場所・愛媛県松山市歩行町 秋山兄弟生誕地
制作・1936年道後温泉に建立→復元

「『坂の上の雲』歴史紀行」 JTBパブリッシング 2009年発行
奉天大会戦
明治38年3月1日~10日
日本軍25万人とロシア軍37万人が激突した日露戦争最大の、
そして世界戦史上例を見ない大会戦となった。
奉天会戦におけるロシア軍の敗因の一つとなったのが、秋山好古の率いる騎兵旅団の牽制行動である。
好古は、勝つよりも負けない作戦を選んだ。
馬の機動力は活かすが、戦闘には用いないという作戦だ。
一方のクロパトキンは、神出鬼没な秋山支隊の行動にその神経を悩ませ、思考を狂わせていた。
3月7日日本騎兵が奉天の北方に出現したとの情報に接した彼は全軍に退却を命令した。
日本軍には、もはや追撃する余力はなかったが、翌10日奉天に入城を果たす。
史上最大といわれる奉天会戦は日本軍の勝利に終わった。
しかしロシアは完敗したわけではない。
その頃、
バルチック艦隊はシンガポールに向かって航行中であった。

日露戦争後
秋山好古は日露戦争の後、近衛師団長を経て、
大正5年に陸軍大将、朝鮮駐箚軍司令官、陸軍教育総監など努め、
大正12年に予備役となった。
大正13年、郷里の北予中学校長に就任した。
全国紙が「秋山大将、錦を捨てて郷里の中学校校長に」と書きたてた。
昭和5年まで無遅刻無欠勤であったという。
軍国化の波が教育の場にも押し寄せていたが、
「生徒は兵隊ではない」といい切り、軍事教練を最低限にしたと伝えられる。
糖尿病で辞し、その7ヶ月後死去。71歳。
撮影日・2011年7月14日
制作・1936年道後温泉に建立→復元

「『坂の上の雲』歴史紀行」 JTBパブリッシング 2009年発行
奉天大会戦
明治38年3月1日~10日
日本軍25万人とロシア軍37万人が激突した日露戦争最大の、
そして世界戦史上例を見ない大会戦となった。
奉天会戦におけるロシア軍の敗因の一つとなったのが、秋山好古の率いる騎兵旅団の牽制行動である。
好古は、勝つよりも負けない作戦を選んだ。
馬の機動力は活かすが、戦闘には用いないという作戦だ。
一方のクロパトキンは、神出鬼没な秋山支隊の行動にその神経を悩ませ、思考を狂わせていた。
3月7日日本騎兵が奉天の北方に出現したとの情報に接した彼は全軍に退却を命令した。
日本軍には、もはや追撃する余力はなかったが、翌10日奉天に入城を果たす。
史上最大といわれる奉天会戦は日本軍の勝利に終わった。
しかしロシアは完敗したわけではない。
その頃、
バルチック艦隊はシンガポールに向かって航行中であった。

日露戦争後
秋山好古は日露戦争の後、近衛師団長を経て、
大正5年に陸軍大将、朝鮮駐箚軍司令官、陸軍教育総監など努め、
大正12年に予備役となった。
大正13年、郷里の北予中学校長に就任した。
全国紙が「秋山大将、錦を捨てて郷里の中学校校長に」と書きたてた。
昭和5年まで無遅刻無欠勤であったという。
軍国化の波が教育の場にも押し寄せていたが、
「生徒は兵隊ではない」といい切り、軍事教練を最低限にしたと伝えられる。
糖尿病で辞し、その7ヶ月後死去。71歳。
撮影日・2011年7月14日