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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

何もかも憂鬱な夜に

2012-08-05 | 読書
 中村文則著「何もかも憂鬱な夜に」(集英社文庫)は心に染み入る小説である。ごく最近になってこの本を読んだ私にとっても、文庫本の解説でピースの又吉直樹が言っているように、「この小説は特別な作品になった」と思える。

 刑務官の主人公は、強姦目的で押し入った家で妻とその夫を刺殺した二十歳の未決囚・山井を担当している。一週間後に迫った控訴期限が切れてしまえば死刑が確定するが、山井は何も語ろうとしない。どこか自分自身に似た山井と接する中で、主人公の「僕」が抱える混沌、自殺した友人の記憶、子供時代に同じ施設で育った恵子との交渉、人生のかけがえのない指針を示してくれた施設長とのやりとりが明滅するかのように描き出される。

 この小説は人生の闇と不可解、絶望とやりきれなさ、不条理を描きながら、だからこそ必要とされる「芸術」の力を訴えかけてくる。
 と、ここまで紹介すれば、あとは何もいうことはないという気がするし、何か言ったところでこの小説の素晴らしさは伝わらないだろう。小説はただ読むためにある。出来うるものならば全編を引用してそれでよしとしたいくらいだが、そんなわけにもいかないので、心にしみた言葉のいくつかを紹介しておくことにしよう。
 施設長は子供だった主人公にこんなふうに語りかけたのだ。……

 「お前は、何もわからん」
 彼はそう言うと、なぜか笑みを浮かべながら椅子に座った。
 「ベートーヴェンも、バッハも知らない。シェークスピアを読んだこともなければ、カフカや安部公房の天才も知らない。ビル・エヴァンスのピアノも」
(中略)
 「黒澤明の映画も、フェリーニも観たことがない。京都の寺院も、ゴッホもピカソだってまだだろう」
 (中略)
 「お前は、まだ知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」
 僕は、しかし納得がいかなかった。
 「でもそれは……、施設長の好みじゃないか」
 「お前は本当にわかってない」
 あの人はそう言い、なぜか嬉しそうだった。……

 ……「自分の好みや狭い了見で、作品を簡単に判断するな」とあの人は僕によく言った。「自分の判断で物語をくくるのではなく、自分の了見を、物語を使って広げる努力をした方がいい。そうでないと、お前の枠が広がらない」……

 「自分以外の人間が考えたことを味わって、自分でも考えろ」あの人は、僕達によくそう言った。「考えることで、人間はどのようにでもなることができる。……世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる」

 小説の最後、控訴した山井は拘置所から主人公に宛てて手紙を書く。……

 ……あなたにもらった本を、少しずつ、読んでいます。昔の作家や、現代の作家のがあると、主任が言っていた。「ハムレット」を読んだけど、むずかしくて、わからないところもあるが、主任が説明してくれるので、もう一回、読んでみる。だけど、ぼくは人を殺した男で、そのような人間が、本を読んでいいのかと思うことがある。こういう夜を、本を読んですごしていいのかと思うと、今すぐ死にたいと、そういう気もちになる。でも、どのような人間でも、芸術にふれる権利はあると、主任が言ってくれた。芸術作品は、それがどんな悪人であろうと、全ての人間にたいしてひらかれていると。
 この前、主任と看守部長がとくべつに、CDを聞かせてくれた。あなたが用意したものだと、言っていた。ぼくは、それを聞きながら、動くことができなくなった。バッハという人の、『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。すばらしいものがあるといったあなたのことばの意味が、わかったような気がした。いろいろな人間の人生の後ろで、この曲はいつも流れているような、そんな感じがする。……


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