週刊「エコノミスト」(12月9日号)にギャラリストの小山登美夫氏のインタビュー記事「アートバブルの崩壊が新たな才能を生む」が興味深く、共感をもって読んだ。私のようにアートビジネス界に無縁の者にも分かるようにそのシステムについて記事は丁寧に書き込んである。(以下一部引用)
小山氏は96年に自分のギャラリーを開設後、同世代の若手芸術家の個展を数多く開き、村上隆、奈良美智など、名だたるアーティストを発掘してきたことで知られている。
このたびの米国の金融危機に端を発した世界的な景気後退の大波がアート界にも押し寄せ、各地のアートフェアで作品がまったく売れない状況となり、アート市場が冷え込みつつあることは誰もが耳にしていることだろう。
そうしたなか、小山氏は「今回のアートバブルの終焉は新しい才能を生むきっかけになる」「アート市場は振り出しに戻り、ギャラリーで展示会をして、少しずつ芸術家の評価を高めていくという『通常のプロセス』を基本とした市場に戻る。そのことが、最近いびつになっていた現代アート市場のあり方を是正することにつながる」と話す。
こうした自信に満ちた口調の背景には、自らバブル崩壊の90年代半ばにギャラリーを立ち上げ、作家を発掘してきたことの自負とともに、10年前と比較して、世界的に現代アートに対する理解度が高まりつつあることやその情報量も格段に増え、世界的なネットワークが構築されていることがある。
アートを単に貨幣価値に換算して投資の対象とする市場主義者たちが去り、真に芸術作品を面白いと感じて買う「目利き」の人たちの存在が増えていること、それが小山氏の確信につながっているのかもしれない。
一方、同誌には、堕ちた「時代の寵児」小室哲哉の音楽著作権譲渡詐欺事件の記事もあって、これを比較して読むと何ともいえない思いにとらわれる。
こちらの記事も音楽著作権の仕組みがよく分かって、そうなのかあと思いつつも、アート市場の自由主義と芸術至上主義の落差に深く考え込んでしまう。
こうした市場の動向に今ひとつ無縁なのが舞台芸術と言えるだろうか。それはある意味で幸福なことだと言えない事もない。
以下、いささか論理は飛躍してしまうのだが・・・。
現代アートや絵画は実体のある希少的な「モノ」が「存在」することで価値が生まれ売買の対象となる。
音楽は複製された作品が大量に製品化され、CDやレコードとして流通し、売買され、さらにメディアを通して配信され、増幅される過程を通して金銭を生み出す産業となる。
このたびの小室哲哉の事件は、そうしたシステムの狭間で市場道徳の退行がもたらした現象でもあるだろう。
映画もまた作品はオリジナルのフィルムから複製され、映画館で大量の観客の目にふれられるとともに、ビデオやDVDとして流通・売買・貸借され、テレビで放映されることで投資した資金を回収しながら資本を獲得する。世界各地の映画祭はそうした市場のための売買の場と言ってよいだろう。
かたや舞台芸術、とりわけ演劇はどうだろう。再現することができず、保存もできない演劇は人々の「記憶」にしか残らない。だからこそ素晴らしいとも言えるのだが、その特性ゆえに市場を形成するにはなかなか至らないのだ。産業になりにくいのが舞台芸術なのである。「芸術見本市」のような取り組みはあるけれど、それは市場の開拓というよりは、参加者相互の情報交換の場となっているように思うのだ。(この場合、大仕掛けのミュージカルやシルク・ド・ソレイユはまた別のカテゴリーに所属する。)
かくて舞台人たちは、市場の世界とは無縁な無菌状態で純粋培養された芸術家として崇め奉られるのか・・・。
そんなばかなことはないのであって、舞台人にとっていま最も必要とされるのは、現代アートの世界におけるギャラリスト小山氏のように、アーティストの才能を発掘し、観客との幸福な出会いをコーディネートできる人材なのだと思う。そんな使命感をもった若い世代の出現と活躍を熱い期待をもって待ち続けたい。
小山氏は96年に自分のギャラリーを開設後、同世代の若手芸術家の個展を数多く開き、村上隆、奈良美智など、名だたるアーティストを発掘してきたことで知られている。
このたびの米国の金融危機に端を発した世界的な景気後退の大波がアート界にも押し寄せ、各地のアートフェアで作品がまったく売れない状況となり、アート市場が冷え込みつつあることは誰もが耳にしていることだろう。
そうしたなか、小山氏は「今回のアートバブルの終焉は新しい才能を生むきっかけになる」「アート市場は振り出しに戻り、ギャラリーで展示会をして、少しずつ芸術家の評価を高めていくという『通常のプロセス』を基本とした市場に戻る。そのことが、最近いびつになっていた現代アート市場のあり方を是正することにつながる」と話す。
こうした自信に満ちた口調の背景には、自らバブル崩壊の90年代半ばにギャラリーを立ち上げ、作家を発掘してきたことの自負とともに、10年前と比較して、世界的に現代アートに対する理解度が高まりつつあることやその情報量も格段に増え、世界的なネットワークが構築されていることがある。
アートを単に貨幣価値に換算して投資の対象とする市場主義者たちが去り、真に芸術作品を面白いと感じて買う「目利き」の人たちの存在が増えていること、それが小山氏の確信につながっているのかもしれない。
一方、同誌には、堕ちた「時代の寵児」小室哲哉の音楽著作権譲渡詐欺事件の記事もあって、これを比較して読むと何ともいえない思いにとらわれる。
こちらの記事も音楽著作権の仕組みがよく分かって、そうなのかあと思いつつも、アート市場の自由主義と芸術至上主義の落差に深く考え込んでしまう。
こうした市場の動向に今ひとつ無縁なのが舞台芸術と言えるだろうか。それはある意味で幸福なことだと言えない事もない。
以下、いささか論理は飛躍してしまうのだが・・・。
現代アートや絵画は実体のある希少的な「モノ」が「存在」することで価値が生まれ売買の対象となる。
音楽は複製された作品が大量に製品化され、CDやレコードとして流通し、売買され、さらにメディアを通して配信され、増幅される過程を通して金銭を生み出す産業となる。
このたびの小室哲哉の事件は、そうしたシステムの狭間で市場道徳の退行がもたらした現象でもあるだろう。
映画もまた作品はオリジナルのフィルムから複製され、映画館で大量の観客の目にふれられるとともに、ビデオやDVDとして流通・売買・貸借され、テレビで放映されることで投資した資金を回収しながら資本を獲得する。世界各地の映画祭はそうした市場のための売買の場と言ってよいだろう。
かたや舞台芸術、とりわけ演劇はどうだろう。再現することができず、保存もできない演劇は人々の「記憶」にしか残らない。だからこそ素晴らしいとも言えるのだが、その特性ゆえに市場を形成するにはなかなか至らないのだ。産業になりにくいのが舞台芸術なのである。「芸術見本市」のような取り組みはあるけれど、それは市場の開拓というよりは、参加者相互の情報交換の場となっているように思うのだ。(この場合、大仕掛けのミュージカルやシルク・ド・ソレイユはまた別のカテゴリーに所属する。)
かくて舞台人たちは、市場の世界とは無縁な無菌状態で純粋培養された芸術家として崇め奉られるのか・・・。
そんなばかなことはないのであって、舞台人にとっていま最も必要とされるのは、現代アートの世界におけるギャラリスト小山氏のように、アーティストの才能を発掘し、観客との幸福な出会いをコーディネートできる人材なのだと思う。そんな使命感をもった若い世代の出現と活躍を熱い期待をもって待ち続けたい。
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