づき
坐して炭塊を採掘し、甚だしきは匍匐のまま鶴嘴(つるはし)を振って採炭すること稀ならず、・・」
抗夫も相当な稼ぎになることもあった。
しかし何故危険な労働を強制されたのか。
かれらを炭抗に金しばりにしたのは、
筑豊特有の”納屋制度”と呼ばれる中間搾取機構である。
会社は”納屋頭”とよばれる人入れ稼業の親分と契約し、仕事を請け負わせた。
親分のもと抗外の生活までを支配した。
昭和の初年までつづいた。
昭和の初め、
炭抗夫の1/4は女抗夫であった。(昭和8年禁止)
盧溝橋事件で戦時体制にはいると、政府は朝鮮総督府を通じて多くの朝鮮人労働者の炭坑への移入をはかった。
禁止されていた女子の入坑を許可した。
太平洋戦争が始まると、労働社不足はさらに深刻化し、捕虜も使われた。
昭和20年8月の炭坑労働者は25万人であったが、
そのうち朝鮮人7万、捕虜3.500人、中国人5.600人と記録されている。
「教養人の日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行
安保改定阻止の闘争は、経済的好況下での闘争であったが
”岩戸景気”の大きな例外は石炭産業であった。
石炭産業の斜陽化が叫ばれた。その斜陽化のしわよせは炭鉱労働者に向けられた。
29年以降、民間産業労働者のもっとも戦闘的な組織であるといわれる炭労に対して、
日本独占資本の総力をあげての挑戦が開始された。
独占ブルジョアジー自身が「総資本対労働者の対決」と呼号したこの攻撃が、
安保改定への性急な足どりの一環として開始された。
「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行
空前絶後の炭坑争議から3年後、
昭和38年11月9日、三池の三川鉱で炭塵爆発がおこり、死者458人と約700人の一酸化炭素ガス中毒患者などの重軽傷者がでた。
筑豊には今、炭抗が数えるほどしかない。
筑豊の象徴であった三角錐のボタ山も崩れ、くずされて工場に学校に住宅地に変わっていく。
筑豊に生きた人びとは歯ぎしりしている。
田川市
(Wikipedia)
閉山から現在まで
炭鉱の閉山後、全盛期の半分近くまで人口は減少したが、産業構造の転換に向けた取り組みが行われている。
工業では、北九州工業地帯に近い地の利を活かして炭鉱跡地を工業団地として再生し、企業の誘致が進められている。
医療・福祉では、1992年、医療・福祉の人材の育成を目指し、伊田地区に福岡県立大学が設立された。
近年では、田川市石炭・歴史博物館が所蔵している山本作兵衛の炭鉱記録画がユネスコ世界記憶遺産に登録され、観光客も増えている。
雇用や生活保護の問題も依然として残っているが、自立に向けての努力が続けられている。
撮影日・2017年2月14日
田川市
(Wikipedia)
明治から1960年代にかけて
明治末から、田川は三井を中心とした炭鉱の街として繁栄した。
1900年、三井田川鉱業所が設立されると、仕事を求めて全国から移住者が訪れた。
田川は筑豊最大の炭都として栄え、1943年、後藤寺町と伊田町が合併し、田川市が誕生。
戦後、1950年代には人口が10万人を突破した。
しかし、1960年代のエネルギー革命でエネルギー源が石炭から石油に転換すると、石炭産業にかげりが見え始めた。
1964年、三井田川鉱業所は閉山。
その後は新会社の新田川炭鉱が事業を引き継ぐ形で操業を始めたが、1969年に閉山。
この影響で、市内に残っていた小規模炭鉱も閉山を強いられ、1971年に田川市内の炭鉱は全て閉山した。
「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行
筑豊炭田はすでに文明10年(1478)に遠賀郡で土民が薪として採掘していた。
江戸時代になると上方にも石炭が燃料として使われた。
元禄時代になると農村だけでなく、城下町でも風呂の燃料として普及しはじめた。
製塩ようにも用いられた。
1750年頃には筑豊の石炭が県外に販路を拡大した。
農民の炭鉱夫で、庄屋が運営していた。
三池炭田は1721年から始まった。柳川藩。
筑豊には徳川時代より小経営が多く、三池は埋蔵量も多く,炭層も厚く、藩の経営によっていた。
製塩の燃料、外国船の燃料ん、用途拡大されていった。
三池では囚人が労働が86%を占めていた。三池は明治21年三井に払い下げされた。
筑豊は零細が多く、坑内の水との戦いであった。
蒸気ポンプの出現で軌道にのった。
炭量の増加は輸送問題を引き起こしてきた。
坑口から馬の背で最寄りの川岸に運ばれ、そこから「ひらた」と呼ばれる川舟に積まれ、遠賀川を下り芦屋・若松に運ばれた。
地元資本として三菱・三井に対抗したのは、
安川敬一郎・貝島太助、麻生太吉であった。”筑豊の御三家”と呼ばれた。
明治21年から海軍が直属の炭坑を開抗、30年頃払い下げ、三井や三菱が入手した。
明治26年から三池を合わせると60%を占めるようになった。
赤い煙突目当てにゆけば 米のまんまが あばれ食い
と、石炭景気に筑豊の赤レンガの煙突をめざして抗夫は集まってきたが、
かれらはいつも事故の危険に身をさらしていた。
嫁に行くときゃ 抗夫に行くな
ガスがばれたら 若後家よ ゴットン
と、保安設備のほとんどない地底で、落盤の危険にさらされながら歌ったゴットン節は、
明治30年ごろ、伊田地方の選炭場の歌となり、たちまち筑豊一帯にひろがった。
「筑豊炭鉱誌」(明治31年刊)につぎのように記す。
彼等の労働は地下幾百尺の底にて一点のカンテラを力として暗黒界裡に労働す。
その炭層薄くして天井の高さ四尺以下に及ぶものは匍匐(ほふく)して切羽に近づき
坐して炭塊を採掘し、甚だしきは匍匐のまま鶴嘴(つるはし)を振って採炭すること稀ならず、・・」
抗夫も相当な稼ぎになることもあった。
しかし何故危険な労働を強制されたのか。
かれらを炭抗に金しばりにしたのは、
筑豊特有の”納屋制度”と呼ばれる中間搾取機構である。
会社は”納屋頭”とよばれる人入れ稼業の親分と契約し、仕事を請け負わせた。
親分のもと抗外の生活までを支配した。
昭和の初年までつづいた。
昭和の初め、
炭抗夫の1/4は女抗夫であった。(昭和8年禁止)
盧溝橋事件で戦時体制にはいると、政府は朝鮮総督府を通じて多くの朝鮮人労働者の炭坑への移入をはかった。
禁止されていた女子の入坑を許可した。
太平洋戦争が始まると、労働社不足はさらに深刻化し、捕虜も使われた。
昭和20年8月の炭坑労働者は25万人であったが、
そのうち朝鮮人7万、捕虜3.500人、中国人5.600人と記録されている。
「教養人の日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行
安保改定阻止の闘争は、経済的好況下での闘争であったが
”岩戸景気”の大きな例外は石炭産業であった。
石炭産業の斜陽化が叫ばれた。その斜陽化のしわよせは炭鉱労働者に向けられた。
29年以降、民間産業労働者のもっとも戦闘的な組織であるといわれる炭労に対して、
日本独占資本の総力をあげての挑戦が開始された。
独占ブルジョアジー自身が「総資本対労働者の対決」と呼号したこの攻撃が、
安保改定への性急な足どりの一環として開始された。
「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行
空前絶後の炭坑争議から3年後、
昭和38年11月9日、三池の三川鉱で炭塵爆発がおこり、死者458人と約700人の一酸化炭素ガス中毒患者などの重軽傷者がでた。
筑豊には今、炭抗が数えるほどしかない。
筑豊の象徴であった三角錐のボタ山も崩れ、くずされて工場に学校に住宅地に変わっていく。
筑豊に生きた人びとは歯ぎしりしている。
田川市
(Wikipedia)
閉山から現在まで
炭鉱の閉山後、全盛期の半分近くまで人口は減少したが、産業構造の転換に向けた取り組みが行われている。
工業では、北九州工業地帯に近い地の利を活かして炭鉱跡地を工業団地として再生し、企業の誘致が進められている。
医療・福祉では、1992年、医療・福祉の人材の育成を目指し、伊田地区に福岡県立大学が設立された。
近年では、田川市石炭・歴史博物館が所蔵している山本作兵衛の炭鉱記録画がユネスコ世界記憶遺産に登録され、観光客も増えている。
雇用や生活保護の問題も依然として残っているが、自立に向けての努力が続けられている。
撮影日・2017年2月14日