今日は、12月8日。
太平洋戦争開戦の日です。
このブログでは、こうした日付にあわせて、ときどき近現代史に関する記事を書いています。そんなわけで、今日は近現代史記事でいこうと思います。
このカテゴリーとしては、前回「滝川事件」というものについて書きました。
時代の流れにそって、その翌年、昭和9年(1934年)の話です。
この年、「士官学校事件」というものがありました。
これは、この時代にはもはやおなじみとなっているクーデター計画です。
かつての三月事件や十月事件、五.一五事件と同じく、軍の将校がクーデターを起こして軍事政権を樹立しようというもの。
結果をいえば、クーデター自体は、未遂に終わりました。
そのこともあって、戦前昭和史においてさして重大な事件ともみなされていないようですが、むしろそこが異常です。軍内部の過激派がクーデターを目論んだというとんでもない話なのに、それがさほど珍しい話でもなくなってしまっているという……異常が異常とみなされない異常さということです。
まあ実際問題として、この時代に起きたいくつもの事変のなかにおいてさほど大事でないとはいえるんですが……しかし、この士官学校事件は、その後の大事件につながっていく萌芽でもあります。
この件によって、いわゆる統制派と皇道派の対立がさらに深刻になり、翌年の相沢事件につながり、そこからさらに二.二六事件という大事件に発展していく……その助走段階というべき事件でもあるのです。
ところで……
この同じ年にあった動きとして、「国防の本義と其強化の提唱」と題するパンフレットが発行されました。
これは、陸軍省新聞班が発行したもので、総力戦体制の構築を訴えるものです。
皇道派と統制派の対立という背景を踏まえると、この内容はなんだか奇妙にも思えます。
永田鉄山、林銑十郎という、皇道派からみれば仇敵とも呼べる人たちが関与しているにもかかわらず、その主張は皇道派が唱える国家像に似ているようでもあるのです。
ここからみてとれるのは……
統制派と皇道派は、反目しているようにみえて、実は目指す国家像にそれほどの違いはない、ということが一点。
そしてもう一点は、実は軍を統御しようと考えている政治の側も、その目指す姿を一定程度まで共有しているということです。
件のパンフレットは「国策研究会」という民間のシンクタンクが作成に協力しているのですが、この国策研究会というのは、後に近衛文麿のブレーン集団となり、企画院というものに発展していく組織。つまり、そこで示されたビジョンは、政治の側ともつながっているのです。
そのビジョンとは、一言でいえば、強い権限を持つものによって統治される国家。
明治以来の日本の国家システムは、ガバナンスに脆弱性を抱えている。それを解消するためには、強い権限をもつリーダーのもとで国家を統制することが必要だ……という考え方です。
「国防の本義と其強化の提唱」パンフレットは、統制派、皇道派、そして政治家たちが、ある点において同じビジョンを抱いていたということの具現化だと私は見ています。
ただし……彼らが共有しているゴールは、あくまでも「一言でいえば」の話であり、実際には同床異夢です。
政治の側から見れば、軍の暴走を制御するだけの強力な権限を持ちたい。軍の側は、皇道派も統制派も、軍が強力に全体を統制する国家を作りたい……それが、形式的には同じゴールということになっている。表面上はそう見える、というところが問題にってきます。反目しあっている三者が形式的には同じ目的を共有しているので、それは結果として実現に向かっていってしまうのです。
その過程で、当然ながら根本にある目的の違いが問題となってきます。
共通しているのは「強い権限をもつものによって統治される国家」という点についてのみであり、その「強い権限」を誰が持つべきなのかということに関しては、軍と政治との間でまったく対立していました。そのせめぎあいにおいて軍が主導権を握ることで、おそるべき国家主義が誕生してしまうことになるのです。
国家権力をめぐる三つ巴の主導権争い……士官学校事件から相沢事件へという一連の流れは、その一環でしょう。二.二六事件は、皇道派と統制派の最終決戦ということになりますが、その二.二六事件を起こした中心人物の一人である磯部浅一は、この士官学校事件でも首謀者的立ち位置にいました。この事件で彼が停職処分となったことが、二.二六事件のひとつの伏線となっています。停職となった磯部や村中孝次はこの事件を統制派によるでっちあげだと訴え、両派の対立が激化していくのです。
そのあたりの話についてはまたいずれ書くとして……今回はこのあたりで。