ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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推理作家から辺野古問題について提言

2019-09-13 21:57:35 | 時事

 

今から十日ほど前のことになりますが、推理作家協会に加盟する作家13人が、沖縄問題に関して声明を出しました。

 

正式には、「辺野古基地工事中断と沖縄県との誠意ある対話を要求する提言書」。

 

斯界の大御所・西村京太郎さんはじめ、近藤史恵さん、柳広司さん、深緑野分さんと錚々たる顔ぶれ。

 

今年の県民投票で投票者の72%が反対という結果が出たことについて、「投票の結果を無視し、工事を中断することなく、また対話にも応じない現政権の対応は異常」と、政府を強く批判しています。

 

よくぞいってくれたと思います。

 

賛同者には、私にとって『このミス』の先輩である佐藤青南さんや、深町秋生さん、乾緑郎さん、そして、私が世話になった評論家の千街晶之さんも名を連ねています。また、私にとって大学の先輩にあたる碧野圭さんも。頼もしいかぎりです。

 

このブログで何度か触れてきましたが、辺野古に本当に基地を作っていいのか。

 

環境面の問題だけでなく、軟弱地盤が指摘される辺野古に基地を作るのは、推進派のいう安全保障という観点からみても問題があるのではないか。

 

そして何より、幾たびもの選挙で示された沖縄の民意をどう考えるのか……

 

辺野古の問題は、単に沖縄だけの話でなく、地方と中央の関係というところに敷衍することもできるでしょう。

 

先日の台風15号でも、千葉県南部に大きな被害が出ていますが、政府が迅速に対応しているとはいいがたいでしょう。ツイッターなどでは、被害の惨状が当事者から発信されているにもかかわらず、対応は後手に回っています。

 

いったい政府は、本当に地方を大事にする気持ちがあるのか――こういうことはきちんと批判されなければならないでしょう。

その意味で、今回の声明に私も賛意を表したいと思います。

 

 

 

 

Primal Scream - Star

2019-09-12 16:05:38 | 音楽批評
Primal Scream - Star (Official Video)


今回は、音楽記事です。

 

このカテゴリーでは、前回ストーン・ローゼズについて書きました。

 

そこからのつながりで、今回はプライマル・スクリームの Star という曲を紹介しましょう。

 

プライマル・スクリームは、ローゼズにとってライバル的な存在でした。

また、ローゼズが活動を休止していた間、ベースのマニがプライマル・スクリームに参加していたという関係もあるのです(マニはその後、ローゼズ再結成に合流)。

 

プライマル・スクリームは、ジーザス&メリーチェインで一時期ドラムを叩いていたボビー・ギレスピーを中心とするグループ。

ポストパンク、セカンド・サマー・オブ・ラブの空気を呼吸し、レイヴシーンで活躍。さまざまに音楽性を変化させながら、現在にいたるまで活動を続けています。

 

 

そのプライマル・スクリームのVanishing Point というアルバムに、Star は収録されています。 

 

「権利のために立ち上がったすべての人々に捧げる」というこの歌は、プライマルらしいラディカリズムが表明された曲といえるでしょう。

曲中には、ローザ・パークス、キング牧師、マルコムXといった人たちの名前が出てきて、次のように歌われます。

  

  彼らは示してくれた

  僕たちには力があることを

  僕たちがどんな変化をもたらすことができるかを

  

  社会を変えるためには

  法律を変えなきゃならないんだ

  彼らの肉体は消えても

  その魂は生き続けている

 

 

このあたりは、以前このブログで紹介したU2の Pride と重なるメッセージかもしれません。

キング牧師を歌ったあの曲で、ボノは「彼らはあなたの命を奪ったが、魂を奪うことはできなかった」と歌っています。

ここに歌われる3人は、いずれも黒人の権利のために行動した人たちですが、彼らの行動は、実際に社会を変えました。理不尽な現実に対して行動しなければ、世の中は何も変わらない――そういうことメッセージでしょう。

 

そして、サビではこう歌われます。

 

  Every brother is a star.

  Every sister is a star.

 

このフレーズは、どうもいい訳が思いつきません。

どう訳しても、いっていることのニュアンスは伝わらないような……ただ、この原文から、いわんとしていることは十分に伝わると思います。

歌の最後の部分は、こんな感じです。

 

  夢見る者たち 反逆する魂 そして未来の日々のために

  勇敢で 強くあれ

  戦い続けろ

  混沌の中でも自分を見失うな

  

  イングランドの女王

  これほどのアナーキストはいない

  ある人にとっての“自由の戦士”は

  他の誰かにとってはテロリストなのさ

 

 

この歌一つとってもわかるように、プライマル・スクリームはかなり政治的にラディカルなところがあります。

そういうスタンスは、ストーン・ローゼズともつながるところがあるでしょう。ローゼズはいくらか微温的なところがありますが、プライマル・スクリームは過激な歌をいっぱい歌ってます。

 

たとえば、Swastika Eyes なんかはそれがはっきりしている曲の一つでしょう。

 

 


Swastika というのはナチの鉤十字のことですが、こういうかたちで資本主義社会を批判しているわけです。

 

私個人としては、ロッカーならこれぐらいやってほしいと思いますね。

こういう抵抗があるからこそ資本主義は人間のすべてを侵食できないのであって、そういう意味からも、ロックという反抗が必要なんだと思います。


9.11の教訓

2019-09-11 14:32:19 | 時事
今日は、9月11日。

2001年、アメリカ同時多発テロが起きた日です。
この日がくるたび、このブログではテロ及びそれ以降の社会について書いてきました。今年もそうしましょう。

今年のテーマは、現在のアフガニスタンです。

アフガン情勢をめぐっては、およそ一年にわたってアメリカとタリバン側で和平交渉が行われていましたが……この和平交渉は、もはや頓挫という状況のようです。

トランプ大統領は交渉の打ち切りを示唆し、タリバンは、アメリカへの攻撃を再開するとしています。

あの9.11から18年経って、この状況なのです。なにもよくなっていません。

これまでも書いてきましたが、結局、武力行使はなにも生み出しませんでした。

タリバン政権を倒すのは容易なことでしたが、その後に十年近くにわたって情勢不安が続き、タリバンはじわじわと勢力を盛り返してきました。

この教訓に学ぶ必要があります。

たとえば、イランについて。

アフガンもイランも、安定しているとはとうていいえない状態があります。そのうえ、もし今イランと戦端を開くということになったらどうなるか。
中東は、混とん状態に陥るでしょう。
これは、絶対に避けなければならない事態です。

最近、強硬派のボルトン大統領補佐官が解任されたということで、そのあたりはちょっと変わってくるかもしれませんが……

『ゴジラ対ヘドラ』に映し出された’70年代日本

2019-09-10 16:53:52 | 映画
今回は、映画記事です。

このカテゴリーでは、前回、ゴジラシリーズ記事の一環として『ゴジラ対ヘドラ』について書きました。

そこでも書いたように、映画評論家の町山智浩さんは、この映画に非常に大きな影響を受けています。
町山さんはWOWOWで映画の解説をされていて、YouTubeでその動画を見ることができるんですが、そのなかに『ゴジラ対ヘドラ』についてのものもあります。
今回は、前の記事の続編として、そこで町山さんが指摘している点について私なりの考えを書いてみようと思います。


町山さんは、『ゴジラ対ヘドラ』に強い衝撃を受けた理由として、「社会的メッセージ」を挙げています。
環境問題をテーマにしているという点がそうですね。
公害という当時のタイムリーな問題を取り扱い、そうすることによって、第一作ゴジラへの回帰を目指しているのです。
以前書いたように、ゴジラ作品は時代を映す鏡たることを宿命づけられていて、それがまさにこういうかたちであらわれているわけです。


そして、これは町山さんの指摘で気づかされたんですが……『ゴジラ対ヘドラ』に、もう一つまた別の観点から当時の日本の社会状況を映し出しているとみなせる場面がありました。

それは、“学生運動の挫折”と、そこからくる“シラケ”ムードです。
町山さんによれば、この映画には学生運動敗北の記憶が反映されてもいるのです。


物語のクライマックスとなる、富士の裾野の決闘にいたる場面。
ヘドラの硫酸ミストによる被害が広がる中、なぜだかここで100万人ゴーゴーをやろうという話になります。
ところが、実際当日になってみると、100人ぐらいしか人が集まらないのです。
100万人といっていたけれど、実際には100人しか集まらない……ここに、学生運動の挫折の残響があると町山さんは読み解きます。

それは、俗に「政治の季節」から「経済の季節」へと呼ばれる変化でしょう。

1960年代は、世界的に学生を中心とした学生運動が活発化しており、68年~69年ごろは、まさにそのクライマックスの時期でした。

たとえばローゼズの記事で言及したパリの5月革命があり、日本では各地で大学闘争がありました。
しかしそれらの運動は、大局的に見て、失敗に終わった。
日本でいえば、安田講堂をクライマックスにして学生運動は終焉した。過激派は暴走してよど号ハイジャック事件を起こし、非常に後味の悪いものになってしまった。ゆえに、運動に参加していた学生たちも、その過去を切り捨てなければならなかった……

藤子F不二雄先生が漫画で書いた言葉を借りれば「青春時代のはしかのようなもの」として否定しなければならなくなってしまったということでしょう。
これが、70年代の「シラケ」ムードと呼ばれる空気を醸成していたようです。その時代を体感していない自分には想像するよりほかありませんが……アングラ酒場で酒を飲む行夫(主人公の兄)が妙にやさぐれているのも、そういうことなのかもしれません。

そうした変化は、程度の差はあれ、アメリカやヨーロッパでも同様で、このブログで何度か書いてきたロック界の変化もそれを背景にしているように思われます。

そうした時代を、このブログで何度か名前が出てきたジャクソン・ブラウンは、The Pretender という歌に歌いました。
pretender というのは、「~のふりをする」という意味のpretend をする人ということですが、この歌は、社会運動が挫折に終わった後、抜け殻のようになって生きていく人の姿を描いたものと一般的に解釈されます。
社会運動などなかったかのような「ふりをして」、毎朝起きて仕事にいく……そんな生活です。
そんな苦い挫折が、『ゴジラ対ヘドラ』にも反映されていると町山さんはいうのです。

たしかに、そうかもしれません。
そういう視点でみれば、ヘドラに立ち向かっていく若者たちがバタバタと倒れる姿は、強大な力の前に押しつぶされて学生運動が瓦解していくさまと重ね合わせることもできるのかもしれません。ヘドラにたいまつを投げるのは、機動隊に火炎瓶を投げるようなものともいえるでしょう。巨大な化け物に対してそんなことをしても、勝負になるわけがない。いちご白書的な話です。

しかし……私は、ここに描かれているのは挫折だけではないとも思います。

実際ゴーゴーが行われる前に、「100万人運動」というスローガンが書いてあったのを「100万人ゴーゴー」に書き換えるというくだりがあるんですが……私はここに、60年代から70年代への変化を見ます。

それはすなわち、正面から権力に抗するのではなく、権力が規定する「正当」から逸脱することで抵抗するパンクへの変化です。

60年代ロックの表舞台において思想的にも音楽的にもパンクに最も近かったのはフーだと思いますが、彼らのクレバーな抵抗のスタイルが、70年代につながっていくのです。
「100万人運動」を「100万人ゴーゴー」に書き換えるというのは、ウッドストックのピート・タウンゼントがアビー・ホフマンをギターでぶん殴ったというエピソードに通ずるものがあるんじゃないでしょうか。
そうすると、ここでも『ゴジラ対ヘドラ』は時代を鋭く切り取っているといえるのかもしれません。

それにしても……『ゴジラ対ヘドラ』は東宝チャンピオン祭りという子供向け企画で上映された映画の一つなんですが、よく子供向け映画でこんなのを作ったなと思わされます。

もっとも、その点に関しては、むしろ子供向け映画だからこそできたという側面もあるといわれます。

逆説的ですが……
正面から公害問題を扱う映画だったら、ここまではやれなかったはず。その当時のゴジラの感覚からすると、どのみちそんなに注目されることはないだろうという読みがあったからこそ、ここまで大胆にやれたというわけです。もっといえば、「所詮は子ども向けの怪獣映画」みたいな意識があったがために、内なる検閲とでも呼ぶべき作用が働かなかったというか……

ともかくも、当時の社会状況や映画を取り巻く環境、落ち目の特撮怪獣映画という状況の中で、エアポケットというか、亀裂のようなものができて、その諸々の偶然が重なりあってできた隙間からこのカルトムービーが出てきたといえるかもしれません。

斬新な作品というのは、しばしばそういうところから出てくるんですね。

その来歴からも、『ゴジラ対ヘドラ』は――肯定的に評価するかどうかは別としても――“奇跡の一作”としてゴジラ史上他に例をみない異様な光彩をはなっているのです。

『昭和天皇は何を語ったのか~初公開“拝謁記”に迫る~』

2019-09-08 16:17:55 | 日記
NHKのETV特集『昭和天皇は何を語ったのか~初公開“拝謁記”に迫る~』を観ました。

初代宮内庁長官である田島道治が、1952年の独立記念式典で読まれる昭和天皇の「おことば」を練り上げていくまでの過程を描く、なかなか力の入ったドキュメントでした。

太平洋戦争についての「反省」を盛り込むかどうかということがポイントになっていましたが……ここは難しいところですね。

対米開戦に至るまでの経緯に触れて反省ということを盛り込めば、おさまっていた天皇退位論が再燃する可能性がある――当時の吉田茂首相がそう指摘します。その意を受けた田島は、“反省”のくだりを削除する方向に。

新憲法下では天皇は象徴なのだから、内閣の意に沿うべき。経済状態も良好なときだから、過去の反省ではなく前向きな内容にするべき……といったことがその根拠とされています。
しかし、これはどうなんでしょう。
戦後は象徴天皇であるにせよ、戦前は主権者であったわけで、そのことに関する「反省」を述べることが果たして“政治向き”の話として総理大臣の意に従わなければならないものなのか……
そして、経済状態が良いというのは、いうまでもなく朝鮮戦争特需によるもの。
好景気に沸く人々の映像が紹介されていましたが、それが隣の国で起きている戦争によるものだということを考えると、ちょっと釈然としないものもあります。

“反省”を盛り込まなかったという判断の是非はおそらく専門家の間でも意見がわかれるところなんでしょうが……
このドキュメントで私がもっとも注目したのは、張作霖爆殺事件に関するところです。
このとき、しっかりとした処分をしておけば、後の満州事変は起きなかったんではないか……という。
これは重要なポイントだと思います。
やりとりのなかでは「下克上」と表現されていましたが、軍部が上層部のいうことを聞かずに勝手に暴走し、止められなくなるというこの状態が、結局は「事志と違」う戦争というところまで行きつくわけです。

この構図は、関東軍のことだけではなく、彼らと連動して動いていた日本国内の勢力についてもいえることでしょう。

三月事件、十月事件、五・一五事件、士官学校事件……これらの事件で、それを起こした者たちに対するきっちりとした処罰が行われなかった。そのことが、どんどん彼らの行動をエスカレートさせ、もう誰にも止められない状況を作ってしまいました。

特に、三月事件が重要でした。

このときにしっかりとした処罰を行なっていれば、その後の十月事件はもちろんのこと、五・一五事件や二・二六事件、満州事変さえも起きずにすんでいたのではないかと思うんです。
しかし、三月事件は、クーデター計画であるにもかかわらず、いずれも適切な処断がなされずうやむやに終わってしまいました。
軍の内部のかなり上の方にまで関係者がいたため、処罰すれば軍全体に問題が広がってしまうことをおそれて、うやむやに終わらせたといわれています。
この計画については、陸軍大臣までが事前に知っていたといいます。ゆえに、責任を問えば陸軍大臣にまでそれが及ぶ。だから、何もなかったことにしてしまおうというわけです。組織の末端から上にいたるまでの全体の問題であるにもかかわらず――いや、であるがゆえに誰も責任をとらないという驚くべき事態です。
それが結果として、クーデターのようなことを計画しても大丈夫、だというメッセージを彼らに与えてしまいます。むしろ上層部を巻き込んで大事にすればするほど、誰もそれを止められなくなる。これが、後に同種の事件が頻発することにつながっていきました。
今回の『拝謁記』のドキュメントにも登場した木戸幸一は、この事件を「軍の推進力が国内改革を目指して動き出した第一歩」とし、「下克上の顕著な現はれ」と評しています。

体制の内部から国家の根幹を揺るがすような動きがあったら、芽のうちに摘みとっておかなければならないということでしょう。

ところがその点に関して、当時の日本の権力は、まったくトンチンカンでした。
実際に革命を起こす力など持っていない共産党なんかを弾圧する一方で、体制の内部に潜んでいる本当の脅威はほとんど野放しにされていたのです。
その結果、日本は破滅に突き進んでいってしまいました。
その歴史を鑑みれば、やはり「おことば」のなかに“反省”を入れていたほうがよかったんじゃないかと思わずにいられません。
「俺らのやってることをとがめだてしたら組織もお前自身も大変なことになるぞ」といって、権力者が自分たちのトンデモ行動をうやむやにしてしまう戦前の無責任体質が、どうもこの国にはまだしぶとく根付いているようなので……