しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

捕鯨④南国土佐では

2021年05月29日 | 銅像の人
場所・高知県室戸市甲浦町


土佐の国では江戸時代に捕鯨が盛んだったそうだ。
では、
「南国土佐を後にして」に唄われた、
♪国の父さん室戸の沖で 鯨つったといういう便り・・~は、
昭和30年代には、実際にあり得えた話だろうか?疑問だ。






ペリーが日本にやってきたのはクジラのせい?

1853年(嘉永6)、ペリーのひきいる4隻の「黒船」が浦賀にあらわれ、江戸幕府に開国を要求したひとつに、
アメリカの捕鯨事情がありました。
19世紀、アメリカの捕鯨がアメリカ沿岸から広がり、日本近海で操業する船も出てきました。
ペリーは日本に対して、アメリカの捕鯨船に燃料や水、食料などの支援をすること、
遭難した場合の救助を求めたのです。
「イルカ、クジラ大図鑑」 中村庸夫監 PHP研究所 2007年発行


日本近海での捕鯨に進出した米国は捕鯨船の寄港地の必要から、ペリー提督を日本に派遣した。
ペリーは1853年、1854年に来航し、
米国捕鯨船の補給基地として日本に開国を迫った。
ほぼ同時期にペンシルベニアに油田発見があり、鯨油の下落、捕鯨業自体も衰退した。

「クジラは誰のものか」  秋道智彌  ちくま新書  2009年発行






「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行

捕鯨業の衰退

弘化(1844~1848)頃から慢性的な不漁が起こった。
アメリカを中心とする欧米各国の突取捕鯨法をおこなう捕鯨母船が日本近海で盛んに操業し、
沿岸に接近する鯨の数が激減したものと考えられる。

明治に入るとボンブランスを用いる銃殺捕鯨法、各種の砲殺捕鯨法が導入された。
明治の後期、ノルウェー式砲殺捕鯨法が普及する。







(高知まるごとネット)

土佐の「鯨」について
くじら鰹と並んで鯨は古くから土佐の人々の暮らしに身近な存在でした。
土佐の民謡「よさこい節」に、こんな一節があります。
「おらんくの池(太平洋)にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」太平洋に面した高知県では、古くからこんな歌が歌われるほど親しみのある存在です。
土佐湾は、日本有数の鯨の生息域で、かつては捕鯨文化も栄えていました。
いまでは、大海原で鯨の姿を見るホエールウォッチングが土佐湾沿いの各市町村で盛んに行われており、観光客に人気です。
近年、捕獲量が制限され、貴重な食材となった鯨ですが、高知では、南氷洋調査捕鯨のミンク鯨などを使ったさまざまな料理がいまも食べられています。

「鯨」はここがおいしい
土佐の味と言えば、「鰹のたたき」をイメージされる方が多いと思いますが、
「鯨の刺身」も美味!肉は空気に触れると鮮やかな色に変化するので、半解凍ぐらいが食べ頃です。

土佐の鯨文化
土佐の鯨文化高知県東部の街、室戸市では、藩政時代、捕鯨が盛んに行われていました。
当時の捕鯨方法は“古式捕鯨”と呼ばれています。
“古式捕鯨”とは、20隻が1チームとなり、鯨を網で追い込んだ後、銛を使って仕留める形式のものです。
一隻ずつに役割があり、網を張って鯨を絡ませる「網舟(あみぶね)」や、鯨を網に追い込み、銛を投げて仕留める「勢子舟(せこぶね)」、
捕らえた鯨を運搬する「持双舟(もっそうぶね)」などの種類があったと言われています。
現在では、その中の「勢子舟」を再現し、チームごとに競う「鯨舟レース」が、毎年7月に室戸市で開催されています


鯨は豊かな生態系の証明
鯨高知県西部の黒潮町の沖合でも、ニタリ鯨が頻繁に見られます。
鯨は海の生態系の頂点に位置し、森・川・海の全てが豊かな自然の下でのみ生きられます。
栄養分豊かな土をつくる森。その森に降った雨水はスポンジ状の土に蓄えられ栄養分豊かな水を川に送ります。
川は森から送り出された水で植物プランクトンを育てます。
植物プランクトンは動物プランクトンのエサとなり、動物プランクトンは小魚のエサとなります。
そして、小魚やプランクトンは鯨のエサとなるのです。
鯨の存在は、地域が本来の自然の姿を保っていることの証拠だと言えるでしょう。









日本大百科全書(ニッポニカ)「甲浦」の解説
甲浦
かんのうら


高知県北東端、安芸(あき)郡東洋町の中心地区の一つ。
徳島県に接する。
湾入の多い沈降性海岸に位置する天然の良港で、古くから土佐と阿波(あわ)、上方(かみがた)を結ぶ中継港であった。
江戸時代の参勤交代の際、この港から出国したこともある。
明治期にはカツオ漁、捕鯨漁の基地となり、
阪神との間に定期航路が開設され、その後は神戸、土佐清水間にフェリーが就航していたが、2005年(平成17)廃止となった。
国道55号が通じ、阿佐海岸鉄道の終点となる甲浦駅がある。










撮影日・2012年4月5日



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捕鯨③備後田島の鯨網

2021年05月29日 | 銅像の人
場所・広島県福山市内海町横島  うつみ市民交流センター

曲がった橋、福山市の「内海大橋」。
橋は本土と、田島・横島の2島を繋いでいる。




網を使った捕鯨は紀州の太地で始まったが、「しばり網」の伝統漁法をもつ田島・横島・鞆の漁師は、
九州の鯨組から重宝されたようだ。

笠岡の漁師も江戸期に九州捕鯨への出稼ぎがあるか調べてみたが、記述は出てこなかった。




「えっと福山 ふくやま観光・魅力サイト」

内海町には、水軍時代から明治末期にかけて、約300年にわたり九州西海の捕鯨に参加した歴史があります。
それは、鯨を追う操船の技術やこの辺りで製作された鯨網の精度の高さと、独創的な技を買われてのことでした。
現在、商業捕鯨は禁止されていますが、かつてあったその歴史をいまに伝えるため、捕鯨網船「双海(そうがい)船(ぶね)」を復元しようとするプロジェクトがあります。
内海町田島出身で、現在はスタンフォード大学の客員教授を務める宮本住逸さんにお話を伺いました。

≪インタビュー企画≫

内海町田島出身、スタンフォード大学客員教授・宮本住逸さん










捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎

日本人は鯨の肉を食べるだけでなく、油は灯明やウンカ駆除に、ヒゲは文楽人形を操るひもに、さらに骨や皮も有効利用し、余すことなく活用したということ。
そして戒名を付けて葬っていたという話に、スタンフォードの研究者が興味を持ったようでね。
鯨に対する敬意や感謝、愛情を感じます。

けど、捕鯨に対する日本と諸外国との認識には大きな溝がありそうですね。
民俗学で扱う信仰と、なによりも備後の生業の歴史の中に大切な要素があるということ。
そして日本の捕鯨文化の特殊性です。
日本には世界に例のない鯨に対する鯨霊供養という文化が根付いています。

日本の開国をプッシュしてくれたのが鯨なんです。
当時の日本沿岸には多くの鯨が回遊していました。
欧米は多い年では700隻以上の捕鯨船が日本沿岸の沖合で鯨を取っていたのです。
乱獲ですね。
幕末まで鎖国日本はその事実を知りませんでした。
日本の鯨組は、櫓漕ぎ船で網とモリを使って鯨を取っていた状態ですから、欧米の近代化された捕鯨船には追い付かない。
そんな中で九州鯨組からオファーを受けた備後田島・横島の「鯨網づくり」集団は頑張っていたのです。
その技は当時の九州各藩の鯨組に採用され、日本の古式捕鯨業に大きな足跡を残したということです。












内海町歴史民俗資料展示室に展示している「双海船」の縮小模型

日本の沿岸は鯨が多かったんです。
季節によって鯨の通るルートは違うんですが、旧暦でいう11月は日本海側を通ってアラスカ方面に向かう。
そして、向こうで出産し、対馬・五島を通って南下してくる。
それを追いかけまわすのではなく、待ちぶせして捕るんです。
日本は長らく鎖国していたため技術の発展が遅れ、当時は手漕ぎと帆で走るような船で漁をしていました。

最初は突き取り式で漁を行っていましたが、突き取りと網掛け式を組み合わせるように発展したんです。










鯨組

沖組といわれた役割におよそ400人を越える漁民が従事していました。
一艘の乗組員は約10人。
勢子船といって、キャッチャーボートの役割をするのが20艘くらいで、
捕った鯨を船に縛り付けて帰ってくる持双船が3艘、
網船(双海船・双海付船)が12~24艘、万一の際の代替船などを合わせると50艘ほどの船団を編成していました。
それらがすべて連携を取って、一頭の鯨を追尾するんです。
元水軍出身者の一糸乱れぬチームプレイですよ。
当時、日本最大であった平戸生月島の益富鯨組は2000人をゆうに越える規模の大組織でした。
これは世界初で最大のマニュファクチュアといわれています。


元禄期に益富鯨組が五島列島で87頭の鯨を捕獲しています。これはやや多い頭数です。捕れない年は0です。
呼子の中尾鯨組などは「田島納屋」を建ててまで優秀な網職人の確保に腐心します。
福山藩の脇港に指定されていた田島浦は北前船の出入りが許され、網製品の取引で活況を呈していたといわれています。
江戸期の絵図に描かれている軒を連ねる街並みが現在の姿と変わりない。
鯨は20メートルから30メートルに達する巨大なもの、網に掛かると必死で暴れますね、
1000メートル以上の長い網を三枚かぶっても、すさまじいパワーで逃げようとします。
切れた網は鯨の体からは決して離れません、鯨は息継ぎをしますから網が抵抗の役目をし、浮かび上がったところを仕留めるという具合ですね。
九州の海に合った網を作った、我々の先人の仕事ぶりに勇気と誇りを覚えます。
復元した双海船は1/10サイズの模型です。
それをここ歴史民俗資料展示室にある資料と共に常設展示しています、多くの市民に鯨漁の歴史を知ってもらえたらと思います。
少子化による人口減少問題が顕在化しています。
身近な故郷の歴史を通して、一人でも多くの子供の、「聞く耳を育てていく」お手伝いができればこの上ない幸せと考えています。
ふるさとの歴史はふるさとに学ぶことが必要なのではないでしょうか。








古式捕鯨300年の歴史
(田島・横島・鞆・常石)

備後田島の鯨網

1600~1900年の間の約300年間、北部九州各藩で盛んに鯨を捕っていた時代がありました。
田島横島は、しばり網の歴史が古く、鯛・いわし等の漁が盛んにおこなわれ、
田島鯛・田島イリコなどが、古い文献に記されています。

鯨網は、この「しばり網」を改良したものと考えられ、網の長さや、2艘の船で網を広げていく方法が鯨網に引き継がれており、
北部九州の鯨組資料の中にも「鯨網職人は、まず備後田島の者から雇う」と記されています。

福山藩第3代、水野勝貞は「藩主覚書」という法令の中で、
「・・・毎年、287人のものが平戸・五島・対馬などへ鯨取りに出かけている」と諫めている。





(阿伏兎観音)



撮影日・2020年9月14日



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