「日本の歴史14」 研秀出版 1973年発行
事変の展開
鉄道爆破の下手人は、当時満州におかれていた日本の関東軍であったが、
この軍隊はこれに対して「暴戻(乱暴で正しくない)な中国兵」の仕業であるとして即夜いっせいに起ちあがり、
翌19日早朝までに奉天城を難なく占領した。
引き続き、やや苦戦ののち長春を陥れ、奉天軍を武装解除した。
そしてふらふら腰の若槻内閣や陸軍省が打ち出した不拡大方針は完全に無視されて、
関東軍は事変拡大の一路をたどった。
満州事変 「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公文庫 1995年発行
当時の首相若槻礼次郎は、『古風庵回顧録』の中に”命令を聞かぬ軍隊”と題して正直に告白している。
その年(昭和6年)の9月のはじめのある朝、
私は驚くべき電話を陸軍大臣(南次郎)から受けた。それによると、昨夜9時ごろ、
奉天において、わが軍は中国兵の攻撃を受け、これに応戦、敵の兵舎を襲撃し、中国兵は奉天の東北に脱走、
わが兵はいま長春の敵砲兵団と戦いを交えつつある、という報告であった。
そこで政府は直ちに臨時閣議を開き、事態を拡大せしめない方針を定め、
陸軍大臣をして、これを満州のわが軍隊に通達せしめた。
これはわが国が9ヶ国条約や不戦条約に加盟しているので、
満州における今度の出来事が、それに違反するかどうかを確かめる必要があるので、
その間事態の拡大を防ぐのが当然であるから、右の措置をとったのである。
元来軍隊は外国に派遣するには勅裁を受けなければならないのに、朝鮮軍司令官は、この手続きを経ないで、
派兵してしまった。
そこで参謀総長は参内して、事後の御裁可を仰いだ。
陛下は、政府が経費の支出を決定しておらないというので、御裁可にならない。
参謀総長は非常な苦境に陥った。
しかし出兵しないうちならとにかく、
出兵した後に、その経費を出さねば、兵は一日も存在できない。
だからいったん兵を出した以上、私は閣員の賛否にかかわらず、すぐに参内して、
政府は朝鮮軍派兵の経費を支弁する考えでありますと奏上した。
出兵の勅裁を受けた。その時に陛下から、
”将来をつつしめ”とおしかりをこうむった。
抜群の秀才として有名な若槻首相は、一生懸命になって弁解しているが、右の措置により、
朝鮮出兵の政治的責任は、若槻首相が負うことになった。
若槻は心を鬼にして、満州への無断越境をした朝鮮軍を少なくとも一時的に見殺しすべきであった。
もしそうするだけの勇気が若槻首相にあったとしたら、
日本は自殺的戦争に突入することはなかったはずである。
「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公文庫 1995年発行
事変の展開
鉄道爆破の下手人は、当時満州におかれていた日本の関東軍であったが、
この軍隊はこれに対して「暴戻(乱暴で正しくない)な中国兵」の仕業であるとして即夜いっせいに起ちあがり、
翌19日早朝までに奉天城を難なく占領した。
引き続き、やや苦戦ののち長春を陥れ、奉天軍を武装解除した。
そしてふらふら腰の若槻内閣や陸軍省が打ち出した不拡大方針は完全に無視されて、
関東軍は事変拡大の一路をたどった。
満州事変 「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公文庫 1995年発行
当時の首相若槻礼次郎は、『古風庵回顧録』の中に”命令を聞かぬ軍隊”と題して正直に告白している。
その年(昭和6年)の9月のはじめのある朝、
私は驚くべき電話を陸軍大臣(南次郎)から受けた。それによると、昨夜9時ごろ、
奉天において、わが軍は中国兵の攻撃を受け、これに応戦、敵の兵舎を襲撃し、中国兵は奉天の東北に脱走、
わが兵はいま長春の敵砲兵団と戦いを交えつつある、という報告であった。
そこで政府は直ちに臨時閣議を開き、事態を拡大せしめない方針を定め、
陸軍大臣をして、これを満州のわが軍隊に通達せしめた。
これはわが国が9ヶ国条約や不戦条約に加盟しているので、
満州における今度の出来事が、それに違反するかどうかを確かめる必要があるので、
その間事態の拡大を防ぐのが当然であるから、右の措置をとったのである。
元来軍隊は外国に派遣するには勅裁を受けなければならないのに、朝鮮軍司令官は、この手続きを経ないで、
派兵してしまった。
そこで参謀総長は参内して、事後の御裁可を仰いだ。
陛下は、政府が経費の支出を決定しておらないというので、御裁可にならない。
参謀総長は非常な苦境に陥った。
しかし出兵しないうちならとにかく、
出兵した後に、その経費を出さねば、兵は一日も存在できない。
だからいったん兵を出した以上、私は閣員の賛否にかかわらず、すぐに参内して、
政府は朝鮮軍派兵の経費を支弁する考えでありますと奏上した。
出兵の勅裁を受けた。その時に陛下から、
”将来をつつしめ”とおしかりをこうむった。
抜群の秀才として有名な若槻首相は、一生懸命になって弁解しているが、右の措置により、
朝鮮出兵の政治的責任は、若槻首相が負うことになった。
若槻は心を鬼にして、満州への無断越境をした朝鮮軍を少なくとも一時的に見殺しすべきであった。
もしそうするだけの勇気が若槻首相にあったとしたら、
日本は自殺的戦争に突入することはなかったはずである。
「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公文庫 1995年発行