アート、文化芸術の価値というものについて考えさせられる事件、報道が相次いでいる。
全聾で現代のベートーヴェンともてはやされた作曲家・佐村河内守氏の作品が実は別の人間の手になるものだったという事件。
これには当人の障害そのものが虚偽ではないかとの疑いも浮上し、人々の善意の眼差しや信頼を裏切った行為に多くの非難が寄せられた。
さらには、国内最大の公募美術展「日展」の「書」科で、「入選を有力会派に割り振る不正が行われていた」と、朝日新聞が昨年10月30日付の朝刊で報じ、その後、他のメディアも相次いで報道したことから、日本美術界を揺るがす大スキャンダルとなった。
報道によると、不正が発覚したのは、石や木などの印材に文字を彫る「篆刻(てんこく)」部門で、2009年の審査の際、「会派別入選数の配分表」が審査員に配られ、その指示通りに入選数が決まっていた。
それ以後、「書」のすべての部門の審査で理事らが審査前に合議し、入選数を有力会派に割り当ててきたことを認めたという。
一方、文化庁が後援する書道中心の公募展「全日展」を主催する全日展書法会(東京都)の前会長が、昨年分の16県の知事賞受賞者は架空の人物だとし、「受賞作は私が書きました」と捏造を認めた、との報道があった。報道陣に対し「3年ぐらい前からやっていた。応募がないと、翌年から(知事賞を)もらえなくなる」と説明。今回の問題の責任を取り、2月18日付で会長を辞任したと報告し、「社会的にも書道愛好者、会に対しても信頼を失墜させて大変申しわけなかった」と謝罪したとのこと。
それぞれ事情は異なるが、これらを文化芸術などに微塵の興味もなく、利害関係の全くない第三者の立場に自分を置いてこれらの事象を眺めてみると、いずれも滑稽な様相を呈していると思えてならない。
芸術作品にそもそも優劣をつけられるのかという問題はさておき、結果的に音楽演奏やバレエ、美術、映画、文学等々、その分野を問わず各種コンクールの優勝者や受賞者がその後のキャリアの行く末やギャランティに大きなアドバンテージを獲得することは確かだ。
だからこそ、誰もがその結果に血眼になるのだろうが、今回の日展や全日展のスキャンダルは、それらがいかに空疎なものだったかを白日の下に晒すこととなった。
日展問題の背後には、審査員への付け届けや「事前指導」なるものへの金銭による謝礼が慣習化し、既得権益となっていたという問題もあり、笑うに笑えない話なのだが、彼らはこの行為によって自らの芸術の価値をその程度のはした金に換算してしまったということだ。本来、金銭的価値には容易に換算しえないところの芸術的価値を審査というシステムに組み込むことで強固なヒエラルキーを構築し、自動的換金のシステムを作り上げたその涙ぐましい努力には驚嘆するしかないが、そうまでして守りたかった彼らの権威や社会的地位とは何なのだろう。
それより何より、そうした組織の古い体質や慣習に嫌気がさして離れていった若手作家も多いと聞く。芸術的活力の枯渇した組織ばかりが残り、将来ある掛け替えのない若い才能が失われたとすれば、それこそ取り返しのつかない損失であると言うしかない。
これに比べて「全日展」の問題は少しばかり微笑ましくはあると言ったら顰蹙ものだろうか。
組織の長による授賞作品のまさに「捏造」なのだが、根底にあるのは、組織の存続を第一義とする小市民的俗物性であり、そこには芸術家の創造性も矜持も皆無だ。誰も利益を得たものがいないうえに明らかな被害者もいないという風変わりなこの事件がもたらした、信頼性の失墜という代償はあまりに大きい。
さて、最も大きな話題となったのが作曲家・佐村河内氏の事件であるが、彼のまとった物語性があまりに悲劇的で美しく感動的であっただけに、その仮面が引き剥がされた時の失望の度合いが大きかったということかも知れない。
当事者間の泥仕合には何の興味もないが、ただ、彼の存在に力づけられ、生きる勇気を得ていた無垢で善良な人々がいたわけで、その感情を裏切った罪は深いと言わざるを得ない。
そんなことを考えていたら、ちょうど2日前の金曜日に佐村河内氏の記者会見の様子がテレビに映し出されていた。最初は誰だか分らなかったのだが、それが髪を切り、髭をそってサングラスを外した彼自身だったので驚いてしまった。
彼の物語性はその風貌にもあったということをあからさまに見せつけられたようで、何とも考え込んでしまった。
作品が作品そのものの芸術的価値で評価されるのではなく、あまりに多くの見せかけの物語や神秘性によって粉飾せられていたということなのか。彼の音楽を聴き、CDを購入して感動した人々は、音楽そのものに感動したのではなく、彼の装った人生や宿命に過剰な感情移入をしていたということなのか。
たしかに、太宰治が品行方正な健康優良児であったり、夏目漱石が鉄のような丈夫な胃袋を持ち、ヘミングウェイが色白の神経質な青年のままで、ローリング・ストーンズが真面目そのものの銀行員のような風貌だったとしたら、それらの作品はまた違った読み方、聴き方がされたかも知れないのだけれど…。
今回のゴーストライター問題が発覚し、その仮面が剥がされてから、自分は最初から彼のことを怪しいとにらんでいたという人や、曲そのものが大した作品ではないという人が続々と登場して、それはそれでいつものことだとは思うけれど、そうして全てをご破算にするのではなく、作品そのものを純粋に音楽性に絞って批評した報道がないのは残念なことだ。
全聾で現代のベートーヴェンともてはやされた作曲家・佐村河内守氏の作品が実は別の人間の手になるものだったという事件。
これには当人の障害そのものが虚偽ではないかとの疑いも浮上し、人々の善意の眼差しや信頼を裏切った行為に多くの非難が寄せられた。
さらには、国内最大の公募美術展「日展」の「書」科で、「入選を有力会派に割り振る不正が行われていた」と、朝日新聞が昨年10月30日付の朝刊で報じ、その後、他のメディアも相次いで報道したことから、日本美術界を揺るがす大スキャンダルとなった。
報道によると、不正が発覚したのは、石や木などの印材に文字を彫る「篆刻(てんこく)」部門で、2009年の審査の際、「会派別入選数の配分表」が審査員に配られ、その指示通りに入選数が決まっていた。
それ以後、「書」のすべての部門の審査で理事らが審査前に合議し、入選数を有力会派に割り当ててきたことを認めたという。
一方、文化庁が後援する書道中心の公募展「全日展」を主催する全日展書法会(東京都)の前会長が、昨年分の16県の知事賞受賞者は架空の人物だとし、「受賞作は私が書きました」と捏造を認めた、との報道があった。報道陣に対し「3年ぐらい前からやっていた。応募がないと、翌年から(知事賞を)もらえなくなる」と説明。今回の問題の責任を取り、2月18日付で会長を辞任したと報告し、「社会的にも書道愛好者、会に対しても信頼を失墜させて大変申しわけなかった」と謝罪したとのこと。
それぞれ事情は異なるが、これらを文化芸術などに微塵の興味もなく、利害関係の全くない第三者の立場に自分を置いてこれらの事象を眺めてみると、いずれも滑稽な様相を呈していると思えてならない。
芸術作品にそもそも優劣をつけられるのかという問題はさておき、結果的に音楽演奏やバレエ、美術、映画、文学等々、その分野を問わず各種コンクールの優勝者や受賞者がその後のキャリアの行く末やギャランティに大きなアドバンテージを獲得することは確かだ。
だからこそ、誰もがその結果に血眼になるのだろうが、今回の日展や全日展のスキャンダルは、それらがいかに空疎なものだったかを白日の下に晒すこととなった。
日展問題の背後には、審査員への付け届けや「事前指導」なるものへの金銭による謝礼が慣習化し、既得権益となっていたという問題もあり、笑うに笑えない話なのだが、彼らはこの行為によって自らの芸術の価値をその程度のはした金に換算してしまったということだ。本来、金銭的価値には容易に換算しえないところの芸術的価値を審査というシステムに組み込むことで強固なヒエラルキーを構築し、自動的換金のシステムを作り上げたその涙ぐましい努力には驚嘆するしかないが、そうまでして守りたかった彼らの権威や社会的地位とは何なのだろう。
それより何より、そうした組織の古い体質や慣習に嫌気がさして離れていった若手作家も多いと聞く。芸術的活力の枯渇した組織ばかりが残り、将来ある掛け替えのない若い才能が失われたとすれば、それこそ取り返しのつかない損失であると言うしかない。
これに比べて「全日展」の問題は少しばかり微笑ましくはあると言ったら顰蹙ものだろうか。
組織の長による授賞作品のまさに「捏造」なのだが、根底にあるのは、組織の存続を第一義とする小市民的俗物性であり、そこには芸術家の創造性も矜持も皆無だ。誰も利益を得たものがいないうえに明らかな被害者もいないという風変わりなこの事件がもたらした、信頼性の失墜という代償はあまりに大きい。
さて、最も大きな話題となったのが作曲家・佐村河内氏の事件であるが、彼のまとった物語性があまりに悲劇的で美しく感動的であっただけに、その仮面が引き剥がされた時の失望の度合いが大きかったということかも知れない。
当事者間の泥仕合には何の興味もないが、ただ、彼の存在に力づけられ、生きる勇気を得ていた無垢で善良な人々がいたわけで、その感情を裏切った罪は深いと言わざるを得ない。
そんなことを考えていたら、ちょうど2日前の金曜日に佐村河内氏の記者会見の様子がテレビに映し出されていた。最初は誰だか分らなかったのだが、それが髪を切り、髭をそってサングラスを外した彼自身だったので驚いてしまった。
彼の物語性はその風貌にもあったということをあからさまに見せつけられたようで、何とも考え込んでしまった。
作品が作品そのものの芸術的価値で評価されるのではなく、あまりに多くの見せかけの物語や神秘性によって粉飾せられていたということなのか。彼の音楽を聴き、CDを購入して感動した人々は、音楽そのものに感動したのではなく、彼の装った人生や宿命に過剰な感情移入をしていたということなのか。
たしかに、太宰治が品行方正な健康優良児であったり、夏目漱石が鉄のような丈夫な胃袋を持ち、ヘミングウェイが色白の神経質な青年のままで、ローリング・ストーンズが真面目そのものの銀行員のような風貌だったとしたら、それらの作品はまた違った読み方、聴き方がされたかも知れないのだけれど…。
今回のゴーストライター問題が発覚し、その仮面が剥がされてから、自分は最初から彼のことを怪しいとにらんでいたという人や、曲そのものが大した作品ではないという人が続々と登場して、それはそれでいつものことだとは思うけれど、そうして全てをご破算にするのではなく、作品そのものを純粋に音楽性に絞って批評した報道がないのは残念なことだ。
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