スポーツで日本人選手の活躍に一喜一憂するのは、まさに「自我」であり、「私」である。「日本人」という想念に同一化した「自我」が喜んだり、悲しんだりしているのだ。そのことの愚かしさに気づくことは比較的容易かもしれない。
しかし、問題が宗教的なアイデンティティにからんでくると、かなり深刻になる。「イスラム教徒」、「キリスト教徒」、「仏教徒」、「シク教徒」等々としての信念やアイデンティティを否定されたり、自尊心を傷つけられたりすれば、その怒りは暴力性を伴うかもしれない。現に集団規模での対立は戦争にまで行きつく。その根っこには「○○教徒」という想念と「自我」との同一化がある。
「日本人」と「自我」とを同一化して一喜一憂することの愚かしさは認識しても、「父」としての怒り、「上司」としての怒りなどの愚かしさには気づきにくい。しかし、そこには同じ愚かしい同一化がある。「父」としての、「上司」としての役割や立場が傷ついて怒るのだ。
ところで「自我」というものは、「よき父」や「すぐれた上司」や「熱心な修行者」や「くたびれた中年」等々、様々な「自己イメージ」の集合に過ぎないから、結局はそれらのイメージとの同一化の集合に過ぎないと言い換えることもできる。
「日本人」として一喜一憂するのが愚かしいのと同じ程度に「父」として、「上司」として、「夫」として怒ったり、傷ついたりするのも愚かしいのだ。
総じて「私」という想念は、それを支える実体としての根拠が何もない。限りあるいのちが滅びれば、想念としての「私」も消える。その実体のない「私」が中心になって、思考し、知覚し、泣き笑いする。実体のない「私」が、見て、聞いて、感じて、思考している。その「私」にサティし続けること。
しかし、問題が宗教的なアイデンティティにからんでくると、かなり深刻になる。「イスラム教徒」、「キリスト教徒」、「仏教徒」、「シク教徒」等々としての信念やアイデンティティを否定されたり、自尊心を傷つけられたりすれば、その怒りは暴力性を伴うかもしれない。現に集団規模での対立は戦争にまで行きつく。その根っこには「○○教徒」という想念と「自我」との同一化がある。
「日本人」と「自我」とを同一化して一喜一憂することの愚かしさは認識しても、「父」としての怒り、「上司」としての怒りなどの愚かしさには気づきにくい。しかし、そこには同じ愚かしい同一化がある。「父」としての、「上司」としての役割や立場が傷ついて怒るのだ。
ところで「自我」というものは、「よき父」や「すぐれた上司」や「熱心な修行者」や「くたびれた中年」等々、様々な「自己イメージ」の集合に過ぎないから、結局はそれらのイメージとの同一化の集合に過ぎないと言い換えることもできる。
「日本人」として一喜一憂するのが愚かしいのと同じ程度に「父」として、「上司」として、「夫」として怒ったり、傷ついたりするのも愚かしいのだ。
総じて「私」という想念は、それを支える実体としての根拠が何もない。限りあるいのちが滅びれば、想念としての「私」も消える。その実体のない「私」が中心になって、思考し、知覚し、泣き笑いする。実体のない「私」が、見て、聞いて、感じて、思考している。その「私」にサティし続けること。