芥川龍之介の「るしへる」という短編を読みました。
今日3月1日は、芥川龍之介の誕生日です。
先日、芥川の師匠筋にあたる夏目漱石について書いたこともあり……ここらでちょっと芥川龍之介に関する記事でも書いてみようかということで、ひさびさに芥川作品を読んでみた次第です。
「るしへる」は、いわゆる“切支丹物”の一作で、ハビアンという実在の人物を題材にして書かれた短編。
ハビアンという人物にはちょっと興味があったので、前にこの人物に関する本を読んだことがあります。そこでこの「るしへる」が紹介されていたので、今回それをチョイスしてみました。
まず、ハビアンという人物についてちょっと説明しておきましょう。
不干斎ハビアン(1565~1621)
一時は熱心な切支丹であったのが、後に棄教し、キリスト教を攻撃する側に回った人物です。
もとは禅僧として「恵俊」と名乗っていたものの、キリスト教に改宗し切支丹に。天正14年(1586年)、イエズス会に入会し、日本イエズス会における理論的支柱と目され、『妙貞問答』という護教書を発表。その才覚で、切支丹代表として儒学者・林羅山との論争に挑んだこともありました。しかし、慶長13年(1608年)、なぜかイエズス会を脱会。今度は切支丹を攻撃する側に回り、元和6年(1620年)、『破提宇子』というキリスト教批判の本を発表。この本は、幕府の禁教政策に利用されたといいます。
そして、芥川龍之介がこのハビアンを題材にして書いたのが「るしへる」なのです。
前半部分は前書きのようなことが書かれ、後半は、ハビアンの書いた『破提宇子』の異本という体裁になっています(もちろん、実際にハビアンが書いたものではなく芥川の創作)。
その冒頭部分には、いわゆる“全能の逆説”めいたことが書かれています。
神が全能であるなら、なぜ神に背くことになる存在を作ってしまったのか――というやつです。
それだけならば、揚げ足取りのようなものであって、キリスト教批判としては浅薄ということになるでしょうが、そこはさすがに芥川龍之介、それだけではありません。
この作品においては、ハビアン自らが、“るしへる”に会うのです。
“るしへる”とは、すなわちルシファー(Lucifer)。堕天使です。もとは高位の天使でありながらその傲慢のゆえに地獄に堕とされたという物語は、ミルトンの『失楽園』にも描かれました。
その“るしへる”が、ハビアンの前に現れます。
るしへるは、それまでハビアンが考えていたような兇猛な悪魔ではありません。
じつに、人間的な存在なのです。
「悪魔はもとより人間と異なるものにあらず」「七つの罪は人間の心にも蠍のごとくに蟠れり」というるしへるは、ハビアンにむかって次のように語ります。(ハビアンの書いたものという設定なので、擬古文になっている。ゆえに、「文語文では旧仮名使い」という新潮文庫のルールで旧仮名使い)
わが常に「いんへるの」に堕さんと思ふ魂は、同じく又、「いんへるの」に堕すまじと思ふ魂なり。汝、われら悪魔がこの悲しき運命を知るや否や。
「いんへるの」とは、inferno ――すなわち、地獄のことです。
地獄に堕しながら、るしへるは天上への憧れを捨てきれません。これは、「蜘蛛の糸」に登場するカンダタの姿であり、まさに、るしへるは人間と異なるところがないのです。
実在したハビアンに関していうと、彼がなぜキリスト教を棄てたのかということには諸説あってはっきりしないようです。
イエズス会では日本人は幹部になれないという人種差別があったためとか、単に信仰が浅かったからとか、あるいは女性問題……
いずれにせよ、芥川龍之介が、このハビアンという人物を持ち出してきたのは、そこに芥川自身の問題意識と通ずるものを見出したからではないかと思われます。
天界を逐われた不完全な存在――そこにこそ、人間があり、文学がある。
それは、日本仏教的実存主義であり、同じ芥川作品でいうと「杜子春」などに通じるテーマかもしれません。
そして、それは文学にとどまらず、音楽や絵画に関してもいえるかもしれません。
ロック方面の話でいうと、たとえばパティ・スミスは、あらゆる芸術の源泉はサタンにあるとしています。
ロバート・ジョンソンは悪魔と契約を交わし、ローリング・ストーンズは「悪魔を憐れむ歌」を歌い、ジミー・ペイジは黒魔術に傾倒……
こうしてみると、とりわけロックという音楽は、悪魔と縁が深いのです。そういうわけで――夏目漱石と同様、じつは芥川龍之介もロックなのです。