しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

佐藤一斎

2021年05月20日 | 銅像の人
場所・岐阜県恵那市岩村町   岩村城






(いわむら観光協会)

佐藤一斎は、
「この人物が居なかったら、日本の夜明けは無かったかも知れない。」と言われる江戸時代後期の儒学者です。


門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがおり、
一斉の著書である「言志四録」は幕末の西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などに大きな影響を与えたと言われています。

城下町には一斎が残した名言が書かれた200枚もの木板が家々の軒下に掲げられてます。
また各所に建てられた碑文は15ヶ所。
岩村町では、至るところで一斎の言葉に触れることができます。
岩村にお越しの際はこのMAPを片手に『碑文めぐり』をしてみてはいかがでしょうか?







撮影日・2015年7月31日



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油屋熊八

2021年05月20日 | 銅像の人
場所・大分県別府市駅前  JR別府駅前

別府駅前の銅像、
全国に偉人の銅像が数多あるなかでも、この像はインパクトが強い!



油屋熊八

別府温泉の開発、観光PRに貢献した地域の偉人。
像は天国から降り立った姿であるというが、
何かよからぬものが上着を引っ張っているような・・・・・。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂 2013年発行






山は富士、海は瀬戸内海、湯は別府

別府観光の生みの親と言われている油屋熊八氏の像で、
満面の笑みで、高く両手を挙げたポーズは、別府駅に降り立つとまず目に入り、人々をホットに包み込むようなそのスケールの大きさと存在感があります。
油屋氏は別府を観光地にしようと、別府港に桟橋を作る運動をしたり、観光バスを通して日本で始めてのバスガイドを乗せたりしました。
地獄めぐりも温泉マークも油屋氏のアイデアです。
「山は富士、海は瀬戸内海、湯は別府」というキャッチフレーズを考案し、
このフレーズを刻んだ標柱を富士山山頂付近に建てたのをはじめ、全国各地に建てて回りました。

(日本一のおんせん県おおいた観光情報公式サイト)








撮影日・2013年2月22日

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村上勇

2021年05月20日 | 銅像の人
場所・大分県佐伯市大手町 三の丸公園





(Wikipedia)

村上勇

大分県南海部郡大入島村(現・佐伯市)に、土建業「村上組」を経営していた村上袈裟松の長男として生まれる。
1918年早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業後、飛島組(現・飛島建設)を経て、1944年、村上組の後身「大和土建」社長となる。

1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党公認候補として旧大分1区から出馬し当選、以後当選14回。
大野伴睦派に所属する。
律儀で地道に仕事に取り組む姿勢を大野に見込まれ、第3次鳩山内閣で郵政大臣、第2次岸改造内閣で建設大臣と日の当たる道を歩んだ。

1964年に大野が亡くなると入閣候補の推薦を巡って派内が紛糾し、先輩の船田中、当選同期の水田三喜男らと袂をわかって村上派を形成。
1971年、船田派を離脱した水田派に村上派が合流する形で、水田に派閥を譲った。
1974年に三木内閣で2度目の郵政大臣を務める。
1977年10月、同年4月に死去した賀屋興宣の後を受けて日本遺族会会長(第5代)にも就任した。

1979年の第34回衆議院議員総選挙で落選したが、1980年の第35回衆議院議員総選挙では、78歳の高齢ながらトップで返り咲いた。
1983年に引退し、その地盤は衛藤征士郎に引き継がれた。1991年1月28日死去。享年88。






撮影日・2013年2月20日

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松平直政

2021年05月20日 | 銅像の人
場所・島根県松江市殿町





(Wikipedia)

松平 直政

越前北ノ荘藩主・結城秀康の三男。
父・秀康が病死すると、その跡を継いだ異母兄・忠直の庇護を受ける。
慶長16年(1611年)4月17日には、忠直の計らいにより京都二条城で祖父・徳川家康に謁見した。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣に出陣し、冬の陣では真田信繁(幸村)が守る真田丸にて戦った。
忠直も直政の活躍を賞賛し、自身の領内に1万石の所領を与えている。
元和2年(1616年)5月6日に幕府から上総姉ヶ崎藩1万石に封じられ、正式な大名となった。
兄・忠直が乱行や叔父・徳川秀忠との不仲から家督の座から隠退させられて豊後国に配流されると、
直政は寛永元年(1624年)6月、越前大野藩5万石に加増移封される。
寛永10年(1633年)信濃松本藩7万石へ加増移封となった。
寛永11年(1634年)、松本城に月見櫓、辰巳附櫓を建てて、城門の修復を行う。
寛永15年(1638年)2月11日、出雲松江藩18万6千石へ加増移封され、国持大名となった。
直政は領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾家や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい。

なお、1927年に松江城本丸に米原雲海による銅像「直政公初陣像」が建立されたが、1943年に金属供出で失った。
2009年、島根県庁前に倉澤實による銅像「松平直政公像」が再建された。







松江歴史資料館のHP

松平直政

祖父は家康と秀吉
真田丸攻めで初陣を飾った武将

堀尾家2代、京極家1代の後、出雲国へ入国した松平家は、以後10代にわたり松江藩主として出雲国18万6千石を支配します。
松平家初代松江藩主である松平直政(1601-66)は、徳川家康の次男・結城秀康の三男であり、二人の天下人・徳川家康と豊臣秀吉の孫にあたります。
本年は直政の没後350年であり、松江藩233年の礎を築いた。



撮影日・2014年9月29日



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足立全康

2021年05月20日 | 銅像の人
場所・島根県安来市広瀬  足立美術館






「庭園日本一 足立美術館をつくった男」 足立全康 日経BPM 2007年発行


日本庭園・世界ランキングで4年連続1位を誇る足立美術館庭園。
年間50万人の来館者を楽しませている広大な庭園と名だたる横山大観コレクションをひとりで築いた男の波乱に富む一代記

島根県安来市の観光名所・足立美術館は年間50万人の入館者を誇る庭園美術館である。
1万3千坪におよぶ日本庭園は、四季折々の変化を心ゆくまで楽しめる憩いの空間。
美術館は「海山十題」など横山大観で有名なコレクション、菱田春草・竹内栖鳳・上村松園・榊原紫峰ら近代日本画の収集で知られている。
北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸館、童画の部屋もある。
生家のあったこの地に、裸一貫で出発してつくった庭と美術館―これこそが、足立翁が90年の生涯をかけた夢とロマンであった。






足立全康

1899年2月、島根県安来市古川町(現足立美術館所在地)に生まれる。
尋常小学校卒業後、家業の農業を手伝う。
十五歳で木炭商を手がけたのをはじめ、主に大阪を本拠地として不動産や繊維関係など、様々な事業を興した。
かたわら、近代日本画などを収集して昭和45年に財団法人足立美術館を設立。
平成2年12月19日没。享年九十二歳




撮影日・2015年12月20日
コメント (1)
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