ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』(宝島社文庫)発売中です!

Jackson Browne, Casino Nation

2017-11-15 17:32:48 | 音楽批評
今回は、音楽批評の記事です。

前回は、イーグルスの「エデンからの道、遥か」を取り上げましたが、それに通ずるところがあるように感じられる、ジャクソン・ブラウンの「カジノ・ネイション」という曲を取り上げます。

この曲は、ジャクソン・ブラウンが2002年に発表したアルバム『ネイキッド・ライド・ホーム』に収録されています。

 

ジャクソン・ブラウンがイーグルスと深いつながりを持っていて、アメリカ社会に対する問題意識もかなりの程度まで共有しているということは以前も書きました。そういう背景もあって、この曲は、イーグルスの「エデンからの道、遥か」とベクトルを共有しているように思われるのです。

砂漠のような荒涼とした曲調もそうですし、歌詞の内容もそうです。

  キリストの名のもとに兵器を製造する国で
  自由世界の名高いるつぼで
  カメラクルーは破片の山のなかに手がかりをさがす

アメリカに対する辛辣なまなざしが感じられます。

  あらゆる場所で 善人たちは永久戦争にそなえ
  兵器がその計画を練るのにまかせている

ジャクソン・ブラウンという人は、もう何十年も前からアメリカの影の部分を告発してきました。
そして、時代が変わっても、程度の差はあれ、そうしたスタンスはなくなっていません。
それは、彼の姿勢がぶれていないということなのですが、また同時に、アメリカの暗部が暗部のままであり続けているということでもあります。そうであるから、ジャクソン・ブラウンはそれを告発しないわけにはいかないのです。

もちろん、告発しているばかりではなく、変化への希望を歌ってもいます。
たとえば、このアルバムでいえば、About My Imagination という歌があります。


  僕は目を開けたままで 見ようとした
   目の前で起きていることの意味を


と始まるこの歌は、「そんなに長いあいだ目を開けたままにしておくなんて僕は愚かだったんでしょうか」と歌ったごく初期の歌 Doctor My Eyes への応答のようでもあります。
はじめに過去形で語られたこのフレーズは、中盤では現在形に変わります。


  僕は目を開けたまま 見ようとしている
  この人生の可能性を
  たくさんの変化、悪いほうへの変化のなかでも
  頭をあげていなきゃいけないよ ベイビー
  ゆりかごから墓場までね

そして終盤では、People get ready というどこかで聞いたような言葉も出てきて「みんな船に乗る準備をするんだ」と歌われます。この歌にはこういう本歌取り的なところがあって、About My Imagination というタイトルも、ひょっとしたら「イマジン」を意識しているのかもしれません。
歌の最後は、こうしめくくられます。


 僕は祈っている
 奮い立ちながら
 もっと光を もっと愛を
  もっと真実を もっと革新を


こう聞いていると、尾崎豊っぽいところがありますが、尾崎豊も、ジャクソン・ブラウンからかなり影響を受けていると語っています。そういうところにも影響を与えている人なんです。

……と、ここまで歌詞のことばかり書いてきました。

ジャクソン・ブラウンというとどうしても歌詞のことが注目されるんですが、もちろん音楽的にも高い評価を受けています。
“ウェストコーストの弦の魔術師”と呼ばれるデヴィッド・リンドレイと活動をともにすることがよくあり、マニアックな弦楽器を曲中に使ったりしていますし、近年はアメリカ先住民のミュージシャンとともに活動していたりもするそうです。そういう方向への探求は、彼が根底に持っている価値観と密接に結びついています。そういう確固とした芯を持っているために、ジャクソン・ブラウンはレジェンド的存在であり続けているのだと思います。

加計問題から考える……規制緩和は本当に世の中をよくするのか

2017-11-12 20:29:47 | 時事
加計学園の獣医学部新設が認められ、開学できそうな見通しです。
今回は、時事問題記事として、この件について書きたいと思います。

加計学園問題をめぐってしばしば聞かれたのは、「規制緩和そのものは悪くない」的な議論です。
今回は手続きの面にいろいろ瑕疵があったかもしれないが、規制緩和は基本的にいいことだ。今回の獣医学部新設は、“岩盤規制”に穴を開けたんだ……というやつです。

そこに、私は首をかしげます。

そもそも、「規制緩和は基本的にいいこと」という意見自体に私は反対です。

ある概念が実態を離れて独り歩きしていくことが世の中にはよくありますが、“規制緩和”というのはその典型的な例だと私は考えています。
規制緩和というのは、世の中をよくない方向にもっていくように思えて仕方がないのです。


一つの理由は、公正性の問題です。

規制緩和や民営化というのは、それによって利益を得る民間事業者がいるわけですが、それが政治家と特別な関係を持っていることから得られる特権ではないのか、つまり“えこひいき”なんじゃないかと疑われるような例がどうしても出てきます。
はるか昔の五代友厚の例から、そうでしょう。官有物が破格の条件で民間に払い下げられ、その相手が政界と深いつながりをもつ人物だった……というのは、世間から見れば納得しがたいものがあるわけです。これは民営化の例ですが、規制緩和にも同じような問題がついてまわります。

もう一つは、規制緩和はデフレの誘因になってるんじゃないかということです。

規制緩和というのは、それが何に関するどんな緩和であれ、供給を増やす方向に働くと思われます。供給が増加するのですから、それはデフレの誘因になるでしょう。

まさに今回の加計問題で、政府の側からそういう趣旨の発言も出ています。

山本地方創生相が、7月4日に閣議後の会見で「小動物獣医師の給料を下げるべきと思うか」と問われ、それを肯定した際の発言です。

山本創成相は、「獣医学部の新設によって、獣医師不足が改善される」としています。

公務員である獣医師が不足しているのは、小動物獣医師の待遇がよすぎるからであり、獣医学部を新設して獣医師を増やせば、ペット診療の価格破壊が起きて、この状況が是正される……というわけです。

規制緩和で獣医学部新設→獣医師の増加→価格の低下

という図式です。
     
ここでは、「規制緩和による獣医師の増加」が「ペット診療の価格破壊」という結果につながる……つまり、規制緩和がある市場をデフレの方向にもっていくという認識が示されています。

これはまさに、そのとおりだと思うんです。

規制緩和は、経済をデフレの方向に引っ張っていくに違いないのです。

日本経済がこの二十数年の間デフレ傾向にあったのも、規制緩和を進めてきた結果だと私には思えます。つまり、規制緩和は、デフレ基調を作ることによって、長い目でみれば経済を地盤沈下させていくのではないか……そんなふうに思えるのです。

そして、こうして起きるデフレは、それによって利益を得る民間事業者がいる一方で、一般の労働者には、失業や賃金低下という負の影響を強く及ぼし、格差を拡大させていきます。


私のリスペクトする経済評論家の内橋克人さんは、その慧眼で、規制緩和論がもてはやされていた当初からそうした問題点を鋭く指摘していました。

内橋さんはジャーナリスト集団「グループ2001」との共著『規制緩和という悪夢』(文春文庫)のなかで、規制緩和が引き起こす問題を以下のように列挙しています。

「富の二極分化、中間層の実質賃金の急激な低下、新規参入企業の失敗、規模の優位性による寡占化の進行、安全性の低下」

どうでしょうか。
これはまさに、この二十数年の間に日本経済に起こってきたことではないでしょうか。

規制緩和が経済をよくする、というのは、幻想ではないのか。

その根本の部分を真剣に疑ってかかるべきときに来ているように私には思えます。

『ホテル・カリフォルニアの殺人』制作裏話・番外編2 ~修行の日々~

2017-11-10 15:52:45 | 『ホテル・カリフォルニアの殺人』
今回は、『ホテル・カリフォルニアの殺人』制作裏話、番外編の続きです。

前回は、ファイナルに進出しながらも勝ちきれないというところから、トミーがいったん封印されたということについて書きました。

これは、投稿者という立場からすると、かなり大きな決断でした。

プロトタイプを別にすれば、トミーシリーズは応募した作品が100%ファイナルに進出しています。
いうなれば、鉄板ネタです。
その鉄板ネタをあえて封印するのは、それなりに勇気のいることでした。
しかし、レベルアップのためにはそういう滝に打たれて修業のような思い切ったことが必要だ、と考えたのでした。

この期間は、それなりに意義があったとは思います。

作品を作っていく際の月単位での時間配分や、一日のなかでのペース配分、最後のブラッシュアップを効率化する工夫などを考え、それまでに比べて平均的な通過成績はよくなりました。一次落ちということも減りました(それでも時に一次落ちはありましたが……)。

また、一人称ではなく、三人称の作品でそれなりに成績を出せるようになったのも、収穫でした。

たとえば、『ヘリオス・フォーリング』という作品は、このミス大賞で最終候補に残りました。トミーシリーズでない作品で初のファイナル進出でした。
それから、すばる文学賞で一次通過ということもありました(この作品は、本名ではなくペンネームでの応募)。一次どまりだったとはいえ、ミステリー以外のジャンルで通過成績を残せたことも、自信につながりました。

しかしやはり、受賞というところにはいたりませんでした。

そこで私も、そろそろまたトミーに登板してもらおうかと考え始めました。


封印期間の間に、自分の技量も多少は上がったろう。それを活かして鉄板ネタであるトミーシリーズ作品を書けば、今度こそいけるんじゃないか……
バトルものの漫画でよくある、ものすごい重量のプロテクターをつけて戦っていた主人公が「ふっ……いよいよこいつを外す時がきたか」「なにっ……そんなものをつけて戦っていたというのかっ……!?」「さあ、ここからが本当の勝負だぜ!」みたいな感じです。

そうして、ほかのいくつかの作品と並行する形で、トミーの新作が構想されていました。

予定されていたのは、ローリング・ストーンズをとりあげた作品です。

タイトルは、ズバリ『悪魔を憐れむ歌』。

例によって、ストーンズの曲をちりばめながら展開していくミステリーです。
この作品を書き上げて、3月から5月にかけてのミステリー系新人賞〆切ラッシュのどこかに合わせていこうと考えていました。

そしてそんなさなかに……“超隠し玉”企画の打診を受けたのです。

そこからの話は、また別の機会に書きたいと思います。

イーグルス「エデンからの道、遥か」(Eagles,Long Road Out of Eden)

2017-11-08 21:40:30 | 音楽批評
 

今回は、音楽批評記事です。

前回はハロウィンというヘヴィメタルのバンドを取り上げましたが、今回はまたイーグルスに戻ってきます。
順番に沿って、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』第六章の章題となっている「エデンからの道、遥か」です。

原題は、Long Road Out of Eden。

同タイトルのアルバムのタイトルチューンです。

このアルバムは、純粋なオリジナルアルバムとしては、イーグルスにとっておよそ30年ぶりのニューアルバムで、CD2枚組の大作。イーグルスの最新作であり、そしておそらく最後の作品になるだろうと思われます。

そのタイトルチューンである「エデンからの道、遥か」は、かなり気合の入った作品です。
なにしろ、長さ10分を超える大作。おそらく、イーグルスのすべての楽曲の中でもっとも長いものでしょう。イーグルスの面々は、「21世紀のホテル・カリフォルニア」といった位置づけでこの曲を作ったのではないか……と、私は想像しています。

そのタイトルの意味するところは、キリスト教圏ではおなじみの楽園追放のストーリーです。

これまでこのブログでいろいろ書いてきた通り、21世紀のアメリカはかなり病的な傾向をみせてきました。

そんな時代に対して、この歌は歌われているんだと思います。

楽園から遠く離れたところにきてしまった、と……

曲は、まず砂漠を吹く風のような音からはじまります。
そこへ、角笛のような音色と、鐘の音。
このオープニングから、もう寒々とした空気が漂ってきます。イメージとしては、「ホテル・カリフォルニア」よりも、はるかに荒涼として感じられます。

砂漠のイメージは、どうやらモハーベ砂漠というよりも中東の砂漠のようです。

歌がはじまると、震える手にライフルを持つ兵士とおぼしき人物のことが歌われます。
彼は、旧約聖書の詩編23章をささやいています。

詩編23章……旧約聖書のなかでも、とりわけ引用・言及されることの多い箇所という印象がありますが、その第4節には、次のように書かれています。


  死の影の谷をゆくときも
  わたしは災いをおそれない
  あなたがわたしと共にいてくださる
  あなたの鞭 あなたの杖
  それがわたしを力づける

 大岡昇平が『野火』でその最初の一行を引用している有名な一節です。
 この一節も、寒々として響きます。
 『野火』はフィリピンの戦場を彷徨する兵士の物語ですが、そこで語られる絶望と、この歌の風景はなんと似ていることでしょう。もはや戦う意味もわからず、戦場にとりのこされ、ただ生き延びることだけが目的となっている兵士……そういうイメージでしょう。

 また、こんな歌詞も出てきます。


  俺たちはユートピアを目指している
  地図によれば、すぐにでもたどりつくはずだった
  老いた隊長は
  手綱をしっかりつかむようにいった
  内なる痛みは、育ちの痛みにすぎないと


 アメリカという物語の欺瞞がここでも告発されています。
 痛みは今だけのものであり、その先には幸福が待っているという……これは、果たされることのない約束です。なぜなら、ユートピアはどこにも存在しないからです。

曲の後半では、世界史的なモチーフも出てきます。


  アッピア街道でカエサルの亡霊にあった
  やつはいった
  一度味をしめたら この乱痴気騒ぎはやめられない
   だが 帝国への道は 血にまみれたばかげた徒労さ 


こんな内容の歌に、悲鳴のようなギターがからんできます。
そして、歌詞のなかに出てくる「亡霊のキャラバン」が砂漠をさすらうような後奏とともに、曲は終わります。
最初から最後まで、荒涼とした雰囲気がつきまといます。

アルバムでは、このタイトルチューンの後に I Dreamed There Was No War という曲が収録されています。「戦争などないという夢をみた」というこのインストゥルメンタルは、「エデンからの道、遥か」の後であるがゆえに、切なく美しく響きます。

このあたりが、『エデンからの道、遥か』というCD2枚組の大作アルバムにおけるハイライトでしょう。

中心メンバーの一人であるグレン・フライが昨年死去したことによって、イーグルスが今後新作を作る可能性はかぎりなくゼロ。おそらくこのアルバムがイーグルス最後の作品となるでしょう。
ソロであれバンドであれ、ミュージシャンの最後というのはなかなか思うにまかせないものですが、「エデンからの道、遥か」と、同タイトルのアルバムは、イーグルスのキャリアをしめくくるにふさわしい作品になっていると思います。

手塚治虫を読め! 『三つ目がとおる』をおす三つ目の理由

2017-11-06 15:53:24 | 漫画
以前、手塚治虫の『三つ目がとおる』のことを書きました。

そこで、手塚作品の中で特に『三つ目がとおる』をピックアップするのには三つの理由がある……と書いたのですが、その三つの理由のうち、最後の一つを書いていませんでした。
今回は、それを書こうと思います。

三つ目の理由……それは、以前このブログで取り上げた話題と通ずるところがあるな、と思ったということです。

「生まれつきの髪の色を変えなきゃだめ?」という記事ですが……そこでとりあげた、生まれつき茶色っぽい髪を黒く染めるように強要されたという話です。

そのニュースのことを考えていて、『三つ目がとおる』のなかの一つの話を思い出しました。

『三つ目がとおる』は、連載漫画でよくあるように、複数話で一つの大きなストーリーになる「〇〇編」というのがいくつかあるのですが、その一つに「地下の都編」というのがあります。

このエピソードでは、写楽の育ての親である犬持博士が、写楽の第三の目を手術で切除しようとするのです。

写楽をごくあたりまえの大人にしてやりたい

と、犬持博士はいいます。

第三の目があるがゆえに、写楽は手がつけられない。いっそ、それを切除して、普通の人間にしたほうがいい……と。

そして、話の後半では、学校の先生に退学のおどしをかけられ、手術に踏み切るのです。

生まれつき人と違うものを、“あたりまえ”の人と同じように矯正しなければならないのか……ここでは、そういう問いが投げかけられているのだと思います。

それは、生まれつき茶色い髪をまわりに合わせて黒くしなければならないのかという問題と通底するところがあるように思えます。


この話の前半では写楽は三つ目の力を使いません。
さえない少年のままで、遺跡を掘りあて、そこから巻き込まれる冒険を自分一人の力で切り抜けます。後半では三つ目の写楽が出てくるのですが、部分的とはいえ、三つ目の力を使わずに写楽が危機を乗り切るのは、『三つ目がとおる』という作品の中では異例のことです。
こういう話を用意したところに、手塚治虫の強いメッセージが感じられます。

それは、他人と違っていても、それを恥じたり、まわりに合わせたりすることはない……このエピソードを通じて、手塚治虫はそれをいいたかったんだと思うんです。

いよいよ手術がせまってきたとき、和登サンはいいます。

写楽クンは、手術なんかしなくたってがんばってるじゃない!!

バンソウコをとらずに
あんなすごい遺跡をたったひとりでほりあてたんですよ!!

かれはどんなじゃまにも悪口にもくじけずに
泣きながらほったのよ
そのえらさがおとうさんにはわからないの?


和登サンの涙ながらの訴えに、犬持博士も手術を断念します。

そして、それに応えるように、いつもは暴走する三つ目の写楽も、すべてが終わった後、バンソウコを貼って自らを封印するよう和登サンに促します。ふだんなら考えられないことです。


なんであれ、生まれもったものを否定されてはいけない……言葉でいえば陳腐ですが、手塚治虫は『三つ目がとおる』という漫画によってそれを見事に表現しています。

ほかの手塚作品にも、そういうメッセージは流れているように思います。
肌の色、髪の色、目の色……生まれ持ったものへの差別がまかりとおって見える昨今、このメッセージが大切なんじゃないかと思いました。