瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「私」にサテ ィし続ける

2006年11月22日 | 瞑想日記
スポーツで日本人選手の活躍に一喜一憂するのは、まさに「自我」であり、「私」である。「日本人」という想念に同一化した「自我」が喜んだり、悲しんだりしているのだ。そのことの愚かしさに気づくことは比較的容易かもしれない。

しかし、問題が宗教的なアイデンティティにからんでくると、かなり深刻になる。「イスラム教徒」、「キリスト教徒」、「仏教徒」、「シク教徒」等々としての信念やアイデンティティを否定されたり、自尊心を傷つけられたりすれば、その怒りは暴力性を伴うかもしれない。現に集団規模での対立は戦争にまで行きつく。その根っこには「○○教徒」という想念と「自我」との同一化がある。

「日本人」と「自我」とを同一化して一喜一憂することの愚かしさは認識しても、「父」としての怒り、「上司」としての怒りなどの愚かしさには気づきにくい。しかし、そこには同じ愚かしい同一化がある。「父」としての、「上司」としての役割や立場が傷ついて怒るのだ。

ところで「自我」というものは、「よき父」や「すぐれた上司」や「熱心な修行者」や「くたびれた中年」等々、様々な「自己イメージ」の集合に過ぎないから、結局はそれらのイメージとの同一化の集合に過ぎないと言い換えることもできる。

「日本人」として一喜一憂するのが愚かしいのと同じ程度に「父」として、「上司」として、「夫」として怒ったり、傷ついたりするのも愚かしいのだ。

総じて「私」という想念は、それを支える実体としての根拠が何もない。限りあるいのちが滅びれば、想念としての「私」も消える。その実体のない「私」が中心になって、思考し、知覚し、泣き笑いする。実体のない「私」が、見て、聞いて、感じて、思考している。その「私」にサティし続けること。
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考えたい自分へのサティ

2006年11月21日 | 瞑想日記
職場までの歩行中のサティが、仕事に入ってからのサティによい影響を与える。そして帰り、駅までまたサティ。ただし、途中まで、先ほどの電話でのやりとりに影響されて想念が多かった。

想念が多いということは、考えたい欲求があるからだ。その「考えたい気持ち」にサティしたことは、これまであまりなかった。この数日、「考えたい」欲求にもサティを入れるようにしている。すると、気持ちが楽になる。想念に遊んでしまう自分を否定的に捉えることが少なくなり、受容できるようになる。無理に想念を押し殺すのではなく、そういう自分をサティすると、やがて自然に今ここへのサティに移行するようだ。

私にとってのポイントは、考えたい欲求が湧きあがっているその時を捉えて、「ああ、考えたい自分がいるんだな」と、そんな自分に気づいた喜びとともに心中でつぶやくことだ。

今日は帰宅時間が少し早かったので、別の駅で降りて自宅まで20分ほど歩く。その間のサティも楽しかった。

今しがた入浴した。湯船の中ではほんとうにリラックスし、熱い湯の中で様々な感覚が押し寄せてくる。それらに細やかにサティしていく。「気持ちよい眠さ」にサティするときの気持ちよさ。これもまた充実した一時だ。

もう一つ大切なことを書きたかったのだが、一日一テーマの方がよさそうだ。明日にしよう。
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じわりじわりと

2006年11月20日 | 瞑想日記
やはり、じわりじわりと日常の中のサティが増えているようだ。ドアの開け閉め、スイッチを押す、水道の蛇口をひねる‥‥そういう指先や手による単純な動作にはサティをする、と心に決めておくと、そういう動作でサティを思い出し、そこからサティが継続していくことは、やはり多くなる。

動作へのサティが多くなれば、それと連動して想念・思考へのサティも多くなる。動作中に想念に移ればそちらにサティが入ることが多くなるからだ。

今日は行事があって来客への対応などかなり忙しく動いていたが、ふと気づくと動作にサティが入り、さまざまな想念にもサティが入っていた。想念に関しては、それらと「自我」との関係をそのつど意識することが多かった。

想念・思考が生起するたびに、それに気づき、それが「自我」のどのような欲求から生じてくるのかを確認する。それをできる限りやっていきたいと思う。今は、このまま続けていけば、かなりできそうだと感じる。

一瞬一瞬働いている「自我」(エゴ)に限りなく気づいていたい。「自我」を実体として支える根拠などは何もないのだということが頭ではわかっていても、実際には強烈に「自我」に囚われ、優劣意識に一喜一憂し、人の評価を気にしている。そこから出てくる想念や思考にしっかりとサティしていきたい。

もちろん一日の中では、ここに書き切れない様々なことを感じ、考え、気づき、そして変化している。その中のわずかな一端を切り取って文章にする。それが、今日の自分を表現するのにどれだけ適切だったのかは、わからない。かなりのアンバランスや歪みがあるだろう。しかし表現することで確実に自覚化され定着していくこともある。

最近、こうして書くことが以前にもまして大切な作業になっている。
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夢も想念も根元は同じ

2006年11月18日 | 瞑想日記
朝、瞑想30分。思考は少し多かった。気がついたときには、想念の団子が4個も5個も連なっていた。最初の想念が何だったか、どうやって今の想念にたどり着いたのかとっさには思い出せない。結局思い出せないときもある。いくつかの想念が連鎖したのだという記憶だけが残る。

瞑想中でもこうなのだ。日常生活の中では、意識して思い出そうとしなければ、いや思いだそうとしても思い出せない無数の想念の連なりによって、心は動いていく。無自覚のうちに浮かんでは消えていくという意味では、日常の中の想念も、結局は夢と同じだ。私たちの日中の意識も、無意識に突き動かされて表層に浮かんでは消える想念の連鎖によって占領されている。

気持ちのよい朝の光のなかで洗濯物を干す。手の動作や、洗濯物に反射する光にサティし続ける。思考が出れば、そのつどサティをし続ける。それだけで充分に満足であった。

夕方30分ほど、サティをしながら荒川の土手を歩く。風呂に入っている間のサティは、今日は5割程度か。入浴中というは、リラックスしてぼけっとして気ままな想念に耽るのにもってこいだから、意外とサティは難しい。
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入浴中のサティ

2006年11月16日 | 瞑想日記
朝、職場へ向かう途中のサティは好調、その勢いで職場についてからも、仕事に関係する思考を必要としない立ち居振る舞いでのサティは、途切れ途切れに続く。しかし午後は、仕事の疲れが出てか、サティはほとんど出来ない。最近は、このパターンが多い。帰りの歩きの間も今日はほぼ、浮かんでは消える想念に任せていた。その方がずっと楽という感じだ。

しかし帰宅後、昨日の日記にいただいた二つのメッセージを読んで、俄然意欲が湧いた。まずは入浴中のサティに集中しようと思った。これまで入浴中のサティは、ほとんどやっていなかった。入浴中くらいのんびり想念の流れにまかせたい? しかしこの時間こそじっくりサティが出来る。昨日そう思った。

実際やって見ると、ついつい想念にまき込まれていく。サティできたのは入浴中のせいぜい2割程度か。しかし、2割を5割に、やがて9割にするのは、それほど難しいことではないと感じる。
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