6月15日(木)
高卒後、浪人生活は、夏までは自宅で、予備校の夏期講習からは東京へ出てきた。一浪の後、合格し、学生生活。年一二度は帰省することはあったと思うが、農業からは全く離れていた。いろいろとあった20年ほどの生活を経て、1980年ころになり、東京生活からの脱出を計画することになり、ようやく、再び、農業を身近にすることになった。
1981年9月、10年近く務めた建築設備会社を退社した。連れ合いの母の兄は、静岡県でかなり大きなミカン農家をやっていた。農業を全くやっていない30代の人間が、果たして農業をやれる身体なのか、やってみなければわからないと、温州ミカンの収穫期に当たる秋に、住み込みで働かせてもらうことにした。10月から年内いっぱい、実質二か月くらいの農業体験生活を始めた。
仕事は、ミカン畑の草刈り、ミカンの収穫、選別整理、貯蔵、施肥、農薬散布などだ。ミカン畑は、里山を切り開いたようなところで、段々畑が続くところ。農道から先の運搬は、モノレールがあるところ、架線を張りロープ―ウェー式に荷を下ろすところ以外は、すべて背負いかごに背負っての運搬だった。草刈りは手鎌、施肥はバケツに肥料を入れて、手での散布。収穫ははさみ。農薬の散布だけは、エンジン式の動力噴霧器を使い、100メートルものホースを引っ張っての作業。
慣れない体にはきつかった。鎌で草を刈ること、収穫したミカンを背負いかごに入れ、30Kgにもなる荷を背負い、段々の急坂を車まで下ること、何往復か。ギブアップなどするかと、意地だけでやり通したようなものだ。が、それを予定通りやり通したことが、その後の移住生活への大きな自信となった。
ここでの農作業も、果樹園ゆへなのか、ほとんどが、人力による作業が主だった。叔父は農協の役員をしていたから、ほぼ毎日、周辺の農家の人たちが、数人、雇われてきていて、私は、その人たちに教わりながら、農作業をしていた。