6月25日(日)
現在の稲作は、完全に機械化され、機械化は、同時に、大規模経営へと進んだ。人間個々の作業量は知れている。機械は、大型化すればするほど、時間当たりの作業量は増える。その単純な掛け算により、稲作は、大規模経営化が進み、今や、家族農業は一握りも見られ来ほどになっている。
私たちが移住したころ、個々の田んぼは、昔ながらの地形を残した、曲線が主な形状の田んぼがほとんどで、農道も限られ、歩くか小さな機械でなければ通れないような、畔を利用する農道や、ほかの田んぼを通る、田越しで行くような田んぼが、ほとんどだった。今、全国あちこちで、観光や、体験農業などの米つくりに歓迎される、棚田。棚田100選とか、日本農業の原点とか、美しい自然を保存する農業、等々、コメの生産を度外視して、語られる棚田。このような棚田ではなかったが、地形を利用し、水が低い方へと流れる自然を利用して、地域全体が、大きなダムといえる、田越の水を引き入れての稲作だった。堰の水は、主たる水路を流れ、上の田んぼに入り水路から遠い田んぼには、ほかの田んぼを経由して、引き入れていた。雨として供給される水も、段々と下に流れ、田を満たしていた。
移住した翌年から、農地の基盤整理事業が始まった。だから、この地域の原風景は、おぼろげながら、記憶の隅に残っている。地区の風景は、がらりと変わった。基本、農道と排水路を隣接させ、配水はパイプ配水となり各水田に給水バルブを取り付ける。暗渠排水管も原則敷設された。田んぼの形は、基本的に長方形で、30アールを原則としたものだった。田の水入れは、バルブを開くだけ、水の管理は、隣の田んぼを気にすることなく、自由にやれるようになる。一方で、度の田んぼも、流れ出る水は、すべて排水路に落ちることになる。必要な水は直接入れて、不要な水は、排水路へ捨てる。水田の管理は楽になるが、雨を利用する、自然による稲作から、人工的なものになっていった。