今日は旧暦8月15日、中秋の名月の輝く日です。先ほど庭先に出て名月を眺めました。これで虫の声を聞けたら最高なのですが残念ながら我が家の庭から虫の声を聴くことはできません。花畑には結構な草が?茂っているのですが虫は姿を現しません。
蘇軾の「中秋の月」転句、結句を題に取り上げました。この時期になると思いだされるのです。「名月明年何れの処にか看ん」この素晴らしい月を来年は何処で見ることになるのだろうというのですが転句の冒頭「此の生」との関係からすると言外に「見ることはできないのかもしれない」という思いがにじむのです。それだけに単純に名月を楽しんでいる詩と言い切ることのできない重さを感じます。
日本では特に江戸時代には隅田川に舟を浮かべて月見をするのが風流であったようです。舟の中で月見酒を楽しむこれは月に酔うのですね。「夜墨水を下る」「月夜舟行」などはとても楽しい詩です。
芭蕉は「名月や池を巡りて夜もすがら」と読んでいますが、月を少しでも長く眺めていたかったのでしょうか。一晩中見ても見飽きないくらいに感じているのかもしれません。また池の水面に浮かぶ月影の美しさに魅せられていたのかもしれません。
百人一首に「・・雲間よりもれいずる月の影のさやけさ」というのがありますが、雲から顔を出す月を待っていて、雲が切れた瞬間顔を出す月影はえも言えぬ美しさなのだと思います。</fontt>
蘇軾の「中秋の月」転句、結句を題に取り上げました。この時期になると思いだされるのです。「名月明年何れの処にか看ん」この素晴らしい月を来年は何処で見ることになるのだろうというのですが転句の冒頭「此の生」との関係からすると言外に「見ることはできないのかもしれない」という思いがにじむのです。それだけに単純に名月を楽しんでいる詩と言い切ることのできない重さを感じます。
日本では特に江戸時代には隅田川に舟を浮かべて月見をするのが風流であったようです。舟の中で月見酒を楽しむこれは月に酔うのですね。「夜墨水を下る」「月夜舟行」などはとても楽しい詩です。
芭蕉は「名月や池を巡りて夜もすがら」と読んでいますが、月を少しでも長く眺めていたかったのでしょうか。一晩中見ても見飽きないくらいに感じているのかもしれません。また池の水面に浮かぶ月影の美しさに魅せられていたのかもしれません。
百人一首に「・・雲間よりもれいずる月の影のさやけさ」というのがありますが、雲から顔を出す月を待っていて、雲が切れた瞬間顔を出す月影はえも言えぬ美しさなのだと思います。</fontt>