場所・長崎県平戸市生月町御崎
突組の規模
寛文2年(1662)の平戸の突組・吉村組では、17艘の鯨船に226人の乗組員、本船(輸送船)2艘の乗組員が9人、納屋の部門に43人、
ほかに鯨商品の売買にあたる商人納屋が17人、で一組の人数は295人になる。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行

鯨は冬場に南下し、春になると北上する。
突組の場合、特定漁場に対する拘束は小さいため、冬浦と春浦を別の漁場で操業することも多い。
12月にはいると鯨を求めて小呂ノ島(福岡市)や沖ノ島(玄海町)方面にも船を出す。
突取捕鯨法では、しゃにむに鯨を追跡しながら、できるだけ多くの銛を打ち込んで、行き足を止める必要があり、
快速でまとまった数の鯨船が必要とされた。
前作事
鯨組が鯨を取る期間は冬から春にかけてだが、
実質的な前作事(機材の修理・製作などの準備)は夏から始まる。
西海では8月中旬、網加子として雇われた瀬戸内海の漁民の先発隊が到着し、
鯨組に用いられる芋網の制作にいそしむ。
鯨組に用いる船も、船大工によって修理・新造された。
ととえば、生月の益富・御崎組では毎年、
勢子船を3艘、持双船を1艘、双海船を1艘ずつ新造した。
鍛冶屋も多忙を極めた。
銛や剣、各種包丁も膨大な数になった。
桶屋も鯨油を詰める四斗樽の制作に忙しい。
こうした準備のなか、各地から雇い入れた加子や羽指らが到着する。
鯨の発見
山見と番船
鯨の通る海域を監視できる高所・岬・小島の上。
山見の人は、浮上する鯨の呼吸(汐吹き)を探す、それで進行方向や鯨の種類もわかる。
朝から夕暮れまで。深酒や夜更かしなど視力や集中力に影響することは控えた。
鯨の追い込み
発見の後、勢子船が漕ぎ出し、鯨を網代に向かって追い立てた。
網代で待機していた双海船は合図で網を張る。
鯨を取る網でなく、泳ぎを遅くする網。
銛、剣を打つ
とくに一番銛は大変な名誉とされ、高い報酬が与えられた。
何本もの銛を打たれ、鯨は疲労を重ねる。
鯨が鈍ったところで剣を打つ。
鼻切りと持双掛け
一連の攻撃の後、羽指が鼻切包丁を持って海に飛び込む。
鯨の背中によじのぼり鼻腔に包丁でえぐって綱を通す穴をあけた。
解体・加工
解体
広い砂浜を利用した所に尻尾から上げた。
砂場は解体後の各部位を置くのに都合よく、
解体するため自由に動き回れる、
潮の干満で血などの汚れを洗い流せた。
皮身の脂から油を取る。
ある程度の大きさに切り分け、平釜に順次投入され煎られる。溶けて液状になる。柄杓で汲み取る。
赤身からは食用の塩蔵肉を作る。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行

遠隔地への流通
寛永9年(1632年)平戸オランダ商館の日記には、鯨油を積んだ船が江戸に到着したとある。
当時流通した鯨製品としては、
食用の塩蔵鯨肉もあるが、
とくに灯油としての鯨油が大きな割合を占めたと考えられる。
細工用の髭や筋も需要があった。
江戸中期以降、農薬としての鯨油の使用が始まると、河川船運や陸上輸送で内陸に運ばれた
明治30年前後から長崎が鯨肉の重要な集散地となったが、明治40年代には福岡、下関が販売の中心となった。
このころから大坂や兵庫など阪神方面でも、鯨肉の販売量が急速に拡大している。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行
身分の高い人のごちそうだったクジラ
仏教が信仰されるようになって、日本では、けものの肉を食べることが少なくなりましたが、
イルカやクジラは魚だと考えられていたため、奈良平安時代の貴族たちのあいだで、ごちそうとして食べられていました。
また、豊臣秀吉は1591年(天正19)に土佐の長宗我部元親から体長10m以上もあるクジラを贈られ、たいそう喜んだという記録もあります。
江戸の人々とクジラ
長い間一部の人しか食べられなかったクジラですが、江戸時代以降、捕鯨技術の発達によって、多くの人々が食べるようになりました。
19世紀初めごろには江戸の庶民の食卓にものぼるようになりました。
「イルカ、クジラ大図鑑」 中村庸夫監 PHP研究所 2007年発行

鯨肉調方方
九州平戸の生月(いきつき)を基地とする益富組の頭首が天保3年(1832)、
『鯨肉調方方』で73種類もの鯨の調理加工法を示している。
当時は網取り式捕鯨の全盛期にさしかかる時期であり、生月の繁栄ぶりをうかがわせる。
記述は、
テイラは尾羽毛のことで、角切りし水煮して、さらに酒蒸ししてものは「油臭いなどなく、佳味なり」
眼の玉は、外側和か、内は堅し、外側は白し。
喉は下人の食料とす。
腸は「食糧にたへず」、田畑の肥に用いる。
明治以降になると、
さらにクジラの食用習慣は全国各地で多様な発展を遂げる。
現代においても、クジラのベーコン、竜田揚げ、大和煮の缶詰、
肥料としての鯨骨
畑作における肥料として主流だったのは、
定置網などで漁獲されたイワシを原料とした干鰯だった。
干鰯は、畿内一円の農村で綿花、菜種、藍、麦などの畑作物の魚肥として利用された。
しかしイワシ不漁などで高騰で、むしろ北海道産のニシンを原料とする鰊粕が代わりに用いられるようになった。
鯨肥は、捕鯨が行われていた地域限定で利用された。
鯨肉は脂肪と共に古くから食用とされてきた。
第二次大戦後の食糧難の時代、GHQの計らいで諸国の反対を押し切って捕鯨が開始され、
日本国民に鯨肉をタンパク源として供給するのに大きな役割を果たした。
戦後まもなくはじまった給食に鯨カツや竜田揚げが提供されたことを記憶する団塊の世代もいまや60歳前後となった。
「クジラは誰のものか」 秋道智彌 ちくま新書 2009年発行


銃殺捕鯨
ボンブランスは明治15年平戸瀬戸周辺でおこなったのが最初といわれる。
さらに九州、房総、金華山沖、紀州でも用いられた。
銃殺と従来の網との併用で捕獲が多かった。
鯨の利用
鯨肉
鯨油
麻油、菜種油の生産が増大すると、鯨油の灯油としての需要は低下していった。
江戸時代中頃から害虫(ウンカ)の退治に使われた。
明治以降は廃油や農薬にとって代わられた。
ノルウェー式捕鯨法で用いる銛は、炸裂する弾頭と銛がセットなったもので、
鯨にダメージを与えると同時に鯨体も確保することがその目的である。
つまり、かつて
40艘もの船と400人を越える人数で、
網掛け、銛突き、剣突き、鼻切りという数段階にわたる長時間のプロセスを経て一頭の鯨を仕留めてたのが、
一門の捕鯨砲による一瞬の砲撃で終了してしまうことになった。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行

生月町は、平戸島の北西に位置する人口約6,000人の島。
生月大橋を渡ると、そこには海と緑に囲まれた大自然が一面に広がり、そのいたるところに 自然の中のくらしから生まれた歴史や文化がたくさんつまっています。
「島の館」では、江戸時代に日本最大規模を誇った益冨捕鯨の展示をはじめ、
長い迫害に耐えて受け継がれたかくれキリシタンの信仰、
豊かな自然の中で営まれてきた漁業や農業の姿を紹介しており、他では見られない 価値ある生月島の魅力を知っていただけると思います。
(生月町博物館)
撮影日・2012年5月11日
突組の規模
寛文2年(1662)の平戸の突組・吉村組では、17艘の鯨船に226人の乗組員、本船(輸送船)2艘の乗組員が9人、納屋の部門に43人、
ほかに鯨商品の売買にあたる商人納屋が17人、で一組の人数は295人になる。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行

鯨は冬場に南下し、春になると北上する。
突組の場合、特定漁場に対する拘束は小さいため、冬浦と春浦を別の漁場で操業することも多い。
12月にはいると鯨を求めて小呂ノ島(福岡市)や沖ノ島(玄海町)方面にも船を出す。
突取捕鯨法では、しゃにむに鯨を追跡しながら、できるだけ多くの銛を打ち込んで、行き足を止める必要があり、
快速でまとまった数の鯨船が必要とされた。
前作事
鯨組が鯨を取る期間は冬から春にかけてだが、
実質的な前作事(機材の修理・製作などの準備)は夏から始まる。
西海では8月中旬、網加子として雇われた瀬戸内海の漁民の先発隊が到着し、
鯨組に用いられる芋網の制作にいそしむ。
鯨組に用いる船も、船大工によって修理・新造された。
ととえば、生月の益富・御崎組では毎年、
勢子船を3艘、持双船を1艘、双海船を1艘ずつ新造した。
鍛冶屋も多忙を極めた。
銛や剣、各種包丁も膨大な数になった。
桶屋も鯨油を詰める四斗樽の制作に忙しい。
こうした準備のなか、各地から雇い入れた加子や羽指らが到着する。
鯨の発見
山見と番船
鯨の通る海域を監視できる高所・岬・小島の上。
山見の人は、浮上する鯨の呼吸(汐吹き)を探す、それで進行方向や鯨の種類もわかる。
朝から夕暮れまで。深酒や夜更かしなど視力や集中力に影響することは控えた。
鯨の追い込み
発見の後、勢子船が漕ぎ出し、鯨を網代に向かって追い立てた。
網代で待機していた双海船は合図で網を張る。
鯨を取る網でなく、泳ぎを遅くする網。
銛、剣を打つ
とくに一番銛は大変な名誉とされ、高い報酬が与えられた。
何本もの銛を打たれ、鯨は疲労を重ねる。
鯨が鈍ったところで剣を打つ。
鼻切りと持双掛け
一連の攻撃の後、羽指が鼻切包丁を持って海に飛び込む。
鯨の背中によじのぼり鼻腔に包丁でえぐって綱を通す穴をあけた。
解体・加工
解体
広い砂浜を利用した所に尻尾から上げた。
砂場は解体後の各部位を置くのに都合よく、
解体するため自由に動き回れる、
潮の干満で血などの汚れを洗い流せた。
皮身の脂から油を取る。
ある程度の大きさに切り分け、平釜に順次投入され煎られる。溶けて液状になる。柄杓で汲み取る。
赤身からは食用の塩蔵肉を作る。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行

遠隔地への流通
寛永9年(1632年)平戸オランダ商館の日記には、鯨油を積んだ船が江戸に到着したとある。
当時流通した鯨製品としては、
食用の塩蔵鯨肉もあるが、
とくに灯油としての鯨油が大きな割合を占めたと考えられる。
細工用の髭や筋も需要があった。
江戸中期以降、農薬としての鯨油の使用が始まると、河川船運や陸上輸送で内陸に運ばれた
明治30年前後から長崎が鯨肉の重要な集散地となったが、明治40年代には福岡、下関が販売の中心となった。
このころから大坂や兵庫など阪神方面でも、鯨肉の販売量が急速に拡大している。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行
身分の高い人のごちそうだったクジラ
仏教が信仰されるようになって、日本では、けものの肉を食べることが少なくなりましたが、
イルカやクジラは魚だと考えられていたため、奈良平安時代の貴族たちのあいだで、ごちそうとして食べられていました。
また、豊臣秀吉は1591年(天正19)に土佐の長宗我部元親から体長10m以上もあるクジラを贈られ、たいそう喜んだという記録もあります。
江戸の人々とクジラ
長い間一部の人しか食べられなかったクジラですが、江戸時代以降、捕鯨技術の発達によって、多くの人々が食べるようになりました。
19世紀初めごろには江戸の庶民の食卓にものぼるようになりました。
「イルカ、クジラ大図鑑」 中村庸夫監 PHP研究所 2007年発行

鯨肉調方方
九州平戸の生月(いきつき)を基地とする益富組の頭首が天保3年(1832)、
『鯨肉調方方』で73種類もの鯨の調理加工法を示している。
当時は網取り式捕鯨の全盛期にさしかかる時期であり、生月の繁栄ぶりをうかがわせる。
記述は、
テイラは尾羽毛のことで、角切りし水煮して、さらに酒蒸ししてものは「油臭いなどなく、佳味なり」
眼の玉は、外側和か、内は堅し、外側は白し。
喉は下人の食料とす。
腸は「食糧にたへず」、田畑の肥に用いる。
明治以降になると、
さらにクジラの食用習慣は全国各地で多様な発展を遂げる。
現代においても、クジラのベーコン、竜田揚げ、大和煮の缶詰、
肥料としての鯨骨
畑作における肥料として主流だったのは、
定置網などで漁獲されたイワシを原料とした干鰯だった。
干鰯は、畿内一円の農村で綿花、菜種、藍、麦などの畑作物の魚肥として利用された。
しかしイワシ不漁などで高騰で、むしろ北海道産のニシンを原料とする鰊粕が代わりに用いられるようになった。
鯨肥は、捕鯨が行われていた地域限定で利用された。
鯨肉は脂肪と共に古くから食用とされてきた。
第二次大戦後の食糧難の時代、GHQの計らいで諸国の反対を押し切って捕鯨が開始され、
日本国民に鯨肉をタンパク源として供給するのに大きな役割を果たした。
戦後まもなくはじまった給食に鯨カツや竜田揚げが提供されたことを記憶する団塊の世代もいまや60歳前後となった。
「クジラは誰のものか」 秋道智彌 ちくま新書 2009年発行


銃殺捕鯨
ボンブランスは明治15年平戸瀬戸周辺でおこなったのが最初といわれる。
さらに九州、房総、金華山沖、紀州でも用いられた。
銃殺と従来の網との併用で捕獲が多かった。
鯨の利用
鯨肉
鯨油
麻油、菜種油の生産が増大すると、鯨油の灯油としての需要は低下していった。
江戸時代中頃から害虫(ウンカ)の退治に使われた。
明治以降は廃油や農薬にとって代わられた。
ノルウェー式捕鯨法で用いる銛は、炸裂する弾頭と銛がセットなったもので、
鯨にダメージを与えると同時に鯨体も確保することがその目的である。
つまり、かつて
40艘もの船と400人を越える人数で、
網掛け、銛突き、剣突き、鼻切りという数段階にわたる長時間のプロセスを経て一頭の鯨を仕留めてたのが、
一門の捕鯨砲による一瞬の砲撃で終了してしまうことになった。
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行

生月町は、平戸島の北西に位置する人口約6,000人の島。
生月大橋を渡ると、そこには海と緑に囲まれた大自然が一面に広がり、そのいたるところに 自然の中のくらしから生まれた歴史や文化がたくさんつまっています。
「島の館」では、江戸時代に日本最大規模を誇った益冨捕鯨の展示をはじめ、
長い迫害に耐えて受け継がれたかくれキリシタンの信仰、
豊かな自然の中で営まれてきた漁業や農業の姿を紹介しており、他では見られない 価値ある生月島の魅力を知っていただけると思います。
(生月町博物館)
撮影日・2012年5月11日