手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

他界した友・・・思い出

2010-01-12 19:05:02 | 身辺雑記

 現役時代の親しかった同僚で、すでに他界した人を思い出してみている。沼田時代の仲間では窪田先生、美唄東時代では、船場先生、足羽先生、井上先生、そして西陵では、萩原先生、佐藤健太郎先生が思い出される

 沼田の窪田先生は退職して厚別に家を建てられ、それから幾らも立たないうちになくなられた。後から知らされてお宅までお線香を上げにいってきました。

 私より2歳くらい年上でしたが、同じ年に沼田に務めることになった同僚で、私の転勤する前の年、十年間務めた褒美のようにして道外旅行があたり、二人で九州と伊豆を回ってきた相棒でした。それが、本当に珍しい病気、筋萎縮症という病気で、大変苦しんで亡くなったと聞きました。

 美唄の同僚船場先生は、とても素敵な先生で、美唄から室蘭栄に転勤しました。そのころ、一度出張で室蘭に行くことがあり、一晩虎杖浜の温泉に泊まり、マージャンを楽しんだことがありました。その後札幌啓成に転勤になってきて、私も札幌に来ていましたから、そのうちに懐旧を暖めたいと思っているうちに突然の訃報が入って驚きました。足羽先生は私より先に美唄を出て札幌北に転出していました。私より三歳くらい若かったと思います。同じ国語の先生で、とても切れる方でクリスチャンでした。それが、組合活動の中で信仰から離れているところがありました。訃報に接し教会でのお別れ会に出て知ったのですが、癌になり、その闘病の中でクリスチャンに復帰してお亡くなりになったと聞きました。

 井上先生は私より三歳くらい上だったと思います。マージャンはめっぽう強く、また一時期組合活動のリーダーのような活動をした人でした。それが指導主事となり、苫小牧南の校長で退職されたのでした。美唄東の出世頭になったといってよかったのでしょう。それが、退職してまもなく癌で倒れなくなってしまいました。本当に行動力もあり、人間的に温かみもあるいい先生でした。

 札幌西陵の仲間では、同じ国語の萩原、佐藤の両先生がなくなりました。萩原先生は、剣道の達人で、剣道部のある女子に二刀流を指南し、全国大会に連れて行ったりしていました。しかし、お酒飲みで、肝臓を悪くしていたのです。医者からお酒を禁じられても、しばらくして、検査値が良くなるとまた飲みはじめる、そんな繰り返しの中でなくなってしまいました。佐藤先生は健ちゃんと愛称で呼ばれる人気のある先生でした。私より大分若かったはずです。やはりお酒が強く、マージャンが強い、いい仲間だったのですが、突然なくなってしまいました。

 私より一年先に美唄南から西陵にきていた影山先生は、同じ手稲に家を建てられていて、いい飲み仲間だったのですが、教頭さんになって出て、佐呂間高校の校長さんになったのに、途中で体調を崩し、退職して戻ってこられ、数年後になくなってしまった。

 こんなことを思い出して見ると、どうやら私の友達は、飲み仲間、マージャン仲間が多いようです。どの人もまた一緒に遊びたい仲間です。残念です。
コメント
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