映画『エイリアン:コヴェナント』を観ました。
2017年公開。
エイリアンを創出した本家リドリー・スコットの監督作であり、『プロメテウス』の続編となっています。
下は、そのトレーラー動画。
Alien: Covenant | Official Trailer [HD] | 20th Century FOX
『プロメテウス』では、人類の起源を探る旅が描かれましたが、『コヴェナント』ではあの作品で生き残った人たちのその後も明らかにされます。
詳しいことはネタバレになるので書きませんが……ああ、そういうことになったのか、という感想です。エイリアンシリーズでいえば、2から3への流れといった感じでしょうか。
『プロメテウス』からはじまる物語の出発点にあるのは、“創造主”を探り出すこと。
探検を企画したウェインランドは、「生命が存在するのが偶然であるはずはない」と考えています。
それを創り出したものがどこかにいるはずだ。
アンドロイドを人間が作ったのなら、その人間は誰が作ったのか? そのもとをたどっていけば、“創造主”にたどりつけるはず……というのです。
壮大なテーマですが……しかしこれは、カントが自然論的証明とか世界論的証明と呼んだものであり、理性の誤用にほかなりません。結局その探求は、どこにも行きつくことができないのです。問いの立て方自体が間違っている―と、カントならいうでしょう。
しかし『プロメテウス』とそれに続く本作『コヴェナント』は、果敢にそこに切り込んでいきます。
そして……当然の結果として、その出発点から約束されている一つの難問に直面しているように思われるのです。
それはすなわち、問いの立て方自体が誤っているその問いの答えをどんなふうにもっともらしく描けるのか、ということです。
いま一度カントに登場してもらうと、彼は「崇高なものは語り得ないのではなく、語り得ないものが崇高なのだ」といっています。
つまりは、創造主という至高の存在であるべきものが、形をもったものとして描いた時点で、ある種の嘘臭さをもってしまう。それは、どんな形であれ、映像として描いた時点でそうなってしまうのです。
この作品はエイリアンというものの誕生をめぐる物語でもあるわけですが、エイリアンという存在にもこの問題は波及してきます。
ほかならぬR.スコット監督自身が語っているように、起源が謎に包まれているからこそエイリアンは恐怖の存在なのであり……その起源を描くということは、いわば手品の種明かしをするようなもので、エイリアンというもののもつ神秘性をはぎとってしまうおそれがあるのです。
そのあたりの感想は人それぞれでしょうが、私としては、手品の種にちょっとがっかりした感も否めません。エイリアンというのはこんなふうにして生まれたのか、と……
しかしながら、本作にはエイリアン映画としての魅力も十分に詰まっています。
閉鎖空間での、終わらない悪夢としてのエイリアン……スプラッター描写も満載(R15指定)で、ギーガー美術あり、格闘アクションあり、そして結末も、いろんな意味で期待を裏切りません。宇宙を舞台にしたSFパニックホラー映画という部分では見ごたえがあるでしょう。本家による純正エイリアン映画として、SF映画史に残る重要な一作になったと思います。