私の住んでいる街にはいくつかの商店街があって、中には多くの居酒屋が集積してよくテレビなどでも取り上げられる名の知れたところもあるのだが、私が好んで歩くのは家からほど近いアーケードのある商店街である。
雨降りの日に傘をささずに歩けるというのも理由の一つだが、狭くもなく、広すぎることもない道の両側に並ぶ店の一つひとつを眺めながら、昼時の賑わいや夕方の雑多な人波から発せられる喧噪に包まれながらぼんやりと歩みを進めるひとときは不思議に心慰められるような気がするのだ。
しかし、それ以上に私の好きなのが、朝の9時過ぎの時間帯である。モーニングサービスをやっているカフェなどを除けば、まだ多くの店は10時の開店に向けた準備に余念がなく、店舗前に停車したトラックから荷物を下ろして搬入したり、店の奥から台車に載せた商品を運び出し、少しでも人目につく場所に並べ直したりと、誰もがかいがいしく動き回っている。それらの動きから生まれる様々な音には、どこか人の心を鼓舞するような躍動感があるのだ。
そうした商店街の開店前準備の様子を見ながらふと思ったのだが、これは劇場での公演で開演時間の迫るなか、俳優も裏方スタッフも一丸となってあわただしく客を迎え入れる準備にいそしむ光景とどこか似通っているのではないだろうか。
そう思うと、商店の一軒一軒は立ち並ぶ芝居小屋のようであり、そこで声を張り上げて客を呼び込む店員たちはさながら木戸芸者あるいは千両役者といったところかとも思えてくるのだ。商店街はブロードウェーやウェストエンドの劇場街であり、時には花道となってそこをそぞろ歩く人々をより華やいだ気分にさせるのである。
それはまあただの妄想に過ぎないとして、商店街の姿をよくよく見れば当然ながらそこには日々変化のあとがくっきりと見て取れる。
それがいかに魅力的で気持ちを浮き立たせてくれるような光景であろうと、いつまでも変わらずそこにあるということはあり得ないのだ。それどころか、ふとまばたきをした次の瞬間に何かが変わってしまっているということさえあり得ることなのだ。
そう思ってあらためて商店街の様子を見てみると、そこには時々刻々変化しつつある人々の営みが連綿とつながっているのだと感じさせられる。
私自身もよく通い、当たり前にそこにあると思い込んでいたカフェがいつの間にか閉店してしまい、次の業態に合った内装にするための工事が行われていたり、老舗の風情ある日本料理店だった場所がラーメンのチェーン店になっていたりする。しかもそうした様々なチェーン店がこのアーケード街のわずか200メートル足らずの間に何店舗も軒を連ねているのだ。
そればかりではない。なぜかこの商店街にはメガネ屋が5,6店舗は点在しているし、整体・ストレッチの専門店が同じく数店舗集積している。それだけニーズがあるということなのだろう。
一方で昔ながらの生鮮食品を扱う店は僅少なものになりつつある。それは至近な場所にスーパーマーケットがいくつも出来たという事情もあるのだろうが、そのスーパーだって昨今の消費需要の低迷の中で閉店あるいは縮小を余儀なくされている。
のどかな光景と思っていた商店街はそうした社会経済情勢や人々の需要の変化の波に洗われながら日々姿を変えているのである。
当然ながらそこに働く人々も、商店街を行き交う人々の姿もとどまることなく変化している。まさに変化こそが常態なのである。
村上春樹の長編小説「街とその不確かな壁」のあとがきの最後にこんな言葉が書かれている。
「……真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか」
この言葉にはそう簡単に首肯することのためらわれる部分もあるように感じてしまうのだが、たしかにそうした変化の中にこそドラマや物語が生成される源が潜んでいるのは確かなことであるようだ。
雨降りの日に傘をささずに歩けるというのも理由の一つだが、狭くもなく、広すぎることもない道の両側に並ぶ店の一つひとつを眺めながら、昼時の賑わいや夕方の雑多な人波から発せられる喧噪に包まれながらぼんやりと歩みを進めるひとときは不思議に心慰められるような気がするのだ。
しかし、それ以上に私の好きなのが、朝の9時過ぎの時間帯である。モーニングサービスをやっているカフェなどを除けば、まだ多くの店は10時の開店に向けた準備に余念がなく、店舗前に停車したトラックから荷物を下ろして搬入したり、店の奥から台車に載せた商品を運び出し、少しでも人目につく場所に並べ直したりと、誰もがかいがいしく動き回っている。それらの動きから生まれる様々な音には、どこか人の心を鼓舞するような躍動感があるのだ。
そうした商店街の開店前準備の様子を見ながらふと思ったのだが、これは劇場での公演で開演時間の迫るなか、俳優も裏方スタッフも一丸となってあわただしく客を迎え入れる準備にいそしむ光景とどこか似通っているのではないだろうか。
そう思うと、商店の一軒一軒は立ち並ぶ芝居小屋のようであり、そこで声を張り上げて客を呼び込む店員たちはさながら木戸芸者あるいは千両役者といったところかとも思えてくるのだ。商店街はブロードウェーやウェストエンドの劇場街であり、時には花道となってそこをそぞろ歩く人々をより華やいだ気分にさせるのである。
それはまあただの妄想に過ぎないとして、商店街の姿をよくよく見れば当然ながらそこには日々変化のあとがくっきりと見て取れる。
それがいかに魅力的で気持ちを浮き立たせてくれるような光景であろうと、いつまでも変わらずそこにあるということはあり得ないのだ。それどころか、ふとまばたきをした次の瞬間に何かが変わってしまっているということさえあり得ることなのだ。
そう思ってあらためて商店街の様子を見てみると、そこには時々刻々変化しつつある人々の営みが連綿とつながっているのだと感じさせられる。
私自身もよく通い、当たり前にそこにあると思い込んでいたカフェがいつの間にか閉店してしまい、次の業態に合った内装にするための工事が行われていたり、老舗の風情ある日本料理店だった場所がラーメンのチェーン店になっていたりする。しかもそうした様々なチェーン店がこのアーケード街のわずか200メートル足らずの間に何店舗も軒を連ねているのだ。
そればかりではない。なぜかこの商店街にはメガネ屋が5,6店舗は点在しているし、整体・ストレッチの専門店が同じく数店舗集積している。それだけニーズがあるということなのだろう。
一方で昔ながらの生鮮食品を扱う店は僅少なものになりつつある。それは至近な場所にスーパーマーケットがいくつも出来たという事情もあるのだろうが、そのスーパーだって昨今の消費需要の低迷の中で閉店あるいは縮小を余儀なくされている。
のどかな光景と思っていた商店街はそうした社会経済情勢や人々の需要の変化の波に洗われながら日々姿を変えているのである。
当然ながらそこに働く人々も、商店街を行き交う人々の姿もとどまることなく変化している。まさに変化こそが常態なのである。
村上春樹の長編小説「街とその不確かな壁」のあとがきの最後にこんな言葉が書かれている。
「……真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか」
この言葉にはそう簡単に首肯することのためらわれる部分もあるように感じてしまうのだが、たしかにそうした変化の中にこそドラマや物語が生成される源が潜んでいるのは確かなことであるようだ。
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