しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

伊東マンショ騎馬像

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)





天正使節団


天正10年頃、豊後の受洗者は1万を超えた。
日本人宣教師がさかんに養成された。
神学校の少年の進歩に驚き、その成果をローマ教皇やポルトガル王に示すことを考え、
少年使節の派遣となった。
大友・有馬・大村の三大名を説き、神学校の生徒から4人を選んだ。

天正10年1月28日長崎を出航、マカオ・マラッカをへてゴアに着いた。
インドから喜望峰・セントヘレナ島を経て天正12年8月11日ポルトガルのリスボンに着いた。
マドリッドでフィリップ2世に謁して翌年船でイタリアにはいり、3月20日ローマに着き、
84歳の老教皇グレゴリオ13世に謁見して三大名の書状を奉呈した。

帰路は天正13年6月3日にローマを発し、ジェノバから乗船しイスパニアで皇帝・皇后に謁し、
ポルトガルのリスボン発は翌年2月14日であった。
アフリカをまわってインドのゴア、マカオを経由して、天正18年6月16日、
前後8年を要して長崎に帰着した。

「大分県の歴史」  渡辺澄夫  山川出版社  昭和46年発行







今からおよそ390年の昔、はるかな東洋の果て日本から、
ヨーロッパへの最初の使節として、リスボンではじめてヨーロッパの土を踏んだ4人の少年たちがあった。
16世紀のヨーロッパは、スペインやポルトガルの船乗りが世界に雄飛した大航海時代である。
イタリアには芸術の花が咲き誇ったルネサンスの時代でもあった。
一行がヨーロッパに到着した1584年は、日本の年号で天正12年である。

・・・

少年使節一行がエスコリアルに泊った頃は、スペインの黄金時代であった。
だが、4年後少年たちが帰国途中イギリス海軍により無敵艦隊は敗れた。
一方、8年5ヶ月の旅を終え帰ってきた日本もまた大きく変わっていた。
大友宗麟、大村純忠は既に世になく、
秀吉の宣教師追放令とともに、日本のキリシタンにとって暗い長い時代が始まろうとしていた。


千々和ミゲルが3~4年で棄教。迫害者側につく。
伊東マンショ慶長17年長崎で病死。
原マルティノ、マカオで病死。
寛永10年(1633)、長崎で老神父が殉教した。
「われこそは、ローマを見た中浦ジュリアンである」と刑場で誇らしげに絶叫したという。


「日本史探訪11」 角川書店編 角川文庫  昭和59年発行







撮影日・2013年2月21日

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フランシスコ・ザビエル

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・長崎県平戸市








ザビエルはなぜ日本にやってきたか


天文18年にザビエルがはじめて鹿児島に着いて、それからキリシタン・バテレンというものが、
日本の社会に大きな影響を及ぼした。
それから約百年、寛永16年三代将軍家光の鎖国でいちおうカタがついた。

ザビエルは印度ゴアにきてから、南アジアの各地を布教して歩いた。
東インド地方で非常な成功をおさめたものの、文化レベルが低いのを不満に思っていた。
そうして1547年マラッカで鹿児島のヤジロウという日本人にはじめて会い、
日本人の文化的、知的の高さに非常に引かれ、日本こそ自分の布教するところだと感じた。


ヤジロウは、海賊船と関係ある、八幡船というか倭寇と関係ある、武士か町民か、よくわかりません。
海商だったようです。フロイスとはゴアで面識があった。

ザビエルは日本語は知らないので、そのお説教を日本語に直して教える。
むずかしいのは宗教用語です。
その通訳を最初にしたのがヤジロウだった。
のち「ヤジロウの無学のため、最初の教理書は日本人の物笑いの種となった」。


初期のキリシタンの教えは、珍奇なものとか、何か新しいムードをもったような感じで受け容られてきた。
ところが根を下ろすような形になると、当然いままでの宗教とぶつかる。
いちばん積極的なのは禅宗です。

種子島にポルトガル人が初めてきて、日本を発見し、航路を発見し、
日本貿易が非常に利益があることもわかった。
毎年のようにポルトガルの商船が九州各地の港に入ってきた。
またザビエルにつづく宣教師もきた。
宣教師を保護しない大名の湊には入港しないので、大名も保護した。
南蛮船が来れば京都や大坂の商人も来る、海外からの商品を手に入れようとする。
商品は中国の生糸や絹織物が主だった。


信長は九州を平定していなかった。
毛利はキリシタンに反対している。
少なくとも中国を平定するまでは、九州はそっとしておく。
つまりキリシタンに好意的な態度を見せておく。
平定したら態度を改める・・と思います。

主君のために命を捧げる、のではなくて、神のために死ぬならば極楽に行けるという、殉教の考えが日本の為政者にとっては非常に恐ろしいものになってくる。
それが衝突の深い原因だったのではないか、と考えております。


「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行












撮影日・2012年5月11日   


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西洋音楽発祥記念像

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)





(大分市観光協会)

西洋音楽発祥記念碑

府内は聖フランシスコ・ザビエルがこの地で布教して以来、日本で最初に西洋文化が栄えた町となりました。

弘治3年(1557)、府内教会では復活祭に聖歌隊が結成され、オルガンの伴奏で讃美歌を合唱しました。
以降、府内の町からは、美しい讃美歌の歌声が流れるようになりました。

また神父からビオラを学んだ少年たちは、永禄5年(1562)、領主大友宗麟の前でこれを演奏し、大いに称讃を受けたそうです。









撮影日・2013年2月21日


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西洋医学発祥記念像

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・場所・大分県大分市大手町(遊歩公園)






(日本一のおんせん県おおおいた)

西洋医学発祥記念像


説明
大分市の府内城跡から南へ450m続く遊歩公園。
ここは、南蛮文化が栄えた当時の〝府内〟が感じられる銅像が数多く立ち並んでいます。
歴史から学ぶ新しい文化を感じながら、あなたも歩いてみませんか。
西洋医学発祥記念像、ポルトガルの青年医師アルメイダだが、日本人助手とともに手術を行おうとする像。









撮影日・2013年2月21日

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大関魁皇

2021年05月31日 | 銅像の人
場所・福岡県直方市大字山部   JR直方駅前





普通、巨漢力士と小兵力士が土俵にあがると、
巨漢力士の方が悪役的なあつかいの雰囲気になるが、魁皇だけは違った。

気は優しくて力持ちのイメージで人気があった。


今、”名大関”だった人は?と問われたら、
自分は南海の黒豹・若嶋津と魁皇をあげる。

二人とも名大関だった。


(福岡県議会HP)
大関魁皇」像建立記念式典及び除幕式

平成26年10月26日、「大関魁皇」像建立記念式典及び除幕式が直方市で行われ、加地邦雄議長が出席しました。
「大関魁皇」像は、大相撲史上最多の1047勝をはじめ数々の記録を残した大関魁皇の功績を顕彰し、
後世に伝えようと建立されたもので、高さ約2.4メートルのブロンズ製の像が、
元大関魁皇関(浅香山親方)の出身地である直方市のJR直方駅前広場に完成しました。
式典と除幕式には、浅香山親方(元大関魁皇関)も出席され、大勢のファンや市民が集まりました。








撮影日・2017年2月14日


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