1998年ワールドカップ得点王のクロアチア代表ダボル・シュケル。
彼はロットを履いて得点王に輝き、クロアチア代表もスポンサーはロットでした。
そして4年後の2002年、優勝したブラジル代表主将のカフー。
カフー自身が認めているように、横浜Fマリノスへの移籍は既成事実でしたが、ASローマにACミランが獲得を打診し、移籍先が覆ったことは、やはり今でも残念に思います。
そのカフーも横浜で高々とワールドカップ・トロフィーを掲げるその足元には、ロットのスパイクが確認できたものです。
この当時ナイキはまだアディダスやディアドラ、プーマと比較した際際立ったデザインと機能は見せていましたが、新興ブランドという認識が強かった、旧大陸と新大陸くらいの差があったと思いますよ。
ロットを履くダボル・シュケルが好調を維持することに焦ったのか、ナイキ首脳陣は当時最大の顧客であるブラジル代表ロナウドに対し
「得点王になってほしい」
「シュケルと同時受賞でもよいんだ」
迫ったといいます。(本当かどうか真相は定かではありませんが、恐らく事実なのでしょう)
このナイキの思惑、1994年に続く2連覇を目指す重圧が、あのフランス代表との決勝戦直前、ロナウドが失神して下手をすれば死亡していた事実につながり、指揮官ザガロも困惑してしまいます。
当時はナイキとアディダス以外にも、影響力あるブランドが多く現在のような明確は2強体制ではなかったことも、事を複雑にした理由と言えそうです。