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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ポニョと漱石

2009-01-03 | 映画
 「崖の上のポニョ」を製作中の宮崎駿氏が夏目漱石を読んでいたことはよく知られている。私の行きつけの書店では、ポニョ人気にあてこんで、漱石の文庫本を並べ、特に「門」のところには書店員の書いたと思われる「崖の下の宗助と千代の物語」なんていうポップが踊っていたりしたものだ。
 それにしても「ポニョ」がこれほど国民的人気をさらった理由は何なのだろう。観客動員は1200万人を超えたとかで、日本人の10人に1人がこの作品を観たということになるのだが、自分の事を棚に上げて言えば、たしかにこの数字はいささか多すぎるような気もする。
 大衆の志向性が偏りすぎるのは危険な兆候であるといわれるが、しかしこれは政治ではない、アニメの話である。
 人々はポニョの世界に何を観たがっているのだろう。それはこの何ものをも信じきれない時代にあって、ひたすら「ポニョ、宗介が大好き!」を貫くピュアな姿だろうか。
 宮崎駿によれば、これは「海に棲むさかなの子のポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我侭をつらぬき通す物語」なのである。
 そして、ポニョが宗介と一緒に生きるためには人間にならなければならず、そのために必要なのは、ポニョに対する宗介の純粋な愛情だけなのだ。

 一方、漱石の「門」は、主人公の宗助が、親友の妻だった御米と不倫の恋をし、親友を破滅させた挙句、世間から逃れるようにひっそりと生きる物語である。「崖の下」の家は、陰気で、ひっそりとして、雨が降ると雨漏りがするというように、世間に背いた二人の未来のない生活感覚を暗示するものとして描かれる。
 あまりに対照的な崖の上と下の二つの世界。

 ポニョと生きるために宗介は永遠の愛を誓う。それは幼児の何気ない愛情表現であって、そのことが引き起こす将来の問題を彼が認識しているわけではもちろんないだろう。未来にどんな世界が待ち受けているのか、何も知らないまま重い運命を背負ってしまった男の子の悲哀や、それゆえの戸惑いをそのふとした表情に感じて、私は宗介がいとおしくなる。
 それに対し、ポニョの愛はひたすら我侭であり、それゆえに、強い。そのために津波が起ころうが、月が墜落しようが、世界全体が引っくり返ろうが、海に沈もうが、かまいはしない。ひたすら「宗介、大好き!」を貫きとおす。そうした強い愛に私も呑み込まれたくなる。

 漱石は宗助のことを次のように描く。
 「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」
 閉塞感の充満するこの世界にあって、ポジティブに門を突き破ることの素晴らしさを、嵐の海を突っ切って走るその姿をとおして、ポニョは私たちに教えているようである。
 しかし、それは危ういバランスのうえに立った決断でもある。その愛と引き換えにポニョは人間にならなければならず、魔法の力を失わなければならない。その後の運命を引き受けるのも、切り開くのも「人間」となった彼女自身なのだから。


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