ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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ホルストはヒッピーの元祖……?

2019-09-21 20:44:45 | 日記
今日は9月21日。

組曲『惑星』で知られる作曲家グスターヴ・ホルストの命日です。

先日ジミヘンの記事を書きましたが……“命日”シリーズで、今回はこのホルストについて書きましょう。

 

『惑星』で知られるホルストさんですが、その経歴をみると、後の時代でいうニュー・エイジ的な傾向を持っていたようです。

ヒンドゥーの文化や哲学に興味を持ち、サンスクリット語を研究したりしたというのは、少なからぬロッカーがインドに引きつけられていたことと重ね合わせられるかもしれません。

その延長線上といえるかどうかわかりませんが占星術にも興味をもっていたようで、それが惑星につなっているわけです。

これもまた延長線上かわかりませんが、ウィキ情報によると、彼はウィリアム・モリスの主宰する社会主義者協会に参加していて、その合唱団の指揮者をやっていたこともあるそうです。

ウィリアム・モリスといえば、以前このブログで紹介したラファエル前派ゆかりの人物です。
機械文明を否定して、手作業の生産活動を通じて人間が真に人間らしくある社会を夢想したモリス……この発想とインド趣味とをつなぎあわせると、それこそ1960年代のヒッピーになるんじゃないかと思えます。ということは、ホルストという人は、元祖ヒッピーといえるのかもしれません。
『惑星』のなかでももっとも有名であろう「木星」が、歌詞つきでいろんなアーティストに歌われていたりするのも、彼のスピリッツが現代社会に訴えかけるメッセージを持っているからでしょうか。

ちなみに……

「木星」は、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』ゆかりの曲となっています。

これまで何度か紹介してきた、ホテル・カリフォルニアで鳴らされる鐘の音のメロディーの一つが、ジュピターでした。

というわけで、いつもながらの我田引水で、PRしておきます。

 

『ガメラ対大魔獣ジャイガー』

2019-09-20 16:36:31 | 映画
今回は、映画記事です。

映画カテゴリーでは最近ずっとゴジラシリーズの作品について書いていますが……

このあたりで、いったんわき道にそれて、ゴジラ以外の怪獣映画とゴジラ作品とを比較してみたいと思います。

怪獣映画というジャンルでゴジラとライバルといえば――まず、ガメラでしょう。
日活や東映も怪獣映画を作ったことがありましたが、ゴジラに比肩しうるような存在にはなりませんでした。ゴジラとの比較に耐えうるような怪獣といったら、ガメラしかありません。

そこで、『ゴジラ対ヘドラ』とほぼ同時期に公開された『ガメラ対大魔獣ジャイガー』という作品について書きましょう。

 

ガメラシリーズ第六弾にあたる、1970年の作。

これはゴジラ映画の新作がなかった年で、前年に『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』があり、翌年に『ゴジラ対ヘドラ』が公開されるという、その狭間にあたります。

また、1970年といえば、ちょうど大阪万博が開催された年でもあって、『ガメラ対ジャイガー』も万博を背景にした作品となっています。

万博に展示するために、「ウェスター島」なる島から古代人の石碑が運び出される。
すると、その石碑によって封印されていた大魔獣ジャイガーが目覚め、ガメラと戦う……というストーリーです。

ありがちな設定ではありますが、なかなかうまくできた話だと思います。

作中で提示される謎と、その真相についても、それなりに筋がとおっています。
あくまでも、“理論上ありうる”という程度のものではありますが……ゴジラ映画で散見される、たとえば『ゴジラ対メガロ』のような、いくらなんでもそれは雑すぎだろというものにはなっていません。

そのあたりは『ゴジラ対メガロ』について書くときにまた書こうと思いますが……比べてみると、どうもガメラのほうが子供向け映画としてきっちり作られている気がします。

見る側のある種の先入観のせいもあるでしょうが、ゴジラは、子供向けを志向していても、やはりどこか子供向けになり切れないところがあると思うんですね。
ゴジラの場合、“子どもの味方”路線を出そうとしても、いや俺むかしはあんなだったしなあ……みたいなことがついてまわります。
そこへいくとガメラは、なんのてらいもなく“子どもの味方”をやってるように見えるのです。

そして……そのスタンスの違いが、観客としての“子供”の心を読み切れるかどうかというところにつながっているとも思えます。

どうもゴジラは、相手が子供だと思ってなめてたんじゃないかという気もするのです。
『ゴジラ対メガロ』や、後の平成ゴジラシリーズ『ゴジラ対スペースゴジラ』なんかは、設定に関する説明の雑さをよく批判されますが、それがこの二作に対する低評価の原因となっているのは否定できないところでしょう。
作り手の側は「子供相手ならこんなもんでいいだろ」と思っていても、それを観た子供の側は子供なりに「そんなアホな」と思ってるのではないか。子供だましのつもりで、実は子供もだませてないということなんじゃないか、と……逆に、『ゴジラ対ヘドラ』のような強烈なメッセージ性が――町山智浩少年のように――子供相手にも響いていたのではないか。そんなふうにも思えます。

そのこととの対比でいうと、ガメラは子供だからとなめてかかっていないのです。

観客がツッコミを入れるであろうポイントに、先回りして登場人物がその意図を説明するようなせりふが随所にみられます。そうすることで、作品に一定の説得力を持たせているのです。

たとえば、主人公の少年二人が潜水艇でガメラの体内に入っていく場面。

気管の中を通ってるはずなのに、なぜ水に満たされているのか、おかしいじゃないか、と思います。
すると少年が「ガメラが首を海中に突っ込んだ状態で気を失ってしまったからだ」ときちんと説明するのです。そうすると、その先は水に満たされない空間になっていて、一応納得がいくのです。

ゴジラ作品では、そういう説明やエクスキューズをあまりしないと思うんですね。あるいは、したとしてもその説明があまりにもテキトーであったり……
子ども相手だからそんなに筋が通ってなくてもいいだろ、ぐらいの感覚になってしまってるように思えます。

『ガメラ対ジャイガー』では、そういう理屈的なところもきっちり練られています。
最初にも書いた作中で提示される謎が、その最たるものでしょう。それは、古代人の作った石像がなぜ怪獣を封印していたのか……というものです。この謎について当初ある仮説が示されますが、後半にそれを覆すあらたな真相が明かされます。
ここが、秀逸です。
ネタバレになるので詳細は書きませんが、うまくできているし、科学的にも一応納得のいく仕掛けで、感心させられました。

対するゴジラ作品では、どうか。
せいぜい、当初示される仮説レベルの説明しかしていないような気がするんです。子ども相手だからということで、それぐらいでいいだろうと妥協しているようにみえるんです。

そういう点で、『ガメラ対ジャイガー』はなかなかよくできていると感じました。

ゴジラシリーズが子供向け路線に向かったのはガメラの影響もあるといわれますが……“子供向け映画”という点に関するかぎり、私はガメラの方に軍配をあげたいと思います。


Jimi Hendrix - Catfish Blues

2019-09-18 19:19:32 | 音楽批評

今回は、音楽記事です。

 

今日は918日ですが、これは何の日かというと……

 

ジミ・ヘンドリクスの命日なのです。

ということで、この天才的ギタリストについて書こうと思います。

 

ジミ・ヘンドリクス。

 

いうまでもなく、レジェンドギタリストです。それほど音楽に詳しくなくとも、誰しも名前ぐらいは聞いたことがあるんじゃないでしょうか。

 

アメリカ先住民の血を引く天才ギタリスト。中古屋で買った一本しか弦の張られていないギターで練習して身につけた表現力。ギターに火をつけ、あるいは歯を使って弾くという、アクロバティックなパフォーマンス……彼について語られる伝説は、枚挙にいとまがありません。

 

表舞台で活動していた期間はたったの四、五年にすぎませんが、そのわずかな間で伝説を作り上げました。

 

なかでも有名なのは、ウッドストックにおけるアメリカ国歌の演奏でしょう。

 

あの演奏は、ベトナム戦争に対する抗議の意を示したものと一般に解されています。

そういうところも、ジミヘンはロックしてました。彼はまさに、伝説であり、ロック界における不滅のアイコンなのです。

 

 

以前このブログでも書いたとおり、アニマルズのチャス・チャンドラーが彼を見出しました。

厳密にいえば、キース・リチャーズのガールフレンドですが……彼女から「すごいギタリストがいる」と紹介を受けたチャスは、ジミの圧倒的なパフォーマンスに打ちのめされ、彼をバックアップしていくのです。

 

それまでバックミュージシャンとして活動していたジミヘンは、こうして表舞台へ。

 

イギリスでは、ミッチ・ミッチェル、ノエル・レディングとともに、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスというバンドを結成。

エリック・クラプトンなどとの共演も果たします。かのクラプトンも、ジミヘンのギターの腕にはすっかり脱帽したといい、また、クラプトンと並んで“三大ギタリスト”の一人に数えられるジェフ・ベックも、ジミヘンのギターを聴いて廃業を考えたとか。三大ギタリストのもう一人であるジミー・ペイジも、クリーントーンに革命を起こしたギタリストしてジミヘンを高く評価しています。

 

ジミヘン本人は、自分のような黒人ギタリストがイギリスでうまくやっていけるんだろうかと不安を持っていたそうですが、それはむしろ逆でした。

 

イギリスにこそ、飛翔のチャンスはあったのです。

 

たしかに、黒人音楽に対して寛容であったアメリカ南部に比べて、イギリスのほうがブルースやロックンロールに対して冷淡でした。ジミー・ペイジのいうところでは、50年代ぐらいのイギリスにおいて、ロックンロールというのは口にするのもはばかられる言葉だったといいます。しかし――逆説的ではありますが――だからこそ、ロックンロールはとがった進化を遂げていました。大人たちが忌み嫌うからこそ、ロックンロールはキッズたちの心をとらえたのです。

 

この点についても、以前書きましたが、英米の違いがあったものと思えます。「どうしてこんな才能が埋もれているんだ」とチャスは思ったそうですが、つまりはアメリカがその才能を見出さなかったということなんでしょう。結局ジミヘンは、ブリティッシュ・インベイジョンの波に乗るようにして、イギリスから逆輸入されるかたちでアメリカに“進出”するのです。

 

この奇妙なねじれのために、現役で活動していた頃のジミヘンには「黒人が白人に媚びて音楽をやっている」という黒人側からの批判の目が常に向けられていました。そのことが、ワイルドなステーパフォーマンスとは裏腹に繊細なジミの内面をひどく傷つけていたようです。

 

しかしながら、アメリカでの活動は商業的に大成功し、ジミヘンはスターとなります。

 

そのクライマックスが、ウッドストックでした。

そのウッドストックで映像を、公式チャンネルから貼り付けておきましょう。曲は、Foxy Ladyです。

 

 

 

Jimi Hendrix - Live at Woodstock: An Inside Look

 

この動画には入っていませんが、トリをつとめたこのステージで、あのアメリカ国歌の演奏が。

はじめにも書いたとおり、爆弾の音のようなノイズで覆った演奏は、ベトナム戦争批判といわれています。


ただし、ジミヘン自身は軍隊経験も持つ反共主義者でした。

 

軍隊生活において彼は落下傘部隊に所属しており、パラシュート降下時に聞こえる風切り音から得たインスピレーションは、独特のギターサウンドに活かされているともいいます。

 

ただ、軍に入ったのは、車を盗んで逮捕され、2年間服役するか軍に入るかどっちか選べといわれて後者を選んだため。入隊のきっかけがそれであってみれば、軍での活動が決してまじめなものではなかったことは推して知るべしというところでしょう。任務の最中に居眠りしたり、特別任務についているはずの時間帯に自慰行為にふけっているところをとりおさえられたりしたために軍を追い出されたんだそうです。

 

それはともかく――

 

ウッドストックは大成功に終わりましたが、このピークは、またジミヘンにとって凋落のはじまりでもありました。

 

バンドメンバーとの確執もあり、薬物の影響もあって、パフォーマンスは精彩を欠くように。1970年に入ると、数曲やっただけでライブを中断してしまうということもありました。

 

92日のオランダのステージでは、たった2曲やっただけでステージを放棄。

 

そして、そのおよそ半月後の918日――ロンドンのサマルカンドホテルで、ジミはこの世を去りました。

 

薬物とアルコールのために、嘔吐物を喉に詰まらせて――というのが直接の死因ですが、これには他殺説もあります。

ジム・モリスンやカート・コバーンなど、若くして不慮の死を遂げたレジェンドロッカーにありがちなことではありますが……

ジミヘンの場合は、マイク・ジェフリーというマネージャーがその死に関与していたといいます。

この人はもともとアニマルズのマネージャーでしたが、チャス・チャンドラーとのつながりで、ジミヘンのマネージメントも手がけていました。当初はチャスと共同マネージャーのようなかたちだったようですが、あるときからマネージメントの独占権を手に入れ、それからジミヘンを支配するようになっていたといいます。CIAやイギリスのMI5、さらにマフィアともつながりを持っていたというこの人物は、ジミヘンにとって恐怖の対象となっていたようです。

ジミヘンとの関係が悪化すると、自作自演の誘拐事件を起こしたこともあり、また、ジミに多額の保険金をかけてもいました。つまりは、保険金殺人だというわけです。ミュージシャンとしての価値がもうないのなら、殺害して保険金を受け取ろうということでしょうか……ひどい話ですが、このへんを掘り下げていけば、ジミ・ヘンドリクス殺人事件みたいは話が書けるかもしれません。いや、あるいはすでにあるのか……?

 

 

ここで、タイトルに掲げたCatfish Blues について書いておきましょう。

 

Catfish Blues は、ブルースの名曲です。

 

ジミヘンのバージョンは、まさにそのままズバリBues というタイトルのアルバムに収録されてます。


 

このアルバムは、ジミヘンの音楽的故郷がブルースであることをはっきりと教えてくれる好盤といっていいでしょう。収録曲は、必ずしもジミヘンのオリジナルだけではなく、ブルースのスタンダートを含んでおり、Catfish Blues もその一つです。

 

catfish とは、ナマズのこと。

ナマズはミシシッピデルタあたりの郷土料理で、おそらくはそのことと関係があります。

 

深い海を泳ぐナマズになりたい……と歌う歌です。

 

ナマズは海にいないだろうという野暮なツッコミは入れないことにしましょう。

 

ブルースの歌詞は、スラング的な用法でダブルミーニングを持つ言葉を使ったりすることが多々あるといわれるので、ナマズにもひょっとしたら隠れた意味があるのではないかと思ってるんですが……少なくともいまのところ、私は見つけることができていません。やはり、郷土料理だからというほどのことなんでしょうか。

 

歌っているのは、釣りのターゲットとして狙われるナマズのように、女の子たちに追いかけられる存在……というようなことです。ブルースでよく出てくる“間男”というモチーフも登場します。

 

ところで……

 

この歌はまた、マディ・ウォーターズの Rollin' Stone のもとになった曲でもあります。

 

ということで、次回はマディ・ウォーターズのことを書こうと思います。

珍しく、予告での終了でした。



千葉停電復旧見込み遅れる地域で失望や不安の声

2019-09-16 16:18:25 | 時事


台風15号の影響で、いまだ千葉の広範囲で停電などのインフラ被害が復旧されずにいるようです。

それにしても、これはおかしな状況じゃないでしょうか。

経済学者のアマルティア・センが、非民主的な国家は災害に弱いというようなことをいっていたのを思い出しました。

メディアが報道しない、政府も民意を気にする必要がないから、災害にまともに対処しようとしない、結果として、非民主的な国家は災害に対して脆弱になる……そういうことでしょう。

なんだか、今の日本は“非民主化”が進んでもうそういう状況になってしまってるじゃないかと思えてきました。

内閣改造だとか、韓国のことがどうとかいっている状態ではないと思うんですが……

The Smiths - The Boy With The Thorn In His Side

2019-09-14 18:58:22 | 音楽批評

今回は、音楽記事です。

 

このカテゴリーでは、前々回からストーン・ローゼズ、プライマル・スクリームときましたが……その流れに沿って、The Smith について書きましょう。 


ストーンローゼズと並んで80年代UKロックの双璧をなすといわれるバンドが、スミスです。

 

この二つのバンドは同じマンチェスターの出身であり、人脈的にもつながるところがあります。

ローゼズ初期にドラムを叩いていたサイモン・ウォルステンクロフトという人がいるんですが、この人はスミスの前身となるバンドでもドラムを叩いていました。

 

また、ローゼズのベースで一時プライマル・スクリームに参加していたマニは、スミスのベーシストであるアンディ・ルークらとともに、Free Bass というベーシスト三人組のユニットをやっていたそうです(もう一人は、ニューオーダーのピーター・フック)。


 
私が気に入っているアルバム The Queen Is Dead です。
後述するスミスの二曲は、このアルバムに収録されています。

 

前回の記事では、ストーン・ローゼズのライバル的存在としてプライマル・スクリームを紹介しましたが、ローゼズのライバルという点では、プライマルよりもスミスのほうがよく知られているでしょう。細かくいえば活動時期にずれがありますが、しばしばこの二者は80年代UKロック二大バンドのように扱われます。ものの本によると、往時のマンチェスターでは街じゅうの人々がローゼズ派とスミス派にわかれていたのだとか。

 

私個人の感想としては、スミスはローゼズに比べてインテレクチュアルな要素が強いように思われます。

英詞を読んでみると、難しい単語が多く使われ、歴史や文学を題材にした部分も。その知性的な感じのゆえに、いくらかとっつきにくいところがあるかもしれません。

たとえば、Cemetery Gates という曲では次のように歌っています。

 

  キーツとイェーツは君の側

  ワイルドは僕の側

 

ここに出てくる名前は、イギリスの文学者です。

ジョン・キーツと、W.B.イエーツ、そして、オスカー・ワイルド。

ロマン派のキーツではなく、耽美的なワイルド……この感覚は、ボーカルであるモリッシーのパーソナリティをよく表しているように思えます。

 

そのモリッシーさんですが、最近地味に話題になってます。

 

まず、モリッシーを描いた映画が日本で公開されました。

まあ、これは残念ながら福岡では上映がないので私は観ることができずにいるんですが……

 

また、モリッシーがイギリスの右翼政党への支持を表明していて、その件で本国イギリスでは物議をかもしているというニュースもありました。

そっちにいってしまったか……という話です。 

私はそれほど熱心なスミスのリスナーではありませんが、このニュースはちょっとショックでした。
しかし、あらためてスミスの歌を思い起こしてみたら、さもありなんという話かもしれません。

もう一回り昔のパンク世代でいうとストラングラーズみたいな、唯美主義というか、そういう方向性でいくとこうなってしまうのか……とも思います。

 

このニュースや、先述の映画に関する情報を見聞きしていると、私はサイモン&ガーファンクルの I Am a Rock という歌を想起しました。

 

 

  僕は壁をたてた そして強固な砦を 

  誰も打ち破れないように

  友情なんて必要ない だって傷つくだけだから

  愛や笑顔は 僕が忌み嫌っているものさ

 

  愛を語ったりしないでくれ その話ならもう聞いたよ

  それは僕の記憶の中で眠りについている

  死に絶えた感情の眠りを妨げるつもりはない

  愛さなければ 泣くことだってなかったんだ

 

 

  僕には本がある 守ってくれる詩がある

  部屋のなかに隠れ 子宮のなかのように守られて

  僕は誰にも触れず 誰も僕に触れることはない

  僕は岩 僕は島

  岩は痛みを感じない

  島は泣いたりしない

 

 

こういう、もうヒッキーヒッキーシェイクな感じの歌です。

聞くところによるとポール・サイモンはあるとき「あの歌は失敗作だった」といってもう I Am a Rock を歌わなくなったんだそうですが……モリッシーという人は、こういう感じのままでここまできてしまったんじゃないかと思えます。

自分という固い殻のなかに閉じこもり、そこから世界を斜めにみているというか……

まあ、アーティスティックな姿勢というのは、そういうものかもしれませんが。

 

その感覚は、代表曲の一つである The Boy with the Thorn in His Sideによく表れているでしょう。

 

The Smiths - The Boy With The Thorn In His Side (Official Music Video)

 

  心の裡に棘をもつ少年

  憎しみの奥には

  愛への激しい欲求が横たわっている

 

 

この“内なる棘”をどこかで昇華しないと、極右政党を支持するみたいなことになってしまうんじゃないでしょうか。

「激しい欲求」と訳した部分は、原詞では murderous desire となっています。

直訳すると、殺人的な欲求……なるほど、オスカー・ワイルドっぽいです。おそらくモリッシーという人は、その殺人的な欲求が満たされることのない人生を送ってきたのではないか――そしてそれは、社会的に大きな成功をおさめながら、差別的、極右的な言動を繰り返したりする資産家の人たちも同じなのかもしれません。

世の中には、不幸になるように生まれついた人間がいる。
アートというのは、そこから生まれてくるものでもある、ということでしょう。まあ、それを表出するのはアートの世界のなかだけにしておいてもらいたいですが。