ロック探偵のMY GENERATION

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エラリー・クイーン『ギリシャ棺の謎』

2018-12-01 12:47:06 | 小説
エラリー・クイーンの『ギリシャ棺の謎』という作品を読みました。



以前書いたとおり、いま私は、ミステリーの古典を読むキャンペーンをやってます。その一環として、エラリー・クイーンというわけです。今回は、この『ギリシャ棺の謎』を読んで考えたことを書いてみたいと思います。

一応、基礎的な情報。

エラリー・クイーンは二人組のミステリー作家で、ミステリーの世界ではレジェンド的な存在。“エラリー・クイーン”は、その二人一組でのペンネームで、また、作品の主人公となる探偵役の名前でもあります。
いわゆる“国名シリーズ”と呼ばれる、その名が示すとおり国の名前が入った一連の作品群があり、『ギリシャ棺の謎』はその一つ。主人公であるエラリーの若き日を描く、今風にいえば「エピソード0」的な内容です。

物語の発端は、美術商ゲオルグ・ハルキスの死。
これは自然死であって事件ではありませんが、その遺言書が紛失するというちょっとした事件がそこに付随して起こります。その遺言書の行方をエラリーが推理するのですが、その結果として何者かに殺害された遺体が発見されてしまい、その謎をめぐって物語は展開していきます。若きエラリーは二度三度と犯人に出し抜かれながらも、最後にはどうにか真相にたどりつく……という筋立てです。

トリックというよりも、ロジックが軸となるミステリーです。

私も、いやしくもミステリー作家として、ロジックに関しては一つの持論があります。それは、“ロジックは成立しない”ということです。
そんな無茶な……と思われるかもしれませんが、厳密に考えればそうだと思うんです。
たとえば、殺人事件の現場に「山田」というネームの入ったハンカチが落ちていたとしましょう。これは、犯人が山田という名前の人物だという証拠になるでしょうか。ミステリーだったら、そうはならないでしょう。こんなにもこれ見よがしの手がかりを残していくはずはない。これはきっと、犯人を山田だと思わせるための偽装工作に違いない……という話になります。
しかしもしその理屈が成り立つなら、犯人が山田であった場合、「山田」というネームの入ったハンカチを落としていけば、山田は犯人ではないと思わせることができるということになってしまいます。これは、ハンカチでなくとも、たいていどんなロジックにもあてはめられます。「〇だから△」に違いないという論理があるのなら、△と思わせるために〇を偽装するという偽装の可能性を考えることができるためです。麻雀でいえば、スジという理屈があればそれを利用したスジひっかけという策がある、というのと同じことでしょう。裏かもしれないし、裏の裏で表かもしれない……となれば、表とも裏ともいえなくなる。「山田」というネーム入りのハンカチは、山田が犯人である根拠にも、山田が犯人ではないという根拠にもなる。だから、ロジックは成立しないというわけです。

もちろん、実際にはそこまで厳密に考える必要はありません。

おそらく、現実の事件では、「山田」のハンカチが落ちていれば、素直に山田が犯人であると警察は考えるでしょう。
ミステリーであっても、そのあたりはほどほどの説得力があればよいということになってると思います。「ロジックは成立しない」というのは、「抜き打ちのテストはできない」式の一種の極論であって、私もミステリーの謎解きにおいて展開されるロジックの一つ一つに難癖をつけたりはしません。

しかし……『ギリシャ棺の謎』で展開されるロジックは、個人的にちょっと納得のいかない部分があります。
それは、ある種の恣意性というか……「裏」の理論と「裏の裏」の理論を恣意的に使い分けているように見えるのです。ハンカチのたとえでいえば、あるときは「山田のハンカチが落ちているから犯人は山田だ」といい、別のあるときには「山田のハンカチが落ちているから犯人は山田ではない」といっているように感じられます。ロジックを突き詰めていったときに姿をあらわすあやふやさが、ぎりぎりのラインを踏み外してアウトになってるような気がするんです。ロジックがロジックとして成立するためには、せめて山田のハンカチで山田を犯人とするかしないかという「深読み」のレベルに統一性があってしかるべきではないか……

……と、巨匠に喧嘩を売るようなことを書きましたが、先にも書いたとおり、ミステリーにおけるロジックを否定するつもりはありません。それに、人間の意図が関与していない自然現象に関するロジックなどは、もとよりこの議論に含まれないわけで、そういう考え方もあるかというぐらいに考えていただければと思います。