しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満州事変、若槻首相が越境出兵を承認

2021年05月19日 | 昭和元年~10年
「日本の歴史14」 研秀出版 1973年発行

事変の展開

鉄道爆破の下手人は、当時満州におかれていた日本の関東軍であったが、
この軍隊はこれに対して「暴戻(乱暴で正しくない)な中国兵」の仕業であるとして即夜いっせいに起ちあがり、
翌19日早朝までに奉天城を難なく占領した。
引き続き、やや苦戦ののち長春を陥れ、奉天軍を武装解除した。
そしてふらふら腰の若槻内閣や陸軍省が打ち出した不拡大方針は完全に無視されて、
関東軍は事変拡大の一路をたどった。







満州事変  「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公文庫 1995年発行


当時の首相若槻礼次郎は、『古風庵回顧録』の中に”命令を聞かぬ軍隊”と題して正直に告白している。


その年(昭和6年)の9月のはじめのある朝、
私は驚くべき電話を陸軍大臣(南次郎)から受けた。それによると、昨夜9時ごろ、
奉天において、わが軍は中国兵の攻撃を受け、これに応戦、敵の兵舎を襲撃し、中国兵は奉天の東北に脱走、
わが兵はいま長春の敵砲兵団と戦いを交えつつある、という報告であった。

そこで政府は直ちに臨時閣議を開き、事態を拡大せしめない方針を定め、
陸軍大臣をして、これを満州のわが軍隊に通達せしめた。
これはわが国が9ヶ国条約や不戦条約に加盟しているので、
満州における今度の出来事が、それに違反するかどうかを確かめる必要があるので、
その間事態の拡大を防ぐのが当然であるから、右の措置をとったのである。


元来軍隊は外国に派遣するには勅裁を受けなければならないのに、朝鮮軍司令官は、この手続きを経ないで、
派兵してしまった。
そこで参謀総長は参内して、事後の御裁可を仰いだ。
陛下は、政府が経費の支出を決定しておらないというので、御裁可にならない。
参謀総長は非常な苦境に陥った。

しかし出兵しないうちならとにかく、
出兵した後に、その経費を出さねば、兵は一日も存在できない。
だからいったん兵を出した以上、私は閣員の賛否にかかわらず、すぐに参内して、
政府は朝鮮軍派兵の経費を支弁する考えでありますと奏上した。
出兵の勅裁を受けた。その時に陛下から、
”将来をつつしめ”とおしかりをこうむった。


抜群の秀才として有名な若槻首相は、一生懸命になって弁解しているが、右の措置により、
朝鮮出兵の政治的責任は、若槻首相が負うことになった。
若槻は心を鬼にして、満州への無断越境をした朝鮮軍を少なくとも一時的に見殺しすべきであった。
もしそうするだけの勇気が若槻首相にあったとしたら、
日本は自殺的戦争に突入することはなかったはずである。



「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公文庫 1995年発行




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若槻礼次郎

2021年05月19日 | 銅像の人
場所・島根県松江市  島根県庁前





若槻礼次郎

若槻礼次郎は二度にわたって首相に就任している。
最初は加藤高明が首相在任中に病死した時、
二度目は浜口雄幸が狙撃され執務不能となった時で、
ともに前内閣から引き継いだのち、比較的短期間で総辞職に至っている。
ピンチヒッター的な意味合いが強い。

つまり、加藤・浜口という個性の強い首相の良き参謀役であるが、
単なる代役では首相になれないのも事実である。

大局的に見れば、彼は与えられた現実の中で的確な判断を下すバランス感覚にすぐれたステーツマンであった。
明治末の窮乏する国家財政への対処、
大正2年政党政治家への転身、
昭和初期の軍閥に対する抵抗など、
彼の判断は今から見ても説得的であり、その背景には確固たる識見があったことは疑いない。

しかし政党総裁・首相としての彼の行動には、いささか優柔な面が目につく。
満州事変勃発の時にはリーダーシップをとることができず、結局総辞職した。
その優柔さが日本にとって不幸であったのかもしれない。


「首相列伝」  学習研究社  2003年発行






撮影日・2014年9月29日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

支倉常長

2021年05月19日 | 銅像の人
場所・宮城県仙台市青葉区川内  青葉山公園(仙台城跡)






支倉常長

江戸前期の仙台藩士。
慶長18年(1613)伊達政宗の命により遣欧使として宣教師ソテロとともにメキシコを経てスペイン、イタリアに渡り、
元和元年(1615)ローマで教皇パウロ5世に謁した。
元和6年(1620)帰国したが、仙台藩では禁教令が出ており不遇のうちに病没した。

「日本史探訪12」 角川書店編 角川文庫  昭和58年発行









≪ローマのバチカン法王庁附属図書館に、日本語で書かれた一通の古文書がある。
元和元年(1615)
支倉六右衛門常長という武士が、はるばるとローマ法王パウロ五世に奉ったその文書には、
一人の戦国大名の雄大な夢が託されていた。
当時、七つの海に君臨した大国スペインとの交易を策したその大名は、ローマ法王に国書を呈し、
スペイン王フィリップ三世への通商斡旋を依頼したのである。
しかし、彼の夢は、徳川幕府の鎖国政策によって、むなしく消えていった。
古文書の末尾には、
「慶長18年9月4日 伊達陸奥守政宗」と記されている≫

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行





撮影日・2018年8月6日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忠治地蔵

2021年05月19日 | 銅像の人
場所・長野県須坂市須坂





大衆のヒーロー・国定忠治。



歌うは、東海林太郎、「名月赤城山」

♪男ごころに 男が惚れて 意気がとけ合う 赤城山 澄んだ夜空の まんまる月に 今宵横笛 誰が吹く


浪曲は広沢虎造

芝居は新国劇、今は無き”新国劇”の代名詞のお芝居。
国定忠治は辰巳柳太郎、その前は沢田正二郎が演じていたそうだ。

映画は片岡千恵蔵、ほか多数。

「赤城の山も今夜を限り、生まれ故郷の国定村や縄張りを捨て、国を捨て、可愛い子分の手前(てめえ)たちとも別れ別れになる首途(かどで)だ」





上州の忠治は信州にも多くの足跡を残し、蔵の町・須坂には忠治地蔵があり、忠治親分を忍ばせている。




撮影日・2017年9月26日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南部利祥騎馬像跡

2021年05月19日 | 銅像の人
場所・岩手県盛岡市内丸    盛岡城跡公園(岩手公園)


日本100名城の「盛岡城」、
石垣や、
啄木の歌碑~不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心~
などあり。





だが、城跡で存在感が飛び切り目立つのが、この銅像の台座。
あったであろう銅像、そして、それを囲む鉄の鎖がない。


置かれた場所といい、重厚感といい、初代南部藩のお殿様だろう。
そして、戦時中に供出され、戦後は再建もされなかった銅像跡、と思った。



しかしお殿様の銅像ではなかった。
その直系子孫で、軍人、日露戦争で戦死した伯爵で陸軍中尉。





(Wikipedia)
南部 利祥(なんぶ としなが)
1882年(明治15年)1月25日 - 1905年(明治38年)3月4日)は、日本の陸軍軍人。
最後の盛岡藩主・南部利恭の長男で、南部家第42代当主である。階級は陸軍騎兵中尉。位階勲等功級は正四位功五級金鵄勲章受章。爵位は伯爵。

1902年(明治35年)陸軍士官学校を卒業、1903年(明治36年)陸軍騎兵少尉に任じられる。
同年10月9日、父・利恭の死去により南部家第42代当主となる。
1904年(明治37年)、日露戦争が勃発し、利祥は満州の最前線で活動した。
翌1905年(明治38年)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日に井口嶺の戦いで銃弾を浴び戦死した。享年23。
利祥の栄誉を後世に残すため、旧盛岡藩士らによって1908年(明治41年)、岩手公園に利祥の銅像が建立された。
しかし、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に金属供出によって撤去されたため、現在は台座が残るのみである。





(盛岡市岩手公園HP)
南部(利祥)中尉騎馬像台座
南部家42代利祥(としなが)が24歳で日露戦争において戦死し,
その功によって,功五級金勲章を受けたことを顕彰する像で,明治41(1908)年9月に建立されましたが,
銅像本体と玉垣の鎖は昭和19(1944)年に軍需資材として供出され,現在は台座のみが残されています。





撮影日・2018年8月5日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結城秀康

2021年05月19日 | 銅像の人
場所・福井県福井市  福井城跡






「福井県の歴史」  印牧邦雄 山川出版社 昭和48年発行

結城秀康の入部

慶長5年(1600)、徳川家康の次男結城秀康は関ケ原戦の恩賞として越前国68万石を与えられた。
慶長6年越前に入部した秀康は、同年北ノ庄城の築城に着手し、慶長11年に完成した。
下総結城の領主から一躍越前一国の太守になった秀康は、禄を惜しまず、全国から武功の士を集めた。


秀康は城下町の繁栄にも意をそそぎ、民政にも心がけた。
秀康には6男1女があった。
長男・忠直は家督をついだが改易、次男忠昌が越前松平家として廃藩まで子孫が在城した。
忠直の子孫は津山松平家10万石としてつづいた。









撮影日・2015年8月3日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒田清隆

2021年05月19日 | 銅像の人
場所・北海道札幌市  大通り公園

薩摩出身。戊辰戦争に従軍、維新後は北海道開発、その後首相などを歴任した。







「北海道の歴史」 榎本・君共著  山川出版社 昭和44年発行
黒田清隆とケブロン


明治3年、開拓使より樺太開拓使が分離され、
8月になって黒田清隆が開拓次官になった。樺太専任である。

当時ロシアは、農民や多数の流刑員を樺太南半に移住させていた。
黒田は一ヶ月あまりかかって樺太を視察したのち、帰京、
重大な建議書を提出したのである。

現在の情勢のままでは、樺太はあと3年ぐらいしか保てないだろうと、黒田はいう。
改革の法としては、
石狩に鎮府をおき、大臣を総督にして北海道樺太一体に経営すること、
外国人技術者をまねき、海外へ留学生を派遣することなどをのべた。
これは西洋技術を導入して開拓をはかる方針を示すとともに、他方では、
樺太放棄の前提でもあった。

アメリカ合衆国農務局総裁ケブロン招へいに成功、ケブロンは3人の幕僚をつれて赴任した。
諸税、開拓証券、屯田兵、炭内炭山が特別に認めらられた。
次官黒田は長官になり、参議になり、いわゆる黒田時代がはじまるのである。

札幌に本庁をおいたが、黒田はふつうは東京の出張所にいた。
ケブロンも在任4年のうち3度しか渡道せず、部下を使っての報告・意見をのべた。

開拓使は、味噌・醤油の製造から、鮭鱒・カキ・鹿肉の缶詰、
ビール、ぶどう酒、製粉、製網、機械など、多方面にわたる官営工場を設立した。
いまのサッポロビールの全身もある。
また牧場や鉱山も官営された。










撮影日・2014年2月5日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅立ちの法然さま (三原市)

2021年05月19日 | 銅像の人
場所・広島県三原市西町 大善寺


三原市街地の東西に「旅立ちの法然さま」が二体ある。



(大善寺)



法然

法然(1133~1212)は1145年比叡山に登り、皇円に師事した。時に13歳である。
父は美作の国久米南条の稲岡荘の押領使の職にあったが、法然9歳の時攻撃されて死んだ。
父は法然に、復讐をくれぐれも断念するよう遺言して絶命した。
母も殺害されたか自害した。
幼くして法然は悲惨な孤児の世界に投げ出された。

保元元年(1177)43歳の時、東山大谷に住み、
南無阿弥陀仏を唱える称名念仏の主張を決定化し、念仏流行をもたらせた。
彼によれば、比叡山で教えているような高遠な教義や困難な修行では、一日を生きることの精一杯な大衆はとても救われない、
この大衆とともに生き、大衆の心に希望の灯火を点ずるためには、口に念仏を唱え、ただ阿弥陀如来を信ずるだけでよい、
という一向専修の念仏がなによりも必要である、と考えた。


「鎌倉仏教」  戸頃重基 中公新書  昭和42年発行





(大善寺)









場所・広島県三原市東町  極楽寺



(極楽寺)




撮影日・2013年12月7日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする