ロック探偵のMY GENERATION

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衆院選投開票 こんなときだから、あえて希望の党を擁護する

2017-10-22 22:25:44 | 時事
衆院選の投開票が行われています。

鳴り物入りでスタートした希望の党ですが、失速し、どうやら野党第一党になることも難しそうです。

その原因として、「排除」発言が響いて……ということが指摘されています。
たしかに、旧民進党との合流に際しての「排除」発言が尊大ととられたことが、風向きを変える大きな要因になったことは否めないでしょう。

このタイミングで希望の党を批判することは簡単です。

しかし、私は、今回あえて希望の党を擁護してみたいと思います。

はじめにことわっておきますが、私は希望の党の支持者ではありません。
むしろ考え方は正反対といっていいぐらい違います。
ですが、それでもあえて、今回の解散総選挙にいたる経緯からみえてくる日本政治の構造的問題について一言いっておきたいんです。
繰り返しますが、私は希望の党の支持者ではないので、ここでいっていることは決して「自分の支持する党が勝てなかったことからくる負け惜しみ」などではないということを申し添えておきます。


まず、「排除」発言問題。

「排除」という言い方が非常に感じ悪いのですが、他党との合流において議員一人ひとりについて選別すること自体は問題のあることではないでしょう。

以前、民進党崩壊についての記事で書きましたが、党勢拡大のためといって考え方の違う人たちを大勢受け入れると、将来の分裂の種になります。
小池百合子さんも、当然そのことを考えていたはずです。
将来の国政進出、さらに政権をとることを考えるなら、民主党/民進党の轍を踏むことになってはいけない。それが、「排除」という行動に表れたのだと思います。その動機については、私は理解できるんです。その言い方が尊大、傲慢というふうにみえてしまったことが問題ですが……

そして、小池さん自身が出馬しなかったこと。

これも、私は責められるべきことではないと思います。
私はかねがね疑問に思っているのですが、政治についてあれこれいうのなら国政選挙に立候補しなければならないんでしょうか。
政治とのかかわり方は、もっと多様で人それぞれでいいんじゃないでしょうか。
「国政について云々するならみずから立候補しなければならない」というのは、結果として多様な政治参加の道を閉ざし、それこそ体裁のいい排除の論理になっているようにさえ思えます。

東京都知事という立場で国政政党の代表として国政にも関与する……これは別に、ありなことだと思います。
多様なあり方を認めていかないと、政治はいつまでも一部の人たちの専有物であり続けることになるんじゃないでしょうか。


希望の党の失速については、私はむしろ、与党側が解散権を恣意的に行使できるということの問題だと思うんです。

思えば、前回2014年の衆院選にも、そういう構図がありました。

あのとき、「維新の党」という政党が誕生していました。
旧維新の会に「結いの党」が合流して「維新の党」となり、“第三極”を目指していました。
そして、そんなさなかに衆院が解散となったのです。
このときも、与党側には「新しい党が本格的に稼働して勢力を拡大する前に解散してしまおう」という意図があったと指摘されます。
そして、それが功を奏しました。
「維新の党」は、急な解散で選挙のための体制を整える余裕もなく、伸び悩みました。

今回の解散総選挙も、そういう側面があることは否定できないでしょう。
「新興勢力が態勢を整える前に解散してしまう」ことによって、新興勢力は準備が十分でない状態で選挙戦に突入することを強いられます。
今回の希望・民進合流劇のゴタゴタも、その不利な状況での開戦に追い込まれたことからくる焦りがその背景にあると思えます。

つまり、与党は解散という“伝家の宝刀”を抜くことによって、相手走者がコンディション調整も準備運動もできないうちにレースをスタートさせることができる。相手側は劣勢をなんとかしようとして焦り、結果として自滅してしまう……そういう構図です。

レースの走者の一人がスタートの笛を持っていて、いつでも自分の有利なときにそれを吹くことができるというのでは、はなからフェアな競争とはえいません。
これでは、解散権というものが「自分たちに抵抗しうるような勢力が現れそうになったら芽のうちに摘んでおく」ための仕組みになってしまいます。


ここで、名曲を一曲。

ボブ・マーリィの I Shot the Sheriff です。エリック・クラプトンのカバーでも知られるとても有名な歌です。sheriff(保安官)という比喩で圧政を批判する歌と思われますが、そのなかにこんな一節があります。

俺が種をまくといつも
あいつはいうんだ「そいつが育つ前に摘み取ってしまえ」と

まさに、これです。
圧政者は、自分を脅かしそうな存在は小さいうちにつぶしてしまおうとしまう……そのことを、ボブ・マーリィはこんなふうに表現しているんだと思います。

そして、いまの日本において、解散権がこの保安官の都合のいい道具になってしまっているんじゃないか。そんな気がしてなりません。

これでは、しっかりとした政党はなかなかできません。それではまずいんです。

そもそも論として、首相に解散権があるという考え方自体、無理な三段論法だという指摘も根強くあります。

そろそろ真剣に、この「解散権」というものを制限することを考えたほうがいいんじゃないでしょうか。




《追記》
テレ朝の開票速報番組で、後藤謙次さんが「希望の党の失速は、保守で二大政党制を目指すことの限界だ」というようなこといってました。中道・リベラルを結集させなければ、保守への対抗軸は作れない……と。慧眼だと思います。記事中で言及した維新の党についても、同じことがいえるでしょう。

また、希望の党失速のもう一つの大きな要因は、民進党右派という毒杯を飲んだことにもあると私には思えます。有権者のなかには、いまでもまだ旧民主党政権に対する憎悪にも似た感情が渦巻いているようにみえますが、民進党と一部合流したことによってその憎悪の矛先が希望の党にも向いたのではないでしょうか。
合流劇のもう一人の立役者が前原さんですが、それにしても前原さんというのは巡りあわせの悪い人だなとちょっと同情します。よっぽど前世で悪いことでもしたんでしょうか……