6月9日(金)
脱穀は、晴天の日にやることになる。今でこそ、モミの中の玄米の水分を測定して、最適な状態にするが、当時としては、穂の乾き具合、を判断して、脱穀をする。その後、晴天の日に、蓆を広げ、モミを広げて、天日干しをして最適な状態にしていた。とにかく、米つくりは、手間暇のかかる仕事だった。
集落には、作業場があった。二階は集落の集まりに使う、集会場で、一階は共同の作業場。当時、すでに動力の大きなモーターが据えられていた。天井には、いくつものプーリーが取り付けられた鉄筋の回転軸があり、モーターの回転を平ベルトで、軸に伝動されていた。脱穀機、籾摺り機、精米機、製粉機などが据えられており、天井の軸から、それぞれにベルトで回転をつたえるようになっていた。
よく乾いた稲束を稲架から降ろし、作業場に運び、爪のついた胴が回転する脱穀機に、藁の根元をもって、穂先を入れて、藁と籾を分離する。モミは、脱穀機の下に落ちるから、それをかき寄せて、手箕で、袋に入れる。どんな袋か忘れたが、麻袋のようなものだったろう。藁で蓆を編み、それを二つ折りにして、両脇を縫った、カマスと言った大きな袋も使われていた。藁は藁で、貴重な資材として、扱われた。脱穀済みのモミには、藁クズなども混ざっているので、唐箕にかけて、風選で藁クズなどを飛ばして、重い籾を選別した。ここまでやって、ようやく、室内貯蔵ができる状態になる。一段落だ。