しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

土井晩翠

2021年05月12日 | 銅像の人
場所・宮城県仙台市青葉区川内 青葉城


春高楼の花の宴  巡る盃かげさして 千代の松が枝わけ出でし 昔の光いまいずこ






土井晩翠
明治に仙台に生まれ、
昭和初期に活躍した詩人、英文学者。
滝廉太郎が作曲した「荒城の月」の作詞者として知られる。
全国各地の学校の校歌を作詞したことでも有名。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行







土井晩翠(像の説明文)

晩翠は本名を林吉といい明治四年(一八七一年)仙台市北鍛冶町の質商土井七郎兵衛の長男として生まれた。
明治十一年、培根小学校(今の木町小学校)に入り、のち立町小学校に転校、仙台英語学校、旧制第二高等学校を経て、明治三十年東京帝国大学英文科を卒業、
明治三十三年母校二高の教授として帰仙した。
その間、三十一年に不朽の名作「荒城の月」を詩作発表、
続いて第一詩集「天地有情」を処女出版した。
島崎藤村の「若葉集」におくれること二年の明治三十二年、晩翠の二十八才から二十九才にかけての頃であった。
のち六つの詩集や数多くの随筆など出版した。
昭和二十二年日本芸術院会員、二十四年仙台市名誉市民に推され翌二十五年、文化勲章を受章され
昭和二十七年十月十九日、仙台市本荒町の晩翠草堂で情熱の詩人としての八十一年の生涯を閉じられた。
この碑は昭和二十七年、晩翠会等によって建てられたものです。






撮影日・2018年8月6日


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北島三郎 (高尾山)

2021年05月12日 | 銅像の人
場所・東京都八王子市高尾町 清滝駅





登山者数が世界一多い山として知られる、高尾山。

その清滝駅の構内に北島サブちゃんの胸像がある。
『八王子観光大使』と横に標示してある。


サブちゃんは好きだったな。
最初「ブンガチャ節」という変わった歌をうたっていた。
しかし、その曲は放送されなくなった。
放送禁止になった、といううわさだった。

次の曲は正統な曲で「なみだ船」。いい歌だった。

それから15年ほど後の事、
岡山市民会館で「北島三郎歌謡ショー」があり、見に行った。
その頃、サブちゃんはいちばん元気のいい時で
曲と曲の間の話で「聴かせてやってるんだから」と言った。
その瞬間にサブちゃんのファンを止めた。






「昭和の歌手100列伝」 塩沢実信 ブレーン社  平成26年発行

北島三郎


昭和29年、18歳で高校を中退し歌手を夢見て北海道から上京。
渋谷界隈を流して抜群の歌唱力で評判になる。
昭和37年6月、コロンビアから「ブンガチャ節」でデビューしたものの、猥歌の廉で発禁になった。

初ヒットになったのは、星野・船村コンビの「なみだ船」である。
第4回レコード大賞新人賞を受賞した。


通算50回のNHK紅白歌合戦の曲目は、時系列で
ギター仁義・ソーラン仁義・帰ろかな・函館の女・博多の女・薩摩の女・加賀の女・誠・北海太鼓・
冬の宿・寒流れ・残雪・歩・終着駅は始発駅・与作・風雪流れ旅・まつり・十九のまつり・年輪・
夜汽車・山・北の大地・谷・根っこ・峠・北の漁場。





撮影日・2018年3月7日


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車寅次郎(フーテンの寅さん)

2021年05月12日 | 銅像の人
場所・東京都葛飾区柴又
制作・吉田穂積
設置・平成11年


学生だった時、「映画はフーテンの寅さんがいちばん面白い」という友がいた。
その映画は渥美清と光本幸子の写真入りで、
光本幸子が出るのか・・・と思った記憶があるが、それはまだ始まりであって、
その後、映画は四半世紀もつづいた。



山田洋次監督の映画『男はつらいよ』の主人公。
昭和44年第1作、
寅さん役の渥美清が急逝したため、平成8年『男はつらいよ・寅次郎、紅の花』の48作で終わったが、
映画史上突出したシリーズ物だった。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行





私 生まれも育ちも葛飾柴又です




「寅さんのことば」 佐藤利明 幻冬社 2019年発行


映画『男はつらいよ』は昭和44年8月に生まれました。
テキ屋で渡世人の主人公・車寅次郎は、アポロ11号の月面着陸から一ヶ月と一週間後、
銀幕に登場したのです。


私 生まれも育ちも葛飾柴又です

四谷赤坂麹町チャラチャラ流れるお茶ノ水 粋な姐ちゃん立小便

それを言っちゃあおしまいよ

たいしたもんだよ蛙の小便 見上げたもんだよ屋根屋のふんどし

結構毛だらけ猫灰だらけ お尻の周りは糞だらけ








『男はつらいよ』の幸福論 名越康文


おう労働者諸君!
今日も一日ご苦労さまでした。
さあ明日からはもっとからっと晴れたいい日曜日だぞ。










撮影日・2018年8月7日



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マキノ省三

2021年05月12日 | 銅像の人
場所・京都府京都市北区等持院北町


「日本映画の父」として有名。
銅像は太秦に近く、昭和初期には等持院周辺に撮影所が集中してあったそうだ。



「時代劇は死なず!」  春日太一  集英社新書 2008年発行

1910年、京都の興行主・横田木之助率いる横田商会が京都で初めての撮影所=二条城撮影所を開設、
本格的な映画製作が開始される。
ここで≪日本映画の父≫と呼ばれる映画監督・牧野省三と≪日本最初の映画スター≫尾上松之助の『忠臣蔵』が製作され、
12年法華堂に移転してからは両者のコンビで”三日に一本”というハイペースで忍術映画が製作されていった。

同年横田商会をはじめ四大映画会社が統合され日本活動写真=日活が誕生している。
1923年関東大震災で関東から移転もあり、京都は日本の映画製作の中心地となり、撮影所が林立していった。

1930年代にはいり、映画はそれまでのサイレントからトーキーへと技術革新が求められるようになる。
そうした中、牧野省三の子・マキノ正博はマキノ・トーキーを太秦に開設したが,うまくいかず40年松竹に買収された。






マキノ省三先生像【碑文】

生涯を映画の発展と前進に尽力し日本映画の父と仰がれたマキノ省三先生が
大正10年に最初の撮影所を創設せられたのは実にこの等持院の地でありました
このたび先生の銅像を太秦より迎えましたのは
ひとえに日本映画史の一頁を飾るゆかりの此の地に永く先生の遺徳を顕彰したいとねんずるからであります
昭和45年7月25日
マキノ省三先生顕彰会







映画とマキノ

明治36年、アメリカの富豪モルガンが祇園の芸妓お雪を落籍した。
お雪は、はじめ応じなかったがモルガンの熱心に、まわりが身請け金10万円ときりだし、
相手があきらめると思ったらしい。
新聞はただちに”10万円の貞操”と書きたてた。
牧野はこの身請け話を一夜漬で劇に仕上げ、翌日千本座で上演、大当たりをとった。
そして明治40年に「本能寺合戦」を監督、映画製作の第一歩をふみだした。
2年後、尾上松之助が横田の専属となり、”目玉の松ちゃん”は、たちまち大衆の人気をさらった。

牧野は大正14年トーキーが発明されると、昭和3年に国産化の研究所をつくった。

大正・昭和にはいると、映画は娯楽の王座となった。
大正11年には坂東妻三郎がマキノ=プロに入社し、
月形龍之介・嵐寛寿郎・市川右太衛門・片岡千恵蔵らがこれにつづき、
長谷川一夫が林長二郎の名でデビューした。


「京都府の歴史」 赤松・山本共著 山川出版社 昭和41年発行  






撮影日・2009年11月27日
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