しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

NHK・英雄たちの選択「5・15事件」 

2021年05月13日 | 昭和元年~10年
日時・NHKBS「英雄たちの選択・5・15事件」  2021.5.12 20:00~21:00



広い岡山平野で、岡山市と倉敷市の市境ふきんに犬養木堂生家がある。
今は地域の人により記念館として保存され、憲政の資料館も兼ねている。

昨日、NHKで木堂の番組があったので見た。







一口に言って、60分では番組構成に無理があった。時間が足りない。
新聞の番組表には「5・15事件」と載っていたが、それにしぼっった番組作りの方がよかった。








なぜなら、
木堂先生の政治キャリアは非常に長く、明治憲法の第一回選挙から、大正、昭和とつづいて、
最後は5・15事件で幕を閉じた。


番組は長年の事件や活動を羅列したため、見て理解する方も頭が分散してしまった。





尾崎行雄と憲政活動。
宮崎滔天と大陸での孫文ほか人脈、その経過。
普通選挙。






軍国主義やテロの横行。
自身が失政した統帥権干犯問題。


最後は首相に上りつめたが、間もなく「話せばわかる」の言葉を残して死んだ。






やはり木堂先生をテレビで放送となれば、NHK大河ドラマが一番適しているように思う。
すくなくても1年間は必要。

岡山県内では戦国時代の”後北条”や、幕末の”山田方谷”の運動があるが、
”犬養木堂”の方がいい。
なにより歴史としての重要度が、北条や方谷とは、まったく比較にもならない。


弱者によりそった一生は称えられ、
親や祖父母が生きた時代を、リーダーとしてどのように悩み・指導・決断したのか
国民は知りたい、知らなければいけない、と思っている。






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瀧廉太郎 (岡城)

2021年05月13日 | 銅像の人
大分県竹田市 岡城跡
制作・朝倉文夫
設置・昭和25年

滝廉太郎

明治12年(1879)~明治36年(1903)
東京生まれ。
ピアノ・作曲をケーベルに学び、「四季」「荒城の月」「箱根八里」などを作曲。
明治34年ドイツに留学したが病気となり、帰国後死亡。
西洋音楽と日本音楽の叙情性を巧みに調和させ、後世に大きな影響を与えた。

像の作者朝倉文夫は竹田高等小学校の同窓生。
「荒城の月」の楽想はこの岡城跡で得たといわれる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行








「童謡 唱歌の故郷を歩く」 井筒清次 河出書房新社 2006年発行

荒城の月

瀧廉太郎(明治12~36年)は、東京芝の生まれで、
少年期を大分県竹田で過ごしました。音楽を志して上京し、
高等師範学校附属音楽学校(のち東京音楽学校)に入り、首席で卒業。
当時から俊才といわれました。

明治33年には合唱組歌「四季」を発表、
翌年出版の『中学唱歌』には「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」が採用されています。
この年ライブツィヒに留学しますが、すぐ病に冒され、明治36年、23歳10ヶ月で亡くなりました。

作詞の土井晩翠(明治4~昭和27年)は、島崎藤村と並び称された詩人。
「荒城の月」作詞の際は、仙台の青葉城、あるいは会津の鶴ヶ城を想定したといい、瀧は竹田の岡城を思い浮かべて作曲したといわれています。
いまは、いずれにも碑が建てられています。

平成15年、廉太郎没後百年を記念して、ライブツィヒの地に、記念碑が建てられました。
碑には「日本の近代音楽の扉を開いた業績は永遠に輝き続ける」などと刻まれ、
除幕式の最後には「花」がうたわれたといいます。









瀧廉太郎記念館「案内板」

瀧廉太郎は、12歳から14歳まで、郡長であった父に従がい、竹田に住み、ここではじめてオルガンを習います。
ところが、当時大分県にはピアノが一台もなく、オルガンの先生も少ないため音楽を勉強するには東京、
というわけで上京したということです。

その竹田には、いま当時の住居が復元され瀧廉太郎記念館となっています。
瀧もよく遊びに行った岡城の上には同窓の朝倉文夫作の銅像も置かれ、竹田界隈を一望のもとに見ることができます。
なお、瀧には、東くめらと協力して作った、はじめての伴奏つき『幼稚園唱歌』があり、
ここには「鳩ぽっぽ」や「お正月」が収められています。









撮影日・2013年2月21日



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瀧廉太郎 (日出)

2021年05月13日 | 銅像の人
場所・大分県速見郡日出町  日出城跡






「荒城の月」と日出城

明治33年(1900)、音楽学校が中学唱歌を出版することになり、歌詞は当時一流の文士に委嘱し、その作曲は懸賞募集され、1人3曲以内の応募が認め られた。
当時、音楽学校の研究科に在籍していた廉太郎は、「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の3曲を応募した。
そして、この3曲全てが入選することにな り、多くの人々を驚嘆させ、
それまで単にピアニストとして優れた腕を示していた廉太郎は、一躍作曲家としてその将来を期待されるようになった。

 「荒城の月」と共に作曲された「豊太閤」は、豊臣秀吉の功績を歌った曲である。
日出藩の居城「日出城」(別名:暘谷城)は、豊臣秀吉の妻ねねの甥にあたる木下延俊が、慶長6年(1601)に築いた、全国的にも珍しい豊臣家ゆかりの城である。
同時期に作曲されたこの2曲に共通点があるとすれば、それは「日出城」かもしれない。

 廉太郎は、父吉弘の転任に伴い、家族と共に同行した。
大分に帰り、竹田から東京の音楽学校に入学、そして「荒城の月」の作曲までは11歳から21歳までの10年間であるが、
その間、家族とまたは単独で日出町に墓参りし、親族の家等を訪問したであろう事は想像にかたくない。
その節、日出城の本丸跡の城下を訪れ、岸に砕ける波の音が、多感な青少年時代の彼の耳に残され、あの名曲の旋律になったのではあるまいか。

ひじまち観光情報サイト(公式)









「荒城の月」で有名な瀧廉太郎を輩出した瀧家は、日出藩の家老職などを代々努めた由緒ある家柄。
龍泉寺には瀧家各代の墓があり、瀧廉太郎も墓参りに訪れていたといわれます。
瀧家累代の墓には廉太郎本人も葬られています。
※もともと瀧廉太郎の墓は大分市の万寿寺にありましたが、
祖先とともに葬りたいとの親族らの意向により、平成23年に祖先の眠る龍泉寺へ移設されました。

(大分県速見郡日出町のHP)






撮影日・2013年2月22日


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瀧廉太郎(大分市)

2021年05月13日 | 銅像の人
場所・大分県大分市


瀧廉太郎は当時珍しい転勤族の家に生まれたので、
短い生涯ではあるが、縁の地で郷土の誇りになっている。







瀧廉太郎の生涯


瀧廉太郎は1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれます。
滝家は江戸時代、日出藩の家老職をつとめた上級武士の家柄であり、
父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、
地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市等を移り住んだため滝は5回の転校を繰り返したといいます。

1894年(明治21年)に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入った瀧は1898年に本科を卒業した後、
研究科に進んで作曲とピアノ演奏で才能を伸ばし、また1900年10月7日には東京市麹町(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エビスコバル・チャーチ(博愛協会)で洗礼を受けてクリスチャンになり、
ジョン・マキムから堅信礼を受けます。

1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、
東部ドイツにあるライプツィヒ音楽院に留学しピアノや対位法(複数の旋律をお互いに美しく響かせたいときに用いられる)を学びますが、
わずか2ヶ月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされ、
その後は父の故郷である大分県で療養していましたが、
1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で23歳という若さで亡くなりました。


「~府内に息づく魅惑の世界~
瀧廉太郎の生涯/瀧廉太郎と作曲」より









撮影日・2013年2月21日

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