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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ディア・ドクター

2009-07-13 | 映画
 誰かが誰かになりすますことは犯罪なのだろうか。

 誰かになりすますことで相手を信用させ、そのことによって引き起こされる犯罪が決して珍しくないという事実はとても興味深い。そこにはおそらく人間心理をくすぐる何か秘密のようなものがあるのだろう。
 オレオレ詐欺もその一種であるが、高齢者を対象に近親者への愛を逆手にとったえげつない手口や組織的な犯罪という点で興を削がれる。

 以前、話題になったニュースで、グループサウンズの元ボーカリストと称した犯人がカラオケ大会の審査委員長をやっていたという事件があるが、これには興味を惹かれた。この人は他の場所でもまったくタイプの違うロックグループのボーカルになりすましていたという。
 この誰かになりすますこと自体を目的化したような性癖は何に起因するのだろう。
 これによって金銭をせしめた点は許しがたいにしても、彼を目にしていた聴衆はそれなりに楽しんだのだろうし、それほど目くじらを立てなくとも・・・などと考えるのは不謹慎だろうか。

 それにしても、昔からバラエティのテレビ番組では有名人にそっくりな人のショーがあり、物真似番組が高視聴率を得たりしているのを見ると、人は本質的にそうした「まがいもの」に心惹かれるものなのかも知れない、などと思ってしまう。

 西川美和監督の映画「ディア・ドクター」を観ながら、そんなことを考えていた。
 山あいの小さな村で、まるで神様のように慕われていた医師が、ある日突然失踪する。やがて事件は思わぬ方向へ進み、誰もが思ってもみなかったような事実が明らかになる・・・。
 「ディア・ドクター」についてはすでに多くの新聞評などでも紹介されているからネタはすでに明かされていると思うけれど、主人公の医師はいわゆる無資格医、すなわち医師になりすました人物なのだ。

 西川監督があるフリーペーパーのインタビュー記事で次のように話している。
 「(笑福亭鶴瓶が演じた主人公の医師)伊野という人間には、志というものについては一切匂わせず、ただ目の前にあることに対しての対応能力だけで書いていきました。ところがそういう人物が、相馬啓介(瑛太が演じた)のような人の目を通して見ると、志に見えてしまう。だけど実際は伊野は、根っこのところは全然空洞みたいな人間だと。そういうのがやりたかったんです」

 主人公には誰かになりすますという意図ははじめからなかっただろう。ただ、村人たちのこうあってほしいという願望に寄り添うようにして医師という役割を演じているうちにぬきさしならない状態となり、彼は神のような存在にまでなっていく。空洞のような彼は、村人の期待や願いを吸い込みながら、膨れ上がった風船のように大きくなっていくのだ。その容量がパンク寸前にまでなった時、彼は失踪を余儀なくされたのである。
 むしろ気弱で自己主張のない主人公が自分ではない別人になるという設定は、ウディ・アレンの映画「カメレオンマン」を想い起こさせる。

 刑事二人を狂言回しとして、村人や関係者の声が聞き込みの過程で明らかにされるが、誰も本心は明かさない。闇は深まるばかりで、刑事も主人公を捕まえることはできないまま物語は終わる。

 映画のなかで挿入される美しい田畑を風が走り、稲穂が揺れる光景について、登場人物たちの心理のゆれを表現したものとの批評があった。
 私には、宇宙的な視点から自然が人間にもたらした慰藉としての「そよぎ」でないかと思える。自然はあらゆる人の営為や欲望を否定することなく受け入れる。それは必要なことだったのだと。

 それにしても天性のコミュニケーターである笑福亭鶴瓶が造形した主人公像は本当に素晴らしい。登場人物たちの複雑な心理の綾をくっきりと描き出した西川監督の手腕も見事だ。勢いを増しつつある日本映画の実力を示したものとして評価したい。
 ちなみに西川監督が書いた原作本は今週にも結果が発表される直木賞候補作品でもある。楽しみな才能だ。

 ラストシーン、八千草薫演じる病床の老女が眼にしたものについては意見が分かれるだろう。
 私は、彼女の願望がもたらした美しい幻想と見た。現実でないからこそ救いがある。


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