50台の前半くらいまでだったろうか、スキーが自分のスポーツの中で一番得意だったから、雪の来るのを待ちかねていた。
スキーを諦めたのは定年間もなくだった。一人で行くのが億劫になった。その上詩吟の教室が一気に大きくなり、週四日間、午後詩吟の教室に行かなければならず、スキーどころでなくなったのです。
生まれが上川で、スキーの盛んな町でした。小学校時代は夢中になっていました。しかし、戦時中になってからは、スキーを手に入れることも難しくなり、再びのめりこんだのは、沼田高校に奉職してからだった。
思い出すと懐かしい。スキーも単板、一本の木を削って作られたスキー、国内物では、水楢が最高で、外国物ではヒッコリー、それが憧れのスキーだった。勿論私などには縁がなかった。その後、合板のスキーが出始めてから急速にスキーの道具が変化していった。スキーは強化グラスファイバー製、ブーツも皮製からプラスチックになった。
美唄東高校に勤務していた昭和42年にスキー検定1級を取得し、仲間も多くなり楽しみました。札幌に来て、スキー部の顧問をやったりしましたが、残念ながら競技スキー上がりでないので,指導は出来ず、名前だけの付き添い顧問で終りましたが、大会で随分あちらこちらのスキー場に遠征し楽しませていただきました。
雪を見ると、当時のことが懐かしくよみがえります。手稲山も随分滑りました。
雪で浮かび上がるスキーコースの斜面を眺めては、あの元気に滑っていたときの感触を身体で思い出します。
瘤の斜面をすべる感覚、ウエデルンで飛ばす爽快感、スキーは捨てないで有るけれど、二度と味わうことは出来ないのだ・・・。