ロック探偵のMY GENERATION

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三月事件

2019-12-08 21:23:43 | 日記

今日は12月8日……

ジョン・レノンの命日ですが、真珠湾攻撃によって太平洋戦争がはじまった日でもあります。

去年は、それについての記事を書きました。

それ以外でも、このブログでは、折に触れて太平洋戦争にいたる歴史について書いていますが……今回はその一環として、三月事件について書こうと思います。

以前、夢野久作『犬神博士』の記事でも名前が出てきた事件です。ほかにも何度かこのブログで言及していると思いますが、この事件は、後から振り返ってみれば、日本が軍事独裁国家化して無謀な戦争に突き進んでいくその第一歩といえるものでしょう。

三月事件は、桜会によるクーデター未遂事件です。

桜会というのは、陸軍中佐橋本欣五郎が創設した政治結社。
この頃の日本には、政党政治をやめて独裁国家にしたほうがいいという考え方をもった人が少なからずいて、桜会はそうした考え方を持つ人たちがつくった結社の一つでした。

この桜会が中心となってクーデターを起こそうという事件が起きたのは、昭和六年の三月。三月に起きたので、三月事件といっています。

その前年、首相の浜口雄幸が東京駅で狙撃され重傷を負っていました。
ひとまず一命をとりとめはしたものの、首相として国会に出続けるのは難しく、幣原喜重郎を首相代理として当面しのいでいるという状態でした。しかし、その幣原の失言によって国会が混乱。乱闘騒ぎにまで発展し、その状況を目の当たりにした国民の間では、政党政治に対する不信が深まっていました。

これを政党政治打倒の好機とみた桜会が、動き始めます。
右翼の大川周明なども加わり、クーデター計画はひそかに進行。その内容は、右翼団体のデモにあわせて軍が国会を包囲し、内閣を総辞職に追い込むというものでした。

結果としてこのクーデターは失敗に終わりますが、その後同種の事件が続発するきっかけとなったというのは、以前書いたとおりです。
そこでも指摘したように、この事件に対してきっちりとした処罰が下されなかったのが最大の問題でしょう。
処罰すれば、軍の上層部にまで累が及んでしまうために、うやむやにしてしまった。
公的な機関が組織ぐるみで不正を隠蔽するというこの恐ろしさ……これは、肝に銘じておくべきです。

そしてもう一つ知っておかなければならないのは、国家改造主義者たちのカルト宗教のような国家観。

近衛文麿は、自分が接触した右翼活動家を「独善」「幼稚」と評し、「彼らの行動は余りに無軌道激越であつて健全なる常識では容認できない」としています。近衛文麿はそういう勢力と接触していた人ですが、その近衛からみてもそうだったのです。

ところが、おそろしいことに、その人たちが実際に権力を握ってしまいます。
無謀な戦争に突き進んで焦土と化すという日本の悲劇は、この「独善」「幼稚」な人たちの行動によってはじまりました。
そのきっかけとなったのが三月事件であり、そういう意味で、この事件は大日本帝国崩壊の序曲ともいえるでしょう。

三月事件自体は失敗したクーデターにすぎませんが、先述したように、問題はそれに対してきっちりとした処断をしなかったことです。

蟻の穴から堤も崩れるといいますが、まさに最初の小さな穴が開いたときにそこをきっちりふさいでおかなかったことが致命的な不作為だったのです。
この歴史に教訓を学べば、「独善」「幼稚」「あまりに無軌道激越であつて健全なる常識では容認できない」ような人たちが権力を握りそうになったら、その最初の段階で全力で止めにかからなければならないということでしょう。



Paul McCartney, Here Today

2019-12-08 14:43:46 | 音楽批評

 

今日は12月8日。

 

ジョン・レノンの命日です。

 

この日付に合わせて、一昨年はジョン作の曲である Strawberry Fields Forever について書きました。

今年は、ジョンの友人でありライバルでもあったポール・マッカートニーがジョン・レノンを追悼するために作った歌 Here Todayについて書こうと思います。

音楽記事として、前回スティーヴィー・ワンダーとポール・マッカートニーの Ebony and Ivory を取り上げたところからのつながりでもあります。

 

ポール・マッカートニーとジョン・レノン……

 

音楽史において、これほど有名で、複雑な関係のコンビもほかにないでしょう。

 

ビートルズファンにはよく知られているとおり、ビートルズの曲でジョンとポールだけが関わっている作品は、すべて Lennon & McCartney とクレジットされています。この二人しか曲作りに加わっていない場合は、たとえどちらか一人の手によるものであっても、Lennon & McCartney の曲ということになっているわけです。

 

これは、いずれ主導権争いが起きることを見越していたためかもしれません。

 

実際に、後期ビートルズはその主導権争いを一つの原因としてメンバー間の関係が悪化するようになりました。初期のビートルズはジョンのバンドでしたが、次第にポールの存在感が増していき、後期ビートルズはポールのバンドとみる方が妥当です。

 

そもそも、ビートルズのメンバーの中で、もっとも音楽的な素養を持っていたのは、父親もミュージシャンであるポールでした。彼は、ギター、ベース、ドラム、ピアノを演奏できます。そんなポールだからこそ、ほかのパートがすべて埋まって、空いているベースというポジションに入り、そしてベーシストとして「前に出るベース」の境地を開拓した……というのが、私のロック史観です。

 

そんなポールのミュージシャンとしての資質は、誰よりもジョンが一番わかっていたでしょう。

そこにはある種、モーツァルトとサリエリのような関係があったのではないか。その才能への嫉妬が、反感につながっていたようにも思えます。

 

ギターとピアノぐらいはジョン・レノンも演奏できますが、さらにはボーカルという領域もあります。音域をとってみても、ポールはジョンに出せない高音域の声を出すことができるのです。はっきり確かめたわけではないんですが、ジョンはおそらくA4ぐらいまでが限界なのに対して、ポールはC5ぐらいまで出せ、裏声っぽい部分も含めればじつにF5まで出しています(「ヘイ・ジュード」歌部分の最後の絶叫)。A4とC5は楽譜の上ではほんのわずかな差にすぎませんが、バンドのボーカルなんかをやったことがある人なら誰でもわかるとおり、この短三度は、おそろしく大きく、そして超えがたい壁なのです。

さらに、曲作りの才能。

ビートルズの曲でポール作のものを聴いていると、はっきりと“ポール節”のようなものがあることに誰しも気づきます。たとえばジョンをして「完璧な曲」といわしめた Fool on the Hill の、複雑で精緻なコード進行。ジョン・レノンには、ああいう曲はどうやっても書けないんです。ジョンは、勢いで破格のコード進行を書くことはできても、曲を緻密に練り上げていくことはできないのです。

こうしたことがあって、ジョンはおそらくポールに対してコンプレックスを持っていたんだと思われます。

 

ジョンのポールに対する態度は、そのコンプレックスの裏返しのように見えます。

 

ポールとジョンは、ビートルズ後期には決定的に関係が悪化し、ビートルズ解散後も完全に関係を修復できたわけではなかったようです。解散後も、この二人の因縁にまつわるエピソードはいろいろあります。

 

たとえば、ベジタリアンになったポールを揶揄したカードを作ってアルバムに同封する。あるいは、How Do You Sleep? という曲では、ポールを皮肉って「お前のやったことは Yesterday だけ」と歌います。お前の作った曲で、いいのはせいぜい Yesterday ぐらいのもの、というのと、お前の栄光は過去のものだというのをかけているわけです。で、それに対してポールは Tomorrow という曲を作って応じるという……

 

二人は、そんな関係でした。

 

感情的な部分に加えて、ビートルズの関連で多くの訴訟沙汰を抱えていたこともあって、二人の仲は冷え込んでいました。

たまに顔をあわせても、喧嘩になってしまうことがたびたびあったそうです。

 

ただ、時間の経過によって修復された部分もあったようです。

彼らが設立した会社アップルのことが確執の背後にあり、アップルの話さえしなければ喧嘩にならないということに気づいてからは、それなりに仲良くやっていたともいいます。

 

しかし、二人に残された時間は多くはありませんでした。

 

1980年の12月8日。

銃弾が、ジョンの命を奪います。

ビートルズにまつわるさまざまな訴訟の終結、そして和解を見届けることなく、ジョン・レノンはこの世を去りました。

 

この事件は、ポールにも大きなショックを与えました。そのショックのために、数か月の間ポールは音楽活動を休止することになったといいます。

 

そしてその二年後――Ebony and Ivory を発表したのと同じ年、ポールは Tug of War というアルバムを発表。


 

ここに収録されている、ジョン・レノンへの追悼の意を込めてポールの作った曲が、Here Today です。

とても美しく、切ない曲です。その歌詞の拙訳を載せておきましょう。

 

 

  きみのことをよくわかっていたともし僕がいったなら

  きみはなんて答えるかな

  もし君がいまここにいてくれたら

 

  きみはきっと

  笑ってこういうだろう

  僕らはすっかり離れ離れだって

  だけど僕は

  まだあの頃のことを覚えてる 

  そしてこれ以上涙をこらえはしない

  君を愛している

 

  僕らがはじめてであった時のことはどうだい

  きみはきっというだろう

  僕らは無理をしすぎたんだって

  物事を理解せずに

  だけど僕らはいつだって歌うことができた

 

  僕らが泣いた夜のことはどうだい

  理由なんてなかったから

  すべてを心のうちに秘めて

  なにもわからずに

  でも きみはいつも笑顔でそこにいた

 

  もし僕がきみを心から愛していたといったら

  そして 君に会えてよかったと

  そして きみは今日ここにいたと

  だって きみはぼくの歌の中にいた

  今日ここに

   

 

あらためて訳してみると、この詞は心に深くしみいってきます。

昨日までいた人が、今日はいない――その喪失が詩の源泉である、とリルケはいったそうです。その喪失が、人に詩を歌わせる。Here Today は、まさにそんな歌ではないでしょうか。