場所・高知県室戸市甲浦町
土佐の国では江戸時代に捕鯨が盛んだったそうだ。
では、
「南国土佐を後にして」に唄われた、
♪国の父さん室戸の沖で 鯨つったといういう便り・・~は、
昭和30年代には、実際にあり得えた話だろうか?疑問だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/a4/9bcfcfa2802bf989604e41c040c8d81e.jpg)
ペリーが日本にやってきたのはクジラのせい?
1853年(嘉永6)、ペリーのひきいる4隻の「黒船」が浦賀にあらわれ、江戸幕府に開国を要求したひとつに、
アメリカの捕鯨事情がありました。
19世紀、アメリカの捕鯨がアメリカ沿岸から広がり、日本近海で操業する船も出てきました。
ペリーは日本に対して、アメリカの捕鯨船に燃料や水、食料などの支援をすること、
遭難した場合の救助を求めたのです。
「イルカ、クジラ大図鑑」 中村庸夫監 PHP研究所 2007年発行
日本近海での捕鯨に進出した米国は捕鯨船の寄港地の必要から、ペリー提督を日本に派遣した。
ペリーは1853年、1854年に来航し、
米国捕鯨船の補給基地として日本に開国を迫った。
ほぼ同時期にペンシルベニアに油田発見があり、鯨油の下落、捕鯨業自体も衰退した。
「クジラは誰のものか」 秋道智彌 ちくま新書 2009年発行
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行
捕鯨業の衰退
弘化(1844~1848)頃から慢性的な不漁が起こった。
アメリカを中心とする欧米各国の突取捕鯨法をおこなう捕鯨母船が日本近海で盛んに操業し、
沿岸に接近する鯨の数が激減したものと考えられる。
明治に入るとボンブランスを用いる銃殺捕鯨法、各種の砲殺捕鯨法が導入された。
明治の後期、ノルウェー式砲殺捕鯨法が普及する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/f3/15acbeac59f44ba36093703622361964.jpg)
(高知まるごとネット)
土佐の「鯨」について
くじら鰹と並んで鯨は古くから土佐の人々の暮らしに身近な存在でした。
土佐の民謡「よさこい節」に、こんな一節があります。
「おらんくの池(太平洋)にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」太平洋に面した高知県では、古くからこんな歌が歌われるほど親しみのある存在です。
土佐湾は、日本有数の鯨の生息域で、かつては捕鯨文化も栄えていました。
いまでは、大海原で鯨の姿を見るホエールウォッチングが土佐湾沿いの各市町村で盛んに行われており、観光客に人気です。
近年、捕獲量が制限され、貴重な食材となった鯨ですが、高知では、南氷洋調査捕鯨のミンク鯨などを使ったさまざまな料理がいまも食べられています。
「鯨」はここがおいしい
土佐の味と言えば、「鰹のたたき」をイメージされる方が多いと思いますが、
「鯨の刺身」も美味!肉は空気に触れると鮮やかな色に変化するので、半解凍ぐらいが食べ頃です。
土佐の鯨文化
土佐の鯨文化高知県東部の街、室戸市では、藩政時代、捕鯨が盛んに行われていました。
当時の捕鯨方法は“古式捕鯨”と呼ばれています。
“古式捕鯨”とは、20隻が1チームとなり、鯨を網で追い込んだ後、銛を使って仕留める形式のものです。
一隻ずつに役割があり、網を張って鯨を絡ませる「網舟(あみぶね)」や、鯨を網に追い込み、銛を投げて仕留める「勢子舟(せこぶね)」、
捕らえた鯨を運搬する「持双舟(もっそうぶね)」などの種類があったと言われています。
現在では、その中の「勢子舟」を再現し、チームごとに競う「鯨舟レース」が、毎年7月に室戸市で開催されています
鯨は豊かな生態系の証明
鯨高知県西部の黒潮町の沖合でも、ニタリ鯨が頻繁に見られます。
鯨は海の生態系の頂点に位置し、森・川・海の全てが豊かな自然の下でのみ生きられます。
栄養分豊かな土をつくる森。その森に降った雨水はスポンジ状の土に蓄えられ栄養分豊かな水を川に送ります。
川は森から送り出された水で植物プランクトンを育てます。
植物プランクトンは動物プランクトンのエサとなり、動物プランクトンは小魚のエサとなります。
そして、小魚やプランクトンは鯨のエサとなるのです。
鯨の存在は、地域が本来の自然の姿を保っていることの証拠だと言えるでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/88/0bbc90c6745b95bc5695c1791cbb1115.jpg)
日本大百科全書(ニッポニカ)「甲浦」の解説
甲浦
かんのうら
高知県北東端、安芸(あき)郡東洋町の中心地区の一つ。
徳島県に接する。
湾入の多い沈降性海岸に位置する天然の良港で、古くから土佐と阿波(あわ)、上方(かみがた)を結ぶ中継港であった。
江戸時代の参勤交代の際、この港から出国したこともある。
明治期にはカツオ漁、捕鯨漁の基地となり、
阪神との間に定期航路が開設され、その後は神戸、土佐清水間にフェリーが就航していたが、2005年(平成17)廃止となった。
国道55号が通じ、阿佐海岸鉄道の終点となる甲浦駅がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/7d/c804cef04c6fffa1f2bb300d4ea93494.jpg)
撮影日・2012年4月5日
土佐の国では江戸時代に捕鯨が盛んだったそうだ。
では、
「南国土佐を後にして」に唄われた、
♪国の父さん室戸の沖で 鯨つったといういう便り・・~は、
昭和30年代には、実際にあり得えた話だろうか?疑問だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/a4/9bcfcfa2802bf989604e41c040c8d81e.jpg)
ペリーが日本にやってきたのはクジラのせい?
1853年(嘉永6)、ペリーのひきいる4隻の「黒船」が浦賀にあらわれ、江戸幕府に開国を要求したひとつに、
アメリカの捕鯨事情がありました。
19世紀、アメリカの捕鯨がアメリカ沿岸から広がり、日本近海で操業する船も出てきました。
ペリーは日本に対して、アメリカの捕鯨船に燃料や水、食料などの支援をすること、
遭難した場合の救助を求めたのです。
「イルカ、クジラ大図鑑」 中村庸夫監 PHP研究所 2007年発行
日本近海での捕鯨に進出した米国は捕鯨船の寄港地の必要から、ペリー提督を日本に派遣した。
ペリーは1853年、1854年に来航し、
米国捕鯨船の補給基地として日本に開国を迫った。
ほぼ同時期にペンシルベニアに油田発見があり、鯨油の下落、捕鯨業自体も衰退した。
「クジラは誰のものか」 秋道智彌 ちくま新書 2009年発行
「くじら取りの系譜」 中園成生 長崎新聞新書 2001年発行
捕鯨業の衰退
弘化(1844~1848)頃から慢性的な不漁が起こった。
アメリカを中心とする欧米各国の突取捕鯨法をおこなう捕鯨母船が日本近海で盛んに操業し、
沿岸に接近する鯨の数が激減したものと考えられる。
明治に入るとボンブランスを用いる銃殺捕鯨法、各種の砲殺捕鯨法が導入された。
明治の後期、ノルウェー式砲殺捕鯨法が普及する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/f3/15acbeac59f44ba36093703622361964.jpg)
(高知まるごとネット)
土佐の「鯨」について
くじら鰹と並んで鯨は古くから土佐の人々の暮らしに身近な存在でした。
土佐の民謡「よさこい節」に、こんな一節があります。
「おらんくの池(太平洋)にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」太平洋に面した高知県では、古くからこんな歌が歌われるほど親しみのある存在です。
土佐湾は、日本有数の鯨の生息域で、かつては捕鯨文化も栄えていました。
いまでは、大海原で鯨の姿を見るホエールウォッチングが土佐湾沿いの各市町村で盛んに行われており、観光客に人気です。
近年、捕獲量が制限され、貴重な食材となった鯨ですが、高知では、南氷洋調査捕鯨のミンク鯨などを使ったさまざまな料理がいまも食べられています。
「鯨」はここがおいしい
土佐の味と言えば、「鰹のたたき」をイメージされる方が多いと思いますが、
「鯨の刺身」も美味!肉は空気に触れると鮮やかな色に変化するので、半解凍ぐらいが食べ頃です。
土佐の鯨文化
土佐の鯨文化高知県東部の街、室戸市では、藩政時代、捕鯨が盛んに行われていました。
当時の捕鯨方法は“古式捕鯨”と呼ばれています。
“古式捕鯨”とは、20隻が1チームとなり、鯨を網で追い込んだ後、銛を使って仕留める形式のものです。
一隻ずつに役割があり、網を張って鯨を絡ませる「網舟(あみぶね)」や、鯨を網に追い込み、銛を投げて仕留める「勢子舟(せこぶね)」、
捕らえた鯨を運搬する「持双舟(もっそうぶね)」などの種類があったと言われています。
現在では、その中の「勢子舟」を再現し、チームごとに競う「鯨舟レース」が、毎年7月に室戸市で開催されています
鯨は豊かな生態系の証明
鯨高知県西部の黒潮町の沖合でも、ニタリ鯨が頻繁に見られます。
鯨は海の生態系の頂点に位置し、森・川・海の全てが豊かな自然の下でのみ生きられます。
栄養分豊かな土をつくる森。その森に降った雨水はスポンジ状の土に蓄えられ栄養分豊かな水を川に送ります。
川は森から送り出された水で植物プランクトンを育てます。
植物プランクトンは動物プランクトンのエサとなり、動物プランクトンは小魚のエサとなります。
そして、小魚やプランクトンは鯨のエサとなるのです。
鯨の存在は、地域が本来の自然の姿を保っていることの証拠だと言えるでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/88/0bbc90c6745b95bc5695c1791cbb1115.jpg)
日本大百科全書(ニッポニカ)「甲浦」の解説
甲浦
かんのうら
高知県北東端、安芸(あき)郡東洋町の中心地区の一つ。
徳島県に接する。
湾入の多い沈降性海岸に位置する天然の良港で、古くから土佐と阿波(あわ)、上方(かみがた)を結ぶ中継港であった。
江戸時代の参勤交代の際、この港から出国したこともある。
明治期にはカツオ漁、捕鯨漁の基地となり、
阪神との間に定期航路が開設され、その後は神戸、土佐清水間にフェリーが就航していたが、2005年(平成17)廃止となった。
国道55号が通じ、阿佐海岸鉄道の終点となる甲浦駅がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/7d/c804cef04c6fffa1f2bb300d4ea93494.jpg)
撮影日・2012年4月5日