散歩をしていると様々なことが思い出されるし、いろいろなことを考えてしまう。
最近はよく昔の若かった頃の恥ずかしい行状が突然甦ってきたりして、自分のことなのにいたたまれない思いをすることがある。
青春期の悪戦苦闘なのだが、そこから自分は何を得たのだったろうか、などと考えてしまうのである。
私がこれまでやって来たことの大半は、世の中の「役に立たない」ことばかりだったような気がするが、そのことに本当に意味はなかったのだろうか。
そんなことを考え、歩きながら、ふと川端康成の「伊豆の踊子」を思い起こしていた。
小説の主人公の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出たのだったが、そうした感情は思春期の誰もが感じるものなのだろうか。
いささか個人的なことを言えば、私が十代の半ばに芽生えたひねくれた感情は、あらゆる権威や押しつけがましい力に対する名づけようのない反発になってその後の人生を大きく踏み外す結果をもたらしたように思う。
人生において「役に立つ」はずの高等教育なるものからは早々にドロップアウトしてしまったし、努力とか修練とかいう、大人たちが親切にも忠告してくれる言葉にはわざとのように反対の道をあえて選ぶような振る舞いに自分を追い立てるようだった。
そうした闇のような時期は誰もが経験することなのかも知れないが、私自身はそこから脱却することがなかなか出来なかったのだ。
それにしても「役に立つ」「役に立たない」とはどういうことなのだろう。
人生をとおして人は何を得ようというのだろう。
「伊豆の踊子」の主人公は、旅芸人の一家との出会いと交流の中でその心をあたたかくときほぐされていき、最後の場面では素直で自然な感情のなかに身を委ね、甘く快い涙を流すのだが、私にとってそれに匹敵するものは何かと考えると、それこそ「演劇」であり、「病気」だったのかも知れないと最近になってよく考えるのだ。
演劇についていえば、結局私は「芝居で食う」ことが出来なかった三流の俳優でしかないし、病気は長く放置したことの「つけ」によって、腐れ縁のように一生付き合う羽目になっている。
自分の努力や心がけだけではどうにもならない世界に私はいるわけなのだが、逆に、そうした不条理な状況の中で悪戦苦闘することの意味というものを改めて噛みしめているのでもある。
スコット・フィッツジェラルドの未完の遺作「最後の大君」(村上春樹訳)の訳者あとがきの中で紹介されているのだが、フィッツジェラルドは娘のスコッティ―にあてた書簡の中で、このように語っている。
「……人生とは本質的にいかさま勝負であり、最後にはこちらが負けるに決まっている。それを償ってくれるものといえば、『幸福や愉しみ』なんかではなく、苦闘からもたらされるより深い満足感なのです……」
……それはあるいはフィッツジェラルドの文学と、そして人生のひとつの要約になっているかもしれない……と、村上春樹氏は書いているが、たとえはじめから勝ち目のない負け戦のような人生でも、少しでもそれに抗おうと苦闘すること自体に価値があるのであり、その苦闘をとおして自分は満足感を与えられるのだ、ということだろうか。
私も同感である。
もう一つ、覚えておきたいエピソードがある。
イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」(須賀敦子訳)の最初の章に書かれている言葉である。
「……私たちが古典を読むのは、それが何かに『役に立つ』からではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それを読まないより、読んだほうがいいから、だ。……」
そのうえでカルヴィーノは、思想家シオランの言葉を引用し、次のエピソードを紹介する。
「……毒人参が準備されているあいだ、ソクラテスはフルートでひとつの曲を練習していた。『いまさらなんの役に立つのか?』とある人が尋ねた。答えは『死ぬまでにこの曲を習いたいのだ』……」
素敵な話ではないか。
私は、権威づくの押しつけは嫌いだが、こうした役にも立たない習練に嬉々としてうつつを抜かす姿を見るのは大好きである。
私自身もかくありたいと願う。
最近はよく昔の若かった頃の恥ずかしい行状が突然甦ってきたりして、自分のことなのにいたたまれない思いをすることがある。
青春期の悪戦苦闘なのだが、そこから自分は何を得たのだったろうか、などと考えてしまうのである。
私がこれまでやって来たことの大半は、世の中の「役に立たない」ことばかりだったような気がするが、そのことに本当に意味はなかったのだろうか。
そんなことを考え、歩きながら、ふと川端康成の「伊豆の踊子」を思い起こしていた。
小説の主人公の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出たのだったが、そうした感情は思春期の誰もが感じるものなのだろうか。
いささか個人的なことを言えば、私が十代の半ばに芽生えたひねくれた感情は、あらゆる権威や押しつけがましい力に対する名づけようのない反発になってその後の人生を大きく踏み外す結果をもたらしたように思う。
人生において「役に立つ」はずの高等教育なるものからは早々にドロップアウトしてしまったし、努力とか修練とかいう、大人たちが親切にも忠告してくれる言葉にはわざとのように反対の道をあえて選ぶような振る舞いに自分を追い立てるようだった。
そうした闇のような時期は誰もが経験することなのかも知れないが、私自身はそこから脱却することがなかなか出来なかったのだ。
それにしても「役に立つ」「役に立たない」とはどういうことなのだろう。
人生をとおして人は何を得ようというのだろう。
「伊豆の踊子」の主人公は、旅芸人の一家との出会いと交流の中でその心をあたたかくときほぐされていき、最後の場面では素直で自然な感情のなかに身を委ね、甘く快い涙を流すのだが、私にとってそれに匹敵するものは何かと考えると、それこそ「演劇」であり、「病気」だったのかも知れないと最近になってよく考えるのだ。
演劇についていえば、結局私は「芝居で食う」ことが出来なかった三流の俳優でしかないし、病気は長く放置したことの「つけ」によって、腐れ縁のように一生付き合う羽目になっている。
自分の努力や心がけだけではどうにもならない世界に私はいるわけなのだが、逆に、そうした不条理な状況の中で悪戦苦闘することの意味というものを改めて噛みしめているのでもある。
スコット・フィッツジェラルドの未完の遺作「最後の大君」(村上春樹訳)の訳者あとがきの中で紹介されているのだが、フィッツジェラルドは娘のスコッティ―にあてた書簡の中で、このように語っている。
「……人生とは本質的にいかさま勝負であり、最後にはこちらが負けるに決まっている。それを償ってくれるものといえば、『幸福や愉しみ』なんかではなく、苦闘からもたらされるより深い満足感なのです……」
……それはあるいはフィッツジェラルドの文学と、そして人生のひとつの要約になっているかもしれない……と、村上春樹氏は書いているが、たとえはじめから勝ち目のない負け戦のような人生でも、少しでもそれに抗おうと苦闘すること自体に価値があるのであり、その苦闘をとおして自分は満足感を与えられるのだ、ということだろうか。
私も同感である。
もう一つ、覚えておきたいエピソードがある。
イタロ・カルヴィーノの「なぜ古典を読むのか」(須賀敦子訳)の最初の章に書かれている言葉である。
「……私たちが古典を読むのは、それが何かに『役に立つ』からではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それを読まないより、読んだほうがいいから、だ。……」
そのうえでカルヴィーノは、思想家シオランの言葉を引用し、次のエピソードを紹介する。
「……毒人参が準備されているあいだ、ソクラテスはフルートでひとつの曲を練習していた。『いまさらなんの役に立つのか?』とある人が尋ねた。答えは『死ぬまでにこの曲を習いたいのだ』……」
素敵な話ではないか。
私は、権威づくの押しつけは嫌いだが、こうした役にも立たない習練に嬉々としてうつつを抜かす姿を見るのは大好きである。
私自身もかくありたいと願う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます