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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

米騒動④小田郡笠岡町その2

2020年06月28日 | 大正
「笠岡市史第三巻」 笠岡市史編さん室編 平成8年 ぎょうせい発行

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笠岡の米騒動については、正確な動きは分からない。

『岡山県郡治誌』によると、
8月13日午後8時ごろ、
「笠岡町民は町内の寺院に集合して、その数600名700名に及び、
警察署長の説諭に服さず、米商7戸を襲って米の廉売を強要して瓦礫を投げて表戸を破壊するなどの暴行をして
午前5時に引き揚げた」とある。

『岡山県警察史』にも、
同一記事が載っている。

『岡山県史近代Ⅱ」によると、
8月13日午後12時「群衆約150名其家に押し寄せ、門戸を乱打して之を開かしめたるうえ、店内乱入し素麺・うどんの廉売を強要し、
更に其肥料商を襲い白米の廉売及び金員の寄付を迫り之を承諾」させた。

小田郡神島内村、同外村では、
両村精錬所煙害地被害民が、米価高騰を機として大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、
15日夜9時ごろ日光寺の梵鐘を乱打し、鴨野に集合し、(山陽新報8月19日)
群衆2.000人がこれに加わり喧噪となった。
工場側は数百名を出して警戒、笠岡警察署も現場に急行し、鎮撫に努めたので群衆は解散したと記されている。

山陽新報8月25日の記事、
「笠岡町では8月13日、さっそく白米廉売を始めた。
笠岡町は、町の事業として白米一升20銭にて廉売すること、これが救済基金1万円は、町内有志よりの寄付金をもって充当することに決せり。
小田郡笠岡町にては、米騒動も平穏に服し、戎座(のちの大和座)にては、21日より演劇し、付近の村落にては盛んに盆踊りの行われて活気を呈せり」としている。


8月13日から21日まで、なぜ新聞に書かれなかったか。
それは岡山県警察著長名で「掲載一切禁止、掲載したる場合は直ちに差押」禁令を出していたからである。


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米騒動③小田郡笠岡町その1

2020年06月28日 | 大正

「岡山県社会運動史第三巻」水野秋著


8月13日夜、
小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。
暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。

西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。
闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。
笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。
群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。
篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。
そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ、
たまりかねたように内部から開き、主人が出て平身低頭した。
その主人に語気鋭く、麦稈真田の仲買人を営む赤木佐太郎、通称「天神」と呼ばれるやくざ者が、廉売を要求した。
怒りに燃える群衆に、すっかり呑み込まれ、おびえきった篠井の主人は在庫量と廉売の約束をした。

「次はヒゲ田中じゃ」
の一声で、群衆は笠岡駅東側にある田中米店へ向かった。
ところがヒゲ田中主人は頑固で、容易に首を縦に振らなかった。
今度は、「天神」にかわって通称「ばん爺ィ」こと定兼伴次郎という浜仲仕が飛び出し、
店先に置いている米はむろん麦、豆類までかたっぱし桶ですくい路上にばらまき、群衆の歓声を浴びた。

「つぎは仁王堂の村上じゃ」
と、一夜のうちに数件の米屋が襲われた。

「天神」とか「ばん爺ィ」とか、やくざ沖仕が騒ぎの先頭に立ったのが笠岡の特徴であった。

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米騒動②富山・京都・名古屋・阪神・田川~内閣退陣

2020年06月28日 | 大正
「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

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富山県の出来事は新聞に詳しく報道され、富山市や県内各地に伝染し、全国に波及してゆく。
まっさきに反応したのは8月8日、岡山県真庭郡落合町。
規模が大きく、深刻な衝撃をもたらしたのは、名古屋と関西の大都市での騒動である。

京都
8月10日夜、
京都では”細民”層の死活問題となってきた。
下京区柳原の住民が400人、「米屋をやっつけろ」と丸太やこん棒を手に押し出し、一行はみるみる千人近くふくらんだ。
つぎつぎに米屋に押し込む。
検事と警官隊が出動し、柳原町一帯は戦場のようになった。
8月11日、
西陣方面では、織物工ら2.000人が北野天満宮から「米を下げろ」と市中を練り歩いた。
夜になると、あちこちの町で窮民がそれぞれ押し出し、混乱が全市に及んだ。
午後10時、知事の請求で騎兵と歩兵連隊から170人の軍隊が出た。午前0時やっと群衆が退散した。
8月12日、
前日よりもさらに不穏となった。一部の市街地は戸を閉め、無政府状態のありさま。
京都府警は「夜間外出するものは暴民とみなす」と布告。
市内各所に外米の廉売市場ができて鎮静にむかった。


名古屋
8月10日夜、鶴舞公園に5千から3万といわれる人たちが集まり、警官隊と衝突があった。
11日~12日、事態は悪化。
警官は抜剣、群衆は瓦を投げて争闘す。


大阪
8月11日夜、
天王寺公会堂で米価調整大会、参加3.000人。
その夜、今宮などで米屋がかたっぱしから襲われる。警察が介入。
8月12日夜、から13日。
騒動は暴動に展化、軍隊が出て来た。


神戸
8月12日三菱造船所の労働者が、構内で暴れ始めた。会社支給の米価が1.5倍になったのが原因。
その夜、群衆と野次馬が鈴木商店へ殺到して放火・全焼させた。
神戸市内は無政府状態。放火・略奪が横行する。
8月13日も、夕方から騒動。刀をもった者もいて警察や軍隊と闘争して双方に死傷者多数。1人死亡。
8月15日ごろ平穏になった。


福岡県田川
8月17日から宇部炭鉱を皮切りに、北九州・熊本県の各炭鉱で暴動が続発した。
宇部では炭鉱王の代議士宅が放火され、階級闘争の過激化を思わせた。
軍隊が射撃し、死者15人を出した。
田川では、労働者がダイナマイトを投げつけ、軍隊が撃ち返し1人死んだ。
その頃の炭鉱夫は、
過酷な労働の見本のように見られていた。
彼らが米価の騰貴に憤るのも無理はなかった。


米騒動は、革命前夜のペトログラードに似てなくもないが、民衆をリードする政治勢力や意識なかった。
9月中旬の熊本県万田炭鉱の暴動で、米騒動は終結した。

参加人員数百万、軍隊10万以上、検挙者25.000人以上。
近代日本で最大規模のこの騒乱が、政治的結果をおよぼさないはずはなかった。

 
寺内内閣はシベリア出兵で東京6紙、地方紙50の新聞を発禁した”実績”がある。
水野錬太郎内相は8月14日夜、米騒動の一切の記事の掲載を禁止すると通告した。
「新聞記事は治安維持の妨害あるものと認めた次第である」。
元老山県は、
とても寺内にやらせておくわけには行かない。
9月27日、初めて衆議院議員が首相になる。
政党首領の首相が任命された。


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米騒動①”富山の女一揆”

2020年06月28日 | 大正
「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行

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「東京朝日新聞」の米騒動の初報は、1918年(大正7)8月5日である。
「200名の女房連が米価高騰で大運動を起こす」という見出しで、
富山県中新川軍西水橋町で起こった8月3日夜の騒動の模様を報道した。
この報道を皮切りに、西水橋・東水橋・滑川町の騒動が連日とりあげられた。
富山の米騒動を全国紙が詳しく報道したことが、米騒動の全国的拡大に大きな役割を果たした。

8月9日には、
名古屋・京都・大阪・兵庫・高松・愛媛でも騒動が発生、
その後西日本を中心に軍隊を出動させて鎮圧にあたらざるをえないほどの激しい騒動となった。

炭鉱や鉱山、工場でも賃金値上げと共に米価引き下げが要求され、ストライキが発生して、一部は暴動化した。
舞鶴では海軍工廠の職工2.000余名が町民と共に精米所などを襲撃している。
被差別民や朝鮮人労働者も騒動に参加した。
当局の推定で全国70万人以上が参加、検挙者8.185人、そのうち起訴7.708人。
下層民衆がほとんどであったが、特に被差別民が狙い撃ちにされた。

米騒動の発祥地となった富山県では、明治初期より「バンドリ騒動」に象徴される米騒動が多発していた。

米騒動の基本は、集団の圧力による廉売強制にあった。
価格は、一升25銭というのがもっとも多い要求であった。
これは、ほぼ前年の価格であった。
これが米騒動前には一升50銭まで急騰したのである。

米などの略奪の例はきわめて少ない。
25銭払って一粒残らず買い取っていくのが普通である。
人びとは
「適正価格」をもっており、高い値段は「不正」であると意識していた。
米商などの「徳義(モラル)」を要求したのである。
集団の圧力で権力の代執行であり、正当な行動であるとした。

1918年9月21日、寺内正毅内閣は、米騒動の責任をとって総辞職した。
(デモクラシー運動にもより)
1925年、25歳以上の男子普通選挙法が成立した。
それが民衆の制裁暴力の発動を抑制する装置として機能していったことは間違いない。

男子たちには「一票」が与えられ、暴力ではなく選挙権で意思表示するのが国民の義務とされた。

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おじいさんは、山へ柴刈りに②(燃料集め・野々浜むかし語り)

2020年06月27日 | 暮らし
茂平は果物どころで、クドにくべる木は果物の木で、剪定や老木を割り木にしていた。
木を割るのは祖父の仕事だった。
父が山から丸太をもって帰るのは、シイタケの栽培用くらいだった。


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「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行より転記

燃料集め

日々の炊事の燃料は、木の葉や薪を使い、それをどの家も自給自足していた。
持ち山がある家は、わが山の木で割り木をたくさんこしらえた。
しかし、持ち山が無いものが大方だから、毎日山へ入って木の葉、
それも主に松葉を集めた、昔の女の重要な仕事で、山に入らぬ日は無かった。

風が吹いたと言えば、次の朝には夜も明けぬうちから起き出していったもんだ。
だから、その頃はどの山もきれいだった。

はるばる沖山から茂平にかけて在った大きな山まで取りに行く。
野々浜の他に津之下の者もこの山に来ていた。
この山は元は茂平の人の共有の山で、いつの頃か引野の人がまとめて買った。
それで引野の人は来ず、この辺のみんなが木の葉を集めにおしかけた。
この山は松浦組が砕石のため崩して、今は大方無くなってしまっている。

荒神山は毎年伐採しては氏子で分け、それを燃料にしていた。
伐採する範囲を決めると氏子が総出で山に入って木を切る。
各自が家に持って帰り保管しておき、少しづつくべ木に使う。
そして翌年は次の範囲を切る、ということを繰り返していた。

燃料は自分で自給自足せねば日々の飯も炊けなかった。

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おじいさんは、山へ柴刈りに(燃料集め・金光町史)

2020年06月27日 | 暮らし
むかしむかし、おじいさんは山へ・・・、おばあさんは川へ・・・(桃太郎)

茂平では川の洗濯を見たのは、おしめ。
山への柴刈りは、ほぼ全ての家庭で昭和30年代の中頃まで続いた。日常風景だった。

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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行 

山仕事
山仕事は、麦播きの終わった12月から、麦の手入れが始まる3月ごろまでの冬の仕事である。
この間に1年分の焚き物を確保し、一部は売りに出した。

自由採取
林野に所有権はあるが、次の物は慣習として、自由に採取しても叱られることはなかった。
落ちている松かさ、枯れ枝を集めたり、
シャシャキ、
ワラビ、ゼンマイ、木の実。

コノハナデ
松の落ち葉を木の葉(このは)とかマツゴという、自由採取のところもある。
共有林では、風が吹いたら女の人は誘い合って掻きに行った。
炊きつけに便利で売るに行く人もあった。
熊手で搔き集め籠に入れて運んだ。

下刈り
林の手入れとして、林床に生えた雑草木を刈りとって掃除する作業。
町内では、肥料や飼料には使っていない、自家用燃料にした。

カケギと割り木
間伐で伐った木を、割木に割るか、カケギとして売った。
割木は丸太を1尺2寸に玉切りし、割木とした。自家用の余りは売り出した。
クドで使う、
家の軒下、壁際、縁の下などに積んで保存していた。

松葉
松の葉の付いた小枝を適当な長さに切って束ね、担ぎ出した。
自家用の、焚き付け用。

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天皇制の内なる危機(一夫一婦制)

2020年06月26日 | 大正
令和天皇に子がいるが、女子で天皇を継承できない。

明治天皇も大正天皇も側室の子だった。
令和天皇には側室は不可能であるから、実子(愛子内親王)が継ぐのが普通だと思うし、
それがグローバルスタンダートとも思う。

21世紀の世に、子がいて継承できない制度が存在するのは日本の皇室典範くらいであろう。

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「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行


皇太子裕仁(のちの昭和天皇)は、1921年のヨーロッパ外遊でイギリスやオランダなどの皇室のありように、大きな影響を受けて帰ってきた。
皇太子は女官制度の改革に取り組む。
生まれた子供は里子に出さず自分の手もとで育てたい、一夫一婦制への強い意思があった。

天皇家が一夫一婦制を採用することになると、当然後継ぎの問題が出てくる。
①男子が生まれる
②女子しか生まれない
③どちらも生まれない
という三つの可能性しか存在しない。
男子が生まれるかどうかは偶然でしかない。
そのために皇室典範には、「庶子」の皇位継承について定められていた。
つまり、天皇が側室を置けるようにしていたのである。


実質的には大正天皇も一夫一婦制を実行していたが、皇后との間に男児が4人生まれ危機は浮上しなかった。

ところが、
皇太子は第四子まで女児だったのである。
皇室の近代化が皇位継承の危機を招いたのである。
不安はピークに達し、周囲はざわめきはじめた。
1933年昭仁親王(平成天皇)が生まれ危機は脱した。


こうして②③のケースにどのように対応するかという問題は先送りされ、現在に至っている。


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明治45年7月29日から大正元年7月30日へ

2020年06月26日 | 大正
「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

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明治天皇は明治45年(1912)7月29日、午後10時43分、永眠した。59歳。
死去は2時間ずらして、30日午前0時43分と発表された。
30日、嘉仁親王は第123代の皇位に就いた。31歳。

明宮(はるのみや)嘉仁親王、のちの大正天皇は明治天皇の第三皇子で、明治12年生まれ。
生母は柳原愛子。
正妻の美子皇后(昭憲皇太后)は子宝に恵まれなかった。
明治天皇は五人の側室により15人の皇子、皇女をもうけた。
しかし成人に達した皇子は嘉仁親王ただ一人で、10歳で皇太子となった。
男子5人のうち4人が夭折し、女子は10人のうち4人しか成人しなかった。

9月13日明治天皇の葬儀がおこなわれた。
この日乃木希典が夫人とともに殉死した。


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黒塗り教科書②川口小百年

2020年06月26日 | 昭和20年(戦後)
「川口小学校百年史」川口小学校 正文社 昭和63年発行 より転記



G・H・Q指令

全国で昭和22年12月末に4.340人の教職員が不適格者として追放された。
神道に関しては、神社参拝、祭式、鳥居の教材などすべてが禁止された。
教科書は、
終身・歴史・地理の授業即停止、教科書の廃棄。
更に、国語・算数などの教科書の不適当な箇所を示して、教育現場の各学校に、削除あるいは修正を命じた。
そこで児童は、その示されたヶ所を墨で塗って使用した。
これが所謂「黒塗り教科書」である。

削除修正例
削除 海軍のにいさん・菊の花・神だな・にいさんの入営・金しくんしょう・支那の子ども
修正 センチノニイサン→ニイサン オクニノタメニシッカリ→シッカリ


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戦後の大津野・・・「ふる里のあゆみ」②

2020年06月26日 | 昭和21年~25年
「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行


昭和20年8月15日
終戦
隊内にありし御真影、軍人勅語其の他貴重な書類全部を焼棄せり。
昭和20年11月1日
米軍先遣隊10名飛行場に来る。翌2日、1.200名来り駐屯す。

かつての大津野は、田が1300ヘクタール、畑が1900ヘクタールで農家平均耕作面積は50アールという零細農家であった。
作付品目は全く多彩であった。
除虫菊、
はっか、
麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、
戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。
葉たばこの栽培も盛んで枢要な収入源。盛夏に、中一致団結して全家族があたった。
甘藷、馬鈴薯の生産も盛んで特に、甘藷は戦後の食糧難時代貢献したものである。
特産物としては大津野大根の沢庵漬があり、福山、尾道、呉、広島へも出荷していた。
果樹の先進地茂平に隣接していることもありて、ぶどう、桃、戦後は夏柑、温州等蜜柑も導入された。


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