しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

佐々木小次郎

2021年05月02日 | 銅像の人
場所・山口県岩国市  吉香公園


”佐々木小次郎”は小学校にあがる前から知っていた。
パッチンや漫画によく登場していた。

岩国に小次郎像があるのは、吉川英治「宮本武蔵」で小次郎の生誕地になっているから。
武蔵も小次郎も謎、というか不明なことが多いようだ。






佐々木小次郎

?~慶長17年(1612)?
江戸時代の剣術家。
越前生まれという。
諸国武者修行中に、つばめ返しの剣法をあみだす。
慶長17年(1612)宮本武蔵と船島(巌流島)で戦い敗れる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行









「時代小説で読む日本史」  末国善己 文芸春秋 2011年発行

佐々木小次郎

武道弾圧の影響もあり、終戦直後には剣豪小説が下火になっている。
武道の復権は、1948年にGHQ黙認のもとで開催された剣道大会から始まり、翌年事実上公認となる。
戦後初の長編剣豪小説として連載されたのが、村上元三『佐々木小次郎』(1949.12~1950.12)である。

何ものにも縛られず、自由恋愛を享受している小次郎は、敗戦の痛手とは裏腹に、
戦後民主主義に自由と希望を見出していた当時の若者の象徴といえる。




司馬遼太郎『宮本武蔵』(1967)では、
武蔵のライバル小次郎の燕返しを、
「飛燕が身をひるがえす、その燕の翻転と同時に小次郎の剣も跳ね、燕を斬りおとす」。
いってみれば、早く動く物体よりも早く剣をすり下ろせば斬れるというのが、小次郎の剣の極意なのだ。

武蔵は燕が
「どういう姿勢をとり、どう逃げ、どう滑空するのか、ということを一瞬で見さだめる」ことができれば、
太刀さばきはゆるやかでも燕は斬れるという。

日本が生き残るためには、武蔵的な技術者を養成する必要がある、というテーマを司馬は武蔵に込めたのである。







撮影日・2009年5月23日




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芭蕉 (多太神社)

2021年05月02日 | 銅像の人
場所・石川県小松市   多太神社



兵の夢の名残の甲あり ただコオロギの鳴くにまかせて  万智







むざんやな甲のしたのきりぎりす  芭蕉





人はなぜこんなにも戦ってきたのだろう。
戦場では殺さねば殺されるのがもののふのならいではあるが、
殺して生き残っていけば、それだけ悪い因果を積み重ねてしまうのである。
それらの因果は必ず自分に報いる。

歴史をひもとけば、そこにあるのは無数の死である。
私たちは古人の死体の上に生きているといえる。
殺し合って相手を殺し、勝って生き残ったとしても、
必ず近いうちに死にとらえられる。
逃がれるすべはないのである。
それなら殺し合わなければよいのに、殺し合う。


七十二歳の実盛は討たれ、
木曽義仲の郎党である樋口次郎に首の検分をされた。
甲の下に見えたのは、墨で染めた白髪首であった。
義仲は義経の軍に討たれ、樋口次郎は斬罪に処せられて散った。

「新・おくのほそ道」  俵万智・立松和平  河出書房新社  2001年発行











撮影日・2020年1月28日  



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芭蕉 (封人の家)

2021年05月02日 | 銅像の人
場所・山形県最上町  「旧有路家住宅」(封人の家)






「新・おくのほそ道」  立松和平  河出書房新社  2001年発行

陸奥から出羽へと抜ける山刀伐峠には、
国境を守る番人の家、すなわち「封人の家」が今もある。
風雨のため芭蕉が三日間閉じ込められたといういう家は、茅葺の大きな家である。

まわりは山川草木の山気があふれだしているような鬱勃(うつぼつ)たる森林で、
ここで進退のきわまってしまった芭蕉は、どんなにか心細かったことであろう。
旅人は、広間で雑魚寝である。
どこまでも気持ちは沈んでいくのであるが、
こんな時こそ俳諧には、諧謔(かいぎゃく)という機知があるのだ。

私がいった時、「封人の家」は人の影が断えがらんとして清潔で、土産物などを売っていた。
それでも芭蕉の途方に暮れた心情は、どうにか感じることができた。
そこで一句。

蚤虱 馬さえ見えず みそさざえ 












撮影日・ 2019年6月30日  





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