場所・山口県岩国市 吉香公園
”佐々木小次郎”は小学校にあがる前から知っていた。
パッチンや漫画によく登場していた。
岩国に小次郎像があるのは、吉川英治「宮本武蔵」で小次郎の生誕地になっているから。
武蔵も小次郎も謎、というか不明なことが多いようだ。

佐々木小次郎
?~慶長17年(1612)?
江戸時代の剣術家。
越前生まれという。
諸国武者修行中に、つばめ返しの剣法をあみだす。
慶長17年(1612)宮本武蔵と船島(巌流島)で戦い敗れる。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行

「時代小説で読む日本史」 末国善己 文芸春秋 2011年発行
佐々木小次郎
武道弾圧の影響もあり、終戦直後には剣豪小説が下火になっている。
武道の復権は、1948年にGHQ黙認のもとで開催された剣道大会から始まり、翌年事実上公認となる。
戦後初の長編剣豪小説として連載されたのが、村上元三『佐々木小次郎』(1949.12~1950.12)である。
何ものにも縛られず、自由恋愛を享受している小次郎は、敗戦の痛手とは裏腹に、
戦後民主主義に自由と希望を見出していた当時の若者の象徴といえる。
司馬遼太郎『宮本武蔵』(1967)では、
武蔵のライバル小次郎の燕返しを、
「飛燕が身をひるがえす、その燕の翻転と同時に小次郎の剣も跳ね、燕を斬りおとす」。
いってみれば、早く動く物体よりも早く剣をすり下ろせば斬れるというのが、小次郎の剣の極意なのだ。
武蔵は燕が
「どういう姿勢をとり、どう逃げ、どう滑空するのか、ということを一瞬で見さだめる」ことができれば、
太刀さばきはゆるやかでも燕は斬れるという。
日本が生き残るためには、武蔵的な技術者を養成する必要がある、というテーマを司馬は武蔵に込めたのである。

撮影日・2009年5月23日
”佐々木小次郎”は小学校にあがる前から知っていた。
パッチンや漫画によく登場していた。
岩国に小次郎像があるのは、吉川英治「宮本武蔵」で小次郎の生誕地になっているから。
武蔵も小次郎も謎、というか不明なことが多いようだ。

佐々木小次郎
?~慶長17年(1612)?
江戸時代の剣術家。
越前生まれという。
諸国武者修行中に、つばめ返しの剣法をあみだす。
慶長17年(1612)宮本武蔵と船島(巌流島)で戦い敗れる。
「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行

「時代小説で読む日本史」 末国善己 文芸春秋 2011年発行
佐々木小次郎
武道弾圧の影響もあり、終戦直後には剣豪小説が下火になっている。
武道の復権は、1948年にGHQ黙認のもとで開催された剣道大会から始まり、翌年事実上公認となる。
戦後初の長編剣豪小説として連載されたのが、村上元三『佐々木小次郎』(1949.12~1950.12)である。
何ものにも縛られず、自由恋愛を享受している小次郎は、敗戦の痛手とは裏腹に、
戦後民主主義に自由と希望を見出していた当時の若者の象徴といえる。
司馬遼太郎『宮本武蔵』(1967)では、
武蔵のライバル小次郎の燕返しを、
「飛燕が身をひるがえす、その燕の翻転と同時に小次郎の剣も跳ね、燕を斬りおとす」。
いってみれば、早く動く物体よりも早く剣をすり下ろせば斬れるというのが、小次郎の剣の極意なのだ。
武蔵は燕が
「どういう姿勢をとり、どう逃げ、どう滑空するのか、ということを一瞬で見さだめる」ことができれば、
太刀さばきはゆるやかでも燕は斬れるという。
日本が生き残るためには、武蔵的な技術者を養成する必要がある、というテーマを司馬は武蔵に込めたのである。

撮影日・2009年5月23日