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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大正15年12月

2020年06月25日 | 大正
おじ(父の弟)は、本当は昭和元年生まれだったそうだ。本人談。
しかし城見村のような田舎でも、天皇崩御のため、出生届ははばかられた様子だ。
(同級生に昭和元年生まれはいなく、昭和2年元旦生まれが多い)


「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大正10年(1921)裕仁皇太子が摂政になってから、大正天皇は事実上の廃帝で、公式の行事にはいっさいでなかった。
皇太子の”人気”が高まり国民との一体感が醸成されていった。
大正13年頃はもう、おそらく「あー」「うー」と声を出される程度だった。
大正14年5月の時は、もう歩行もできず。
大正15年、
12月16日から宮内省は逐次発表にふみきる。
永井荷風は天皇の容体をつげる号外に暗然とする。
毎日の飲食物や排泄物のいかんまで、なぜ詳報の必要があるのか。
葉山には元勲重臣たちが続々つめかけた。
大正天皇の生母、柳原愛子(なるこ)は容体の急変に驚き皇后の看護を手伝い、深夜まで働きつづけた。

12月18日「刻々御危険」
12月22日「再び御呼吸増加」
12月24日、発表は一時間おきとなる。
12月25日となって一時間二十五分、息をひきとった。
明治帝の死去は2時間遅らせて発表したが、今度は細工はしなかった。

12月25日、午前3時15分、御用邸で「剣爾渡御」の儀がおこなわれた。
12月25日、早朝、昭和・・元化の採用。午前9時15分、「昭和」を正式決定した。
東京日日新聞は、いちはやく「光文」を報じたが、どうもそのせいでこの案を捨て、誤報になった。
昭和元年は七日間だけで二年になる。

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大正の暮らし

2020年06月24日 | 大正
管理人の家では昭和30年代前半まで醤油を作っていた。
その部分は金光町よりも、相当遅れた農家だった。


・・・・・・・

「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行


醤油
昔は家で作ったと言われるが、明治生まれの人でも作った経験はなく、醤油屋から購入した。
一升徳利をぶら下げて買いにいっていた。


塩は漬物などになくてはならないものであった。
食卓には自家栽培の胡麻を混ぜて胡麻塩を作っておき、ご飯などに振りかけて食べていた。

砂糖
高価なもので、甘いものはご馳走であった。
普段はめったに使うことは無かったが、祭りのサツマイモの天ぷらなどを作る際には購入して使用した。

子供の間食
店で売っているお菓子と言えば、煎餅(せんべい)やこんぺい糖、飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。
子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。
一般的なおやつには、
大豆やソラ豆をほうろくで煎ったもの
氷餅を焼いたり、あられを煎ったもの
豆餅
家の庭先や近くの野山にある、
桑の実、グミ、ユスラ、イタドリ。

大人たちの間食
沢庵を摘まみながら番茶を飲み、一息ついていた。
そら豆ができれば塩ゆでにして田んぼへ持って行き、おやつにした。

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井笠鉄道小平井駅

2020年06月22日 | 令和元年~
井笠鉄道が廃止になったのは、昭和46年3月31日。
あれから、半世紀が経った。



(小平井駅・2016年ごろ)



昨日散歩をしていたら、小平井駅が解体工事中で、ほぼ完了していた。



(2020年6月21日・井笠鉄道小平井駅跡)




井笠鉄道くらい楽しい乗り物はなかった。

笠岡市や井原市や矢掛町や福山市神辺町の人たちにとって、
見て可愛く、乗ってガタゴト、なつかしい記憶は永遠。


大映映画「花の講道館ロケでは、長谷川一夫と山本富士子もこの駅にたった。
今では、大映もなく、長谷川一夫もはるか以前に亡くなった。



(2019年4月26日・井笠鉄道小平井駅駅舎)


考えてみれば、動く井笠鉄道を見た人は若くて50代半ば。
思い出を持つ人も減り、残った駅舎も消えていくのは定めか。さみしいものだ。


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満蒙開拓団①阜新芳井開拓団

2020年06月21日 | 昭和11年~15年
「満洲開拓回顧誌」小谷鉄雄編集 ぎょうせい 平成3年発行 より転記。



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満洲開拓は、五族協和の旗のもと大東亜共栄圏の建設を実現するための、不可欠の大事業といわれた。
昭和7年を第一次とし、
昭和20年の第十四次をもって終末を告げた。

皇国農村に指定された芳井町では、耕地面積も狭隘(きょうあい)であり、次男・三男対策の意義もあって、
町役場・農会などの合議によって、
満洲開拓は急に実現の方向に向かって団員募集が行われた。
開拓者共通の悩みは、
健康の管理、子弟の教育、開拓地の開発、現地に即した営農。
私どもの入植地はすべて既耕地であった。
平穏な暮らしであったが、今にして思うと農地の侵略によって入植した。

阜新芳井開拓団の先遣隊が阜新に到着したのは、」昭和19年2月8日夕であった。
終戦までの一年有半、その短い期間の開拓事業であった。
第十三次芳井開拓団は、岡山県後月郡芳井町の分村開拓団で、
炭都阜新に対する新鮮野菜、その他食料品の供給を主目的とした開拓団であった。

各戸5町歩、各組20町歩の共同経営をする。
農具は現地産で馬耕によった。
主食は満拓公社から送られてきた。
焼酎・砂糖・衣類・煙草等、内地ではないものが豊富で、うれしいやらありがたいやらの連続であった。



終戦後の日本人には個人の生活はなく、各々団体ごとに収容所にまとめられた。
戦争が終わって敗者として取り扱われる。
数日後のこと、数百人の現地人が襲撃した。大きな襲撃は一度で終わった。
栄養不良等でつぎつぎに死者が出た。

許された携行品は、
身の回りの衣類、お金は一人千円まで、若干の食料品で、
印刷物、書類は原則持ち帰りができなかった。

昭和21年6月2日、200%の満員列車で笠岡駅に着いた。
芳井小学校で藤井円太郎町長はじめ、町役場各種団体、家族親類の方たち、
国防婦人会では白米のおにぎり、お茶漬け・梅干と用意していただいた。久方ぶりのご馳走であった。

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シベリア大使・加藤拓川②松山市長時代

2020年06月20日 | 大正
「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 より転記。


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1922年5月26日、拓川は松山市長に就任した。
「大物」「田舎」市長である。
彼はすでに食道閉塞を病み、ろくに食事もとれないでいた。
郷土の知人の強い要請に受諾せざるを得なかった。

拓川の市長在任期間はわずか9ヶ月、しかも長期入院や中国旅行を挟んでいる。
彼が在任中に手掛けて実現させた懸案は、
松山城跡の払い下げがある、
(陸軍省から久松家が三万円で払い下げを受け、市に寄付)
が、その中心は私立松山高等商業学校の創設である。


・・・・・

拓川の市長就任当時、高商設立準備活動は暗礁に乗り上げていた。
拓川は大阪へ赴いて親友の、松山出身の実業家・新田長次郎(温山1857~1936)を訪問し、
援助を申し入れた。
新田は私財50万円を投じて県の補助金を肩代わりし、文部省が指示する積立金を出すほか、
先々の学校経営費の不足も引き受けると約束し、設立を激励した。
このようにして1923年5月、松山高等商業学校が創立したのである。



(大正13年)松山商科大学五十年史


設立後、
新田は学校経営にいっさい口出しをしなかった。
同時に、卒業生を自社で採用しないことを条件とした。


第二次世界大戦後の学生改革で、松山商科大学として発足する際にも新田家が資金協力した。



・・・・・・・


1922年11月12日、病院の制止を振り切って拓川は退院した。
11月22日に、摂政(皇太子)裕仁が松山に来るからである。
22日、三津浜港からパレード。
24日、謁見。好古が最初で、拓川が次いで、以下控訴院長、検事長、陸軍中将・久松伯爵、県知事、旅団長とつづいた。
これは位階勲等が高かったからである。
1923年3月26日、辞表提出して、不帰の客となった。

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シベリア大使・加藤拓川①悲劇の大使

2020年06月20日 | 大正

「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 より転記



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第一次世界大戦が終結した1918(大正7)年11月、
パリ講和の首席特命全権委員の西園寺公望と原敬首相に要請されて、加藤拓川は代表団に加わった。
日本の最大の目的は山東省の旧ドイツ権益の継承であった。
連合国の一員である中国は返還を要求し、会議は紛糾した。
日本の継承は認められたが、中国は調印を拒否した。
帰国前、拓川は西園寺から「シベリア派遣大使」を相談された。

1918年8月、12ヶ国連合軍による武力干渉が始まった。
日本は以前から、東シベリア三州(沿海・アムール・ザバイカル州)に反革命のコサックの陸軍大尉セミョーノフらを支援して
傀儡的な親日政権を画策していた。
セミョーノフ軍には日本人「義勇軍」が多くいた。

1918年8月12日、ウラジオストクへ上陸、ついで沿海州、ザバイカル方面へ発信した。
日本軍の「快進撃」は大戦景気と投機による米価高騰を招き、米騒動が拡がり、寺内内閣は9月退陣した。

原敬内閣に代わった。
外相は元駐露大使の内田康哉で、彼は革命の必然性を知っていた。
陸相には田中義一が就任した。
1918年10月末、
干渉戦争に動員した兵力は70.000人を超え、米国から抗議を受けた。

1918年11月18日、西シベリアの中心都市オムスクに旧ロシア帝国海軍中将コルチャックを最高執政官とする
「オムスク政府」(シベリア政府)が成立した。
これにより幾つかの反革命勢力が統合された。
原内閣は12月8日、
米英仏三国と協調を図る立場から、コルチャック政権に同調する。
米国の勧告により34.000人削減(第二次削減)を閣議決定した。

1919年3~4月、日米英仏軍の支援を受けたコルチャック軍はウラル戦線でボルシェビキ軍を破り、
首都モスクワへ進撃する勢いを示していた。
農民パルチザン軍の攻撃にさらされていたコクチャック軍は、4月下旬すでに敗北し始めていた。
5月には大敗。
そのためセミョーノフと和解させた。
軍規の乱れ、盗賊まがいの軍隊で農民の反感や抵抗を受けていた。
6月後退をつづけた。

1919年6月31日、原敬の日記には
拓川がシベリア派遣特命全権大使への就任要請、即日受諾が書かれている。
いわゆる「シベリア出兵」真っただ中で彼の地の外交責任者に「内定」したのである。
8月12日、拓川はシベリア派遣大使に就任。

9月2日、拓川管下の在哈爾浜総領事の外相あて電報には、
「ウラル戦線のコルチャック軍は言語道断にして、更に戦意なしというも可なり」

拓川は、1919年9月12日敦賀を出港。23日、沿海州都のウラジオストクに入港。
10月2日ウラジオから列車で哈爾浜・満州里を経由してチタに寄り、9日にイルクーツクに着いた。
オムスクに到着したのは13日である。
10月17日にコルチャックと会見し、親任状を提出した。
しかし、オムスクは革命軍の攻撃で陥落寸前であった。




10月31日、天長節の祝宴を主催し、「首相」や「蔵相」や英国の代表者らと来会した。

11月6日、英仏の代表者らと撤退について相談。
11月10日朝、大使一行はイルクーツクに向けて出発した。

11月15日、オムスクはボルシェビキ軍の包囲され、占領された。
コルチャック軍は橋を破壊して退却した。
拓川到着してわずか1ヶ月後のことである。

11月末、イルクーツクはコルチャック軍と反乱軍の戦場になった。
拓川と大井司令官は第5師団のイルクーツクへの派兵を命じた。

12月、拓川は連合国外交代表団会議を連続しつつ、居留民の引揚に尽力したが鉄道スト等で進捗しなかった。

1920年1月9日、コルチャック政権が崩壊した。
1920年1月10日、イルクーツクを出発。
チタ~満州里~哈爾浜~奉天~京城~仁川で乗船。下関入港。
31日に帰京。ただちに首相及び外相と会談している。
2月3日、閣議に出席し「彼の地の状況並びに引揚の顛末」を報告した。
2月中に、天皇皇后に拝謁し、山県に報告し、西園寺邸で労われた。

原内閣は、3月
朝鮮・満洲に対するボルシュビキの脅威からの防衛のため、シベリア駐屯の基本方針を決定した。

1920年2月
尼港を占領中の日本軍が4.000人のパルチザン軍に包囲され降伏した。
3月、協定を破って奇襲攻撃を仕掛けた。副領事を始め兵士・居留民7.000人余が全滅した。
5月、日本の救援部隊を前に日本人捕虜・反革命派ロシア人全員の殺害に及んだ。
日本は報復措置として7月に北サハリンを占領した。

1920年4月、米国撤兵完了。
1920年夏、英仏伊も撤兵完了。
米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

尼港事件は各国の対ソ経済封鎖解除が進行し、通商交渉が開始されていた時期に起こった。
日本に対しても、20年2月に対日講和を駐仏大使に打診されていた。
ところが、
軍司令官大井は、ウラジオ臨時政府(親ソ政権)に対して6ヶ条の要求を突きつけ、拒絶されると、ウラジオを占領し、
沿海州の革命軍7.000人の武装解除を行った。

1920年9月、拓川は大使の任を解かれた。

1922年10月25日、日本軍のシベリアからの撤兵完了。
1925年、北サハリン撤兵。

日本は各国間で孤立化を深めた。
侵略開始から7年間に及び、敗北に終わった。

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珍しい像(この人は誰だろう)

2020年06月19日 | 令和元年~
この人物は誰だろう?




場所は岡山県井原市芳井町の体育館前。
もとは、青年学校や実業学校があった学校敷地内。





羽織、袴で、ちょんまげあり。しかし、刀は差していない。



像の台座に人物名なく、説明版もない。


芳井町ゆかりの偉人(かつ有名人)に違いない。

像の隣でゲートボール中の方に聞くと、あら不思議、「わからん」。知る人なし。
図書館の郷土の偉人的な本をめくっても、似た人や、らしき人がいない。
井原市役所にメールで人物依頼をすると・・・・・いろいろ(史家・教育者・長老等)の人に問い合わせた結果、
おそらく「二宮尊徳」であろう、という返信を10日後にいただいた。


管理人も、尊徳が浮かんだが、”袴姿”が尊徳のイメージ(脚絆姿)と違うので自分では没だった。
市役所の方も、10日間調べて確信の返答でなく、可能性が高い、という回答だった。



町の中央の場所に建ち、それが町の人さえ知らない人、というのも珍しい像だ。
(たぶん陶像)


まあ、人物像には名板か刻文か説明板がが必要ということか。
それに、尊徳像では検索してもでてこない。もし尊徳であるならば、この姿での尊徳像は日本唯一ということになる。
不思議な像だ。




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子供の遊び

2020年06月17日 | 城見小・他校
みたどん
かくれんぼ。
見つけたら「みたどん」という。見つかった人が鬼に変わる。
木の上に登って隠れると、鬼から逃れることがよくあった。
ただし、
夕暮れに始めた遊びは、暗くなっても木から下りれなかった。

缶蹴り
これも、かくれんぼの一つ。
鬼がいない隙に、おもいっきり大きな音が出るように缶をけっていた。


カンカン(空の缶詰)に穴をあけ、ひもを通して、両足にカンカンを履いてあるく。それだけ。

たこあげ
奴だこをあげていたが、ひきずるので尻尾はちぎれるし、飛ばせばトウガキの枝にかかって破れ、
たいてい2度ほどでおじゃんになっていた。
それでも正月が近くなると毎年あげていた。

こま
小学の2年生くらいまで。
男子は必ず体験する遊びだった。

ゆきだるま
雪だるまが可能なほど、雪が降ったことがない。

へび
つかまえたら、しっぽを持って振り回して遊ぶ子がいた。

蝉の幼虫取り
夏休みの夕暮れの楽しみだった。
家に持ち帰り、
えんだの柱を上って、途中止まって、蝉に脱皮していた。
それは晩飯後の楽しみだった。

たきび
子供の焚火は危険なので、大人がしていたら、近寄って温もっていた。

すもう
学校でも野原でも田んぼでも、相撲は大人気だった。
おかげで、いつもバンドを通すところが破けていた。

釣り
海で釣るのは2~3度あるだけ。
ため池でフナを釣っていた。

杉でっぽう
細い青竹で作る。
杉の実を集めに山へ行く。
飛ばすときパンと音がして2~3m飛んでいたような気がする。

くぎ打ち(くぎさし)
地面に図を描き、その内部に
釘を地面に力いっぱい打ち付ける。

ヨーヨー・けんだま・びーだま
お金が要るものはしなかった。

すごろく
漫画雑誌の付録にあった。それで遊ぶ。

うつし絵
店で買うもので、一番安い玩具。
紙を手に貼って、模様が腕に映っていた。

木登り
お宮の参道前の木に登って遊んでいた。
その他、各人の家の前後の木に登っていた。

ターザンごっこ
茂平の宮ノ端のふきんや、浜の荒神さん。
荒神さんには、いいカズラがあって”アアアーーーー”
とブランコのように飛んでいた。

水晶取り
高丸で水晶が出ていた。
畑から見つけたらもって帰っていた。

幽霊屋敷
近所に大きなお屋敷があり、塀も立派で、中庭に大きな椿があった。
土蔵や母屋は空き家で、
持ち主は、満洲で財を成したが、帰国できなかった(外地で殺された)という話だった。
その家に入って遊んでいた。
大きな家なので、何度入っても違うスリルが楽しめた。
(・・・・それから20~30年経って更地になった)


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最後の日ソ戦・・・その7・喜劇的な悲劇

2020年06月17日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

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日本が最後の瞬間までソ連の好意を当てにし、対米英和平仲介に望みをかけたのは、喜劇的な悲劇というべきであろうか。
スターリンが連合国首脳に対日参戦を公式に表明したのは、1943年11月テヘラン会談である。

8月10日早朝、ポツダム宣言受諾通告を発電し、事態が急速に戦争終結に向かうと見るや、ソ連は8月11日樺太国境を越えた

千島方面はソ連軍がまったく作戦しておらず、米軍が盛んに作戦してきたところである。
スターリンの要求によって、降伏受け入れの担任地域に入った。

しかしポツダムにおける軍事会談で協議された米ソ作戦境界は、千島方面があいまいで、中千島を境界するという合意も存在した。

8月14日深夜、日本政府がポツダム宣言受諾の通告を発電し、終戦が確定した後、
8月15日、ソ連は一方的に急ぎ千島上陸命令を出した。
米軍がいたら引き返す、米軍の在否を確認しながら歯舞まで進出する。

日本の正式降伏調印が、日本側の都合と台風による準備遅延によってマッカーサーの予定より5日間延期された。
これがソ連軍を助けた。

ソ連は、極めて短期間の軍事作戦によって、極東における絶大な利益を得た。



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最後の日ソ戦・・・その6・~千島南部~

2020年06月16日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

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8月18日、ワシレフスキー総司令官は、
「8月19日から9月1日までに釧路市から留萌市に至る線より北の北海道半分、千島列島南部を占領すること」を命令した。

ソ連軍は、これらの島々の敵がどれだけの兵力や陣地を持ち、好適な楊陸地がどこか知らず、正確な地図も持っていなかった。
8月22日、
スターリンはトルーマンが拒否した北海道占領を諦め、トルーマンに返書を送った。

ソ連軍は択捉・国後に上陸しなかった。
「択捉・国後はアメリカ軍がやってくるはずだ」
ソ連軍の前線の認識では、南千島はソ連軍の占領すべき範囲でなく、極めて慎重だったことがわかる。

8月28日、択捉島に上陸。
9月1日、国後島に上陸。
9月4日、歯舞諸島に到着。
9月4日、札幌と千島・樺太の交信は途絶えた。日本側に状況がわからなくなる。

ソ連は、千島南部で20.000人。千島全部で50.000人を樺太経由でシベリアに移送した。


一般住民はヤルタ協定など知らず、占領は一時的と思っていた。しかし将来への不安から北海道へ脱出した。


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