ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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まっとうな多党制を目指して……まだ、道ははじまったばかり

2017-10-25 21:38:46 | 時事
今回の衆院選の選挙結果について、もう一度書きます。

くどいようですが……

前回衆院選の記事を書きましたが、書いているうちに、意外とこれは見た目よりも結構いい結果だったんじゃないか……と思うようになってきました。

立憲民主党の躍進は、決して小さなことではありません。

リベラル系の有権者の票が結集したことがその大きな要因でしょう。
今回の選挙では、リベラル派が「この旗のもとになら集結できる」と思う旗印が、掲げられたのです。

これは、2012年の総選挙で現在の一強体制が始まって以来の選挙で初めてのことだと思います。

このことには、獲得した議席の数よりもはるかに大きな意味があるでしょう。
今後につながる成果といえます。


立憲民主党には、ここから慎重にやっていってもらいたいところです。

おせっかいながら私が意見したいのは、党勢を拡大しようとして有象無象を党内に取り入れないこと。
以前このブログでも書いた通り、それは将来の分裂の種になります。
その観点から、私は野党の再結集論には反対です。
希望の党にいった人たちを受け入れたりしたら、おそらく逆に勢いをそがれることになると思います。

前回の記事で書いた通り、次の解散総選挙までにはいくらか時間があるはずです。
その間に、じっくりと足場を固め、信頼するに足る候補者を探していけばいいんです。かつての民主党/民進党の過ちを繰り返してはいけません。頭数をそろえることよりも党内の価値観の一致を優先して、生え抜き主義に徹するべきです。

これが、まっとうな多党制を作っていく最後のチャンスになるかもしれません。
立憲民主党には、ゆっくりと、着実に進んでいってもらいたいところです。


ここで、名曲を一曲。
カーペンターズの We've Only Just Begun です。

Before the rising sun we fly
So many roads to choose
We start out walking and learn to run
And yes! We've only just begun.

日が昇る前に 私たちは飛び立つ
選ばなきゃならない道はいくつもある
私たちは歩き始め 走ることを学ぶ
そう 私たちははじまったばかり


名曲ですね。
この歌はウェディングソングであって、政治の話で持ち出すにはいささかセンチメンタルにすぎる気もしますが……
政治の世界のドロドロを嫌気がさすほど見せつけられた後ですから、せめて気分はこれぐらいさわやかでいたいな、と。


《追記》
セクハラ疑惑なんか出てきてるみたいですが、その手のスキャンダルなんて与野党問わずこれまで腐るほどありました。
人が何十人、何百人と集まれば、そういうことも出てきます。スキャンダル的な話と、政党としてどうかということは別問題、ということもいっておきたいです。

大刀洗のコスモス畑

2017-10-25 18:04:55 | 日記
大刀洗にいってきました。

大刀洗にはキリンビールの工場があり、その隣にビアファームというレストランがあります。

ここでいま、コスモスフェスタという催しが行われいます。



ちょっと散りかけている感じですね。

本当は先週くるつもりだったのですが、諸般の事情で今日になってしまいました。
先週きていたら、おそらく満開だったんでしょうが……


ところで、なぜ、こんなところにきたのか。
ただ、コスモスを見に来たというわけではありません。

じつは私は、件のレストランで働いていたことがあるのです。

皿洗い専門で、ひたすら皿を洗っていたことを思い出します。

皿洗いは、ここのほかにもいろんな職場でやってきました。
私がこれまでに洗った皿の枚数は、一般的な人の一生ぶんを軽く超えてるんじゃないかと思います。

皿洗いなんていうのは下働きの代名詞みたいなものですが、侮ってはいけません。

どんな凄腕のシェフがいたって、誰かが皿を洗わなければ食事は出せないんです。私は、皿洗いを通してそのことを学びました。さっさと皿洗え、とせっつかれることによって……


そういうわけで、このコスモス畑は、私が歩いてきた道のひとつ。

今年は(いささか変則的な形とはいえ)本を一冊出すという大きなイベントがあったので、来し方を振り返ってみたくなったのでした。


思い出すのは、5月のことです。

いまはコスモスですが、このビアファーム、5月にはポピー祭りというものをやっています。
非常に忙しい時期です。
そして、その時期がちょうど『このミス』大賞の締め切り直前にかぶってるんですね。
最後の追い込みの期間と繁忙期が重なり、焦燥に駆られながら皿を洗っていました。

『ホテル・カリフォルニア』を書いていた時は、ちょうどこの仕事を辞めて、ひさびさに皿洗いのない5月をもてた年でした。
その余裕があったために、『ホテル・カリフォルニア』は最終までいけたのかもしれません。

じゃあ結局、皿洗いがダメだったってことになるんじゃ……というのは、後になって思うこと。
人間生きていて、無駄なことなんて一つもないんです。
ここで数えきれないほど皿を洗っていたことも、どこかでなにかの役に立ってるはず……そんなことを思った、午後のコスモス畑でした。

衆院選の結果からみえるかすかな希望

2017-10-24 00:16:07 | 時事
衆院選の全議席が確定しました。

与党の圧勝という結果で、一強体制はよくないという私の主張からすると、残念な結果に終わりました。

しかし同時に、ここ数年の選挙のなかでは、もっとも明るい要素のある結果だとも思います。

というのは、立憲民主党がよい戦いをみせたからです。

獲得した議席はそれほど多くはありませんが、候補者がそもそも少ないので、勝率でみれば3分の2以上が当選で、大勝といえます。

この結果を見て、民進党のこれまでの不振は、やはり内部に保守層を抱え込んでいたことにあったのだろうと思いました。
民進党内にかなりの保守層がいるために、リベラル系の有権者は民進党を全面的に支持することができなかった、それが、リベラル票の分散につながり、与党を利していた……それが今回は、民進党内から保守層が出て行ってくれたために、リベラル派は躊躇なく立憲民主党を支持することができたわけです。

はっきりとリベラルの旗を掲げれば十分に戦える。
そのことが、今回の選挙で示されました。
これは大きな収穫といえるでしょう。

今回は突然の選挙で候補者を十分に立てることができず、比例の獲得議席が余ってしまうというところもありましたが、立憲民主党がこれからきちんと体制をつくっていけば、与党の対抗しうる勢力はじゅうぶんに作れる見込みがあります。


そしてもう一つの希望は、解散という“伝家の宝刀”もしばらくは抜けないだろうということです。

解散総選挙もそんなに頻繁にはできませんから、前回の記事で書いた「新興勢力が勢力を拡大する前につぶしてしまう」という手も、しばらくは使えません。
ここは、与党側にとっても誤算だったと思います。
今回の解散総選挙で、与党は希望の党をつぶすことには成功しましたが、その代わりに立憲民主党という別の勢力を躍進させてしまいました。
このほころびこそが、チャンスです。
次の選挙まで、少なくとも一年以上はあるでしょう。立憲民主党は、その猶予を使ってじっくりと体制を整えればいいのです。

ここで、前回の記事で紹介したボブ・マーリィの I Shot the Sheriff から、また一節を引用しましょう。

Every day the bucket a-go a well
One day the bottom a-go drop out

「毎日バケツは井戸へいく。いつかは底が抜けちまう」

同じやり方を何度も続けていれば、いつかはほころびが出ます。
今回の解散総選挙は、一強与党のつまづきの石となるのかもしれません。

衆院選投開票 こんなときだから、あえて希望の党を擁護する

2017-10-22 22:25:44 | 時事
衆院選の投開票が行われています。

鳴り物入りでスタートした希望の党ですが、失速し、どうやら野党第一党になることも難しそうです。

その原因として、「排除」発言が響いて……ということが指摘されています。
たしかに、旧民進党との合流に際しての「排除」発言が尊大ととられたことが、風向きを変える大きな要因になったことは否めないでしょう。

このタイミングで希望の党を批判することは簡単です。

しかし、私は、今回あえて希望の党を擁護してみたいと思います。

はじめにことわっておきますが、私は希望の党の支持者ではありません。
むしろ考え方は正反対といっていいぐらい違います。
ですが、それでもあえて、今回の解散総選挙にいたる経緯からみえてくる日本政治の構造的問題について一言いっておきたいんです。
繰り返しますが、私は希望の党の支持者ではないので、ここでいっていることは決して「自分の支持する党が勝てなかったことからくる負け惜しみ」などではないということを申し添えておきます。


まず、「排除」発言問題。

「排除」という言い方が非常に感じ悪いのですが、他党との合流において議員一人ひとりについて選別すること自体は問題のあることではないでしょう。

以前、民進党崩壊についての記事で書きましたが、党勢拡大のためといって考え方の違う人たちを大勢受け入れると、将来の分裂の種になります。
小池百合子さんも、当然そのことを考えていたはずです。
将来の国政進出、さらに政権をとることを考えるなら、民主党/民進党の轍を踏むことになってはいけない。それが、「排除」という行動に表れたのだと思います。その動機については、私は理解できるんです。その言い方が尊大、傲慢というふうにみえてしまったことが問題ですが……

そして、小池さん自身が出馬しなかったこと。

これも、私は責められるべきことではないと思います。
私はかねがね疑問に思っているのですが、政治についてあれこれいうのなら国政選挙に立候補しなければならないんでしょうか。
政治とのかかわり方は、もっと多様で人それぞれでいいんじゃないでしょうか。
「国政について云々するならみずから立候補しなければならない」というのは、結果として多様な政治参加の道を閉ざし、それこそ体裁のいい排除の論理になっているようにさえ思えます。

東京都知事という立場で国政政党の代表として国政にも関与する……これは別に、ありなことだと思います。
多様なあり方を認めていかないと、政治はいつまでも一部の人たちの専有物であり続けることになるんじゃないでしょうか。


希望の党の失速については、私はむしろ、与党側が解散権を恣意的に行使できるということの問題だと思うんです。

思えば、前回2014年の衆院選にも、そういう構図がありました。

あのとき、「維新の党」という政党が誕生していました。
旧維新の会に「結いの党」が合流して「維新の党」となり、“第三極”を目指していました。
そして、そんなさなかに衆院が解散となったのです。
このときも、与党側には「新しい党が本格的に稼働して勢力を拡大する前に解散してしまおう」という意図があったと指摘されます。
そして、それが功を奏しました。
「維新の党」は、急な解散で選挙のための体制を整える余裕もなく、伸び悩みました。

今回の解散総選挙も、そういう側面があることは否定できないでしょう。
「新興勢力が態勢を整える前に解散してしまう」ことによって、新興勢力は準備が十分でない状態で選挙戦に突入することを強いられます。
今回の希望・民進合流劇のゴタゴタも、その不利な状況での開戦に追い込まれたことからくる焦りがその背景にあると思えます。

つまり、与党は解散という“伝家の宝刀”を抜くことによって、相手走者がコンディション調整も準備運動もできないうちにレースをスタートさせることができる。相手側は劣勢をなんとかしようとして焦り、結果として自滅してしまう……そういう構図です。

レースの走者の一人がスタートの笛を持っていて、いつでも自分の有利なときにそれを吹くことができるというのでは、はなからフェアな競争とはえいません。
これでは、解散権というものが「自分たちに抵抗しうるような勢力が現れそうになったら芽のうちに摘んでおく」ための仕組みになってしまいます。


ここで、名曲を一曲。

ボブ・マーリィの I Shot the Sheriff です。エリック・クラプトンのカバーでも知られるとても有名な歌です。sheriff(保安官)という比喩で圧政を批判する歌と思われますが、そのなかにこんな一節があります。

俺が種をまくといつも
あいつはいうんだ「そいつが育つ前に摘み取ってしまえ」と

まさに、これです。
圧政者は、自分を脅かしそうな存在は小さいうちにつぶしてしまおうとしまう……そのことを、ボブ・マーリィはこんなふうに表現しているんだと思います。

そして、いまの日本において、解散権がこの保安官の都合のいい道具になってしまっているんじゃないか。そんな気がしてなりません。

これでは、しっかりとした政党はなかなかできません。それではまずいんです。

そもそも論として、首相に解散権があるという考え方自体、無理な三段論法だという指摘も根強くあります。

そろそろ真剣に、この「解散権」というものを制限することを考えたほうがいいんじゃないでしょうか。




《追記》
テレ朝の開票速報番組で、後藤謙次さんが「希望の党の失速は、保守で二大政党制を目指すことの限界だ」というようなこといってました。中道・リベラルを結集させなければ、保守への対抗軸は作れない……と。慧眼だと思います。記事中で言及した維新の党についても、同じことがいえるでしょう。

また、希望の党失速のもう一つの大きな要因は、民進党右派という毒杯を飲んだことにもあると私には思えます。有権者のなかには、いまでもまだ旧民主党政権に対する憎悪にも似た感情が渦巻いているようにみえますが、民進党と一部合流したことによってその憎悪の矛先が希望の党にも向いたのではないでしょうか。
合流劇のもう一人の立役者が前原さんですが、それにしても前原さんというのは巡りあわせの悪い人だなとちょっと同情します。よっぽど前世で悪いことでもしたんでしょうか……

『ホテル・カリフォルニアの殺人』制作裏話 ~制作の現場~

2017-10-20 15:49:15 | 『ホテル・カリフォルニアの殺人』
『ホテル・カリフォルニアの殺人』制作裏話シリーズの4回目です。

前回は、『ホテル・カリフォルニア』を書くにいたった経緯について書きました。
今回は、実際執筆していた時のことを書こうと思います。

といっても、特にものすごいことをしてるわけではありません。

私はよく音楽を聴きながら小説を書いてます。
その作品にあったアーティストの曲や、iTunes でその作品用に作ったプレイリストを流しながら書きます。『ホテル・カリフォルニア』の場合は、イーグルスや、ジャクソン・ブラウンをはじめとしたウェストコースト系のアーティストが多かったです。

BGMは大事です。

その作品にとりかかるムードを作り上げてくれます。
もっとも、大事なのは最初で、本当に筆が乗ってくると、音楽はほとんど頭に入ってきません。あとでプレイリストをみて、「あれ、この曲さっき聴いたっけ? 聴いた記憶がないんだけど……」となるような状態が理想です。


あと、私の制作スタイルで変わったところがあるとすれば、順番通りに書かないというところですかね。

ほかの人がどういうふうにしているのかはよくわかりませんが、私ははじめから終わりまで順番どおりに書くという書き方はしていません。

冒頭部分とかラストシーンとか特に時間をかけるべきところは、じっくり熟考する時間がとれるときに書きます。そうでないときには、とりあえず書きやすいところを書いていくという感じです。

プロットも、そこまで綿密には作りこみません。
もちろん大枠はありますが、最初に設計図をきっちり作って書くというタイプではないんです。

そうする理由は、一つには、プロットに縛られたくないということです。

書いている途中に、ここはこうしたほうがいいな、こういうやりかたもあるな、と思いつくことはよくあります。そんなときには、柔軟に変更できるようにしておきたいんです。

私の作品は「奇抜なトリック」が一つのアピールポイントだと自分では思っていますが、その奇抜な発想を支えているのは、制作過程の柔軟さです。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』も、メイントリックはともかくとして、それ以外のあれやこれやは普通にプロットを作って書いていたら出てこなかったアイディアだと思います。その奇抜さに関しては、それなりに自負があります。読んだ方がそれを「面白い」と思ってくれるか、「リアリティがない」と一蹴するかという問題はあるんですが……まあ、そこは好みの問題でどうしようもないことです。


ここで、実際制作に用いていたメモ帳の画像をお見せしましょう。



こうして制作裏話なんてやってるので、その当時の資料か何か残っていないかと探してみたところ、これが出てきました。



これは、小説として書く文章の下書きのようなものです。
電車に乗っているときや外出先でノートパソコンを出せないような場所でも、少しでも執筆を進めたい……そんなときには、こういうふうにメモ帳に走り書きして、後でパソコンで清書します。
画像にあるのは、第二の殺人が発生した直後の場面ですね。



こちらは、タスクリスト。
作品が完成に近づいていくると、気づいた問題点や、ブラッシュアップが必要な部分をリストアップしていきます。そのリストにもとづいて、最後の仕上げを行うわけです。
画像は半分で切れていますが、下半分はネタバレになるおそれがあるためカットさせていただきました。



いかがでしょう。

制作現場の生々しい感じが伝わったでしょうか。

こんな感じで、『ホテル・カリフォルニア』は書かれました。

今回はここまでで、次回は『ホテル・カリフォルニア』応募までの経緯を、実際の執筆とはまた別の視点から振り返りたいと思います。