最近、ヘイトスピーチということについて考えさせられるニュースが立て続けにありました。
一つは、橋下徹氏が、立憲民主党の菅直人元総理のツイートにかみついた件。
菅元総理が橋下氏について「弁舌の巧みさでは政権を取った当時のヒトラーを思い起こす」とつぶやいたのに対し、ヒトラーになぞらえるのはヘイトスピーチだという批判が起こりました。
もう一つは、石原慎太郎氏の死去に際し、生前の彼の言動に対する批判が「ヘイトスピーチ」だというものです。
どちらも、これが“ヘイトスピーチ”なのかといわれると首をかしげずにいられません。
石原慎太郎氏に関しては、どう考えてもヘイトスピーチとは言えないでしょう。橋下氏の件に関しては、菅元総理の当該ツイートには「主張は別として」という前置きがあり、そもそもヒトラーの思想的な部分を引き合いに出して批判しているという話ではなく……また、過去に多くの人が似たようなことをいっていたという指摘も出ていて(そのなかには石原慎太郎氏もふくまれる)、なぜ今回の件だけがこんなに騒がれるのかという話にもなっています。
私の結論としては、どちらのケースもヘイトスピーチとはいえません。
このような態度は、ヘイトスピーチという概念を自分に都合のいいように換骨奪胎しているというばかりでなく、日頃それにさらされている人達が受ける苦痛を矮小化しかねないという二重の意味で悪質です。
国連の定義によれば、ヘイトスピーチとは「宗教、民族、国籍、人種、肌の色、家系、性、その他のアイデンティティの要素に基づき、個人や団体を軽蔑または差別的な表現で攻撃する言動、記述、ふるまい」です。
その定義で本当にいいのかという点に関しては議論の余地があるとしても、ではヘイトスピーチの定義をどんどん拡大していけばそれだけ社会がやさしく寛容になるかといえば、そうでもないでしょう。むしろそれは、本来あってしかるべき批判を封じる手段ともなりかねない。最近の事例は、その危険を示しているように私には思われます。
ここで、私なりに、ヘイトスピーチがそうでないかという一つの判断基準を提示するならば――
それは、「お前は○○だ」とか「○○のくせに」といわれたときに「○○で何が悪い」と言い返せるかどうかということです。ヘイトスピーチならば、そう言い返せるはずです。
たとえば、日本人がヨーロッパのどこかの国にでも行って「日本人のくせに」といわれたとする。「日本人で何が悪い」と堂々と言い返せばいいわけです。それは、ヘイトスピーチだからです。
「黒人のくせに」「在日コリアンのくせに」「ムスリムのくせに」「女のくせに」……あらゆるヘイトスピーチに、これはあてはまるでしょう。なぜなら、ヘイトスピーチとは本来咎められるいわれのないことを咎めだてようとしているからです。
しかし、「お前はまるでヒトラーのようだ」といわれたときに「ヒトラーで何が悪い」とは言いにくいでしょう。それは、この言説がヘイトスピーチではないからです。
ここで論理をさらに発展させると……「ヒトラーを想起させる」といわれてそれをヘイトスピーチだというのは、「ヒトラーで何が悪い」といっているのに等しいということになります。先の国連の定義に従えば、「ヒトラーを想起させる」ことを自分のアイデンティティとして認めたことになるわけで……
まあ、それはともかくとして……先述したように、今回の件はヘイトスピーチという概念を悪用して批判的な言説を封じようという意図が感じられ、みていてあまり気分のいいものではありませんでした。
批判とヘイトは別物であり、社会をまともに維持していくためには批判は必要です。このことは、何度でも強調しておかなければならないと思います。