毎日が日曜日・でも多忙です!

おかげさまで、毎日を元気に楽しく過ごしています。普段の出来事、思いつくことなどフリーの立場で記録したいと思います。

体内時計が狂ってしまった錦織選手の大活躍

2018-04-21 08:48:19 | 日記

 早ね早起きの体内時計が狂ってしまった。狂わせた原因はテニスの錦織選手?。

 元テニスの世界ランキング4位の錦織選手。最近は右手首を痛め十分な成績を残せず、4月16日に発表されたランキングは36位と低迷。

 右手首のけがから復帰し4戦目のツアー大会となる「モンテカルロ・マスターズ」が4月15日からはじまった。この大会は「テニスの4大大会」に次ぐ格付けの高い大会。ランキング上位の選手がたくさん参加しているが、錦織選手はノーシードでの参加。

 錦織選手は1回戦を難なく切り抜け、16日に午後7時から放送された2回戦でも勝利を飾った。通常、ヨーロッパからのテニス大会などスポーツ放送は、深夜から早朝までとなるのだが、この夜の7時からのLIVE放送は珍しいこと。この試合、早寝早起きの私にとっては素晴らしい贈り物。早々と夕食を終えテレビの前の特等席に座り込み、至福の時間をゆっくりと味わった。

 夜9時にはベットに潜り込む早寝早起きのわたし。深夜にテレビを見ることはほとんどないのだが、錦織選手の2回戦の勝利の余韻がまだ消えず、3回戦以降も勝利を願いながら、心行くまで応援したくなった。

 翌日3回戦の放送は午後10時から、試合時間は多分2時間くらいと思っていたのが間違いの素。前の試合が長引き、錦織選手とイタリアのセッピ選手の試合開始は12時近く、3-1の錦織選手の勝だったが、試合の終了したのは午前3時近く。

 翌日の準々決勝の放送開始は午後10時。対戦相手は第2シードでランキング3位のクロアチアのチリッチ選手。第1セットは6-4で錦織選手、第2セットはタイブレークの末7-6でチリッチ選手。その時点で時計の針は午前1時近くをさしている。最後まで応援したいのだが、体内時計の狂ってしまった私でも、最終セットを応援はさすがに我慢できず、結果を待たずにベットへもぐりこんだ。

 今朝目が覚めたのはあたりが明るくなってから、毎日続けている6時30分のラジオ体操の時間はとっくに過ぎている。ニュースを見た。第3セットは錦織選手がとっていた。ランキング4位時代の錦織選手の完全復活だ。きょうもテレビの前の特等席で、準決勝の勝利を願いながら、目をこすりこすり応援することとしよう。今夜もまたベットに入るのは深夜となるのだろうか。

 応援もあと一息。目指せ準決勝。さらには優勝を! 

 


テニスの錦織選手2回戦突破

2018-04-18 08:33:38 | 日記

 厚生労働省が15日、2015年の市区町村別の平均寿命を公表した。男性の長寿1位は横浜市青葉区の83.3歳、女性は沖縄県中城村の89.0歳。わたしはあと3月で83歳。どうやら長寿1位の横浜市青葉区の平均寿命には到達できそうだが、長生きすればするほど、これからの老後が心配になってくるのも現実。

 ソフトテニスではあるが18歳の年から親しんできたわたし、世界ランキング4位までなった錦織選手の活躍するテニス大会が楽しみでならない。

 モンテカルロATP1000に6年ぶりに出場した錦織選手の2回戦の模様が、久しぶりにNHKで午後7時から放送された。右手首の傷害で、最近は十分な成績を残していない錦織選手。

 海外で名のあるテニス大会は、ほとんどが日本時間で深夜に放送される。珍しくこの大会の放送は午後7時から始まった。早寝早起きの私にとってこの試合は素晴らしい贈り物。テレビの前の特等席で心行くまで、試合の進行を見守った。

 全盛期の試合を思い出すかのような錦織選手、期待にたがわずロシヤのメドベーゼフ選手を7-5,6-2で破り、3回戦進出をはたした。

 優勝も夢ではない。今後の活躍を大いに期待したい。

 

 


小さな公園の「つつじ」と「なんじゃもんじゃの花」

2018-04-16 07:11:42 | 日記

 我が家のある団地には2つの公園がある。南公園と北公園、小さな公園だがそう離れてはいない。南公園は我が家から歩いて約200歩のところにあり、電鉄バスの終点でもある。

 春はお花の季節。南公園を壁のように取り巻き、咲き乱れる赤、白、ピンクのつつじはいまが満開。咲きほこり、周囲に漂う爽やかな香りは、朝の散歩のひと時を和ませてくれる。

    

      

 南公園もまた北公園も小さな公園だが、北公園では「なんじゃもんじゃ」の白い花がいま満開。

     

 「なんじゃもんじゃ」の花とは変わった名前。ご存知ない方も多かろうが、「なんじゃもんじゃ」は立派な植物、怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称のようだ。「ひとつばたご」が正しいようだ。

 

    


地震発生から2年、熊本城の天守閣にしゃちほこ

2018-04-14 19:48:38 | 日記

 熊本地震の発生から2年を迎えた。いまも3万8千人近くの方が仮設住宅で暮らしているという。

 どんと地下から突き上げるような大きな揺れの後に、立っていられないほどの横揺れ、木造の家はギシギシと軋み、家具が倒れる。食器類が散乱する。その恐怖といったらない。なすすべもなくベットの上に座り込んだあの日のことを昨日のことのように思い出す。

 地震で崩れてしまった天守閣の屋根に、高さ120㌢重さ12㌔のしゃちほこ1基が備え付けられた。残りの1基は19日に蘇るという。城内いたるところは今も復興工事のため立ち入りが禁止され、遠くから天守閣をカメラに納めるのが精いっぱい。

    

 据え付けられたしゃちほこはどこにあるのかよく確認できない。熊本城域全体の復旧のめどはいまだ立っていない、復興作業がいつ終わるかもわからない。天守閣の一般公開は2019年という。齢80を越え、残り少なくなったわが身を思うと、果たして復興なった天守閣に登って、復興なった熊本の町々を眺めることができるだろうか。

 それにしても地震は怖い。その恐怖といったらない。今日午前5時には北海道で震度5弱の地震があった。午後3時過ぎには愛知県西部で震度4の地震があったとニュースが流れた。

 地震雷火事親父と”ことわざ”にあるが、地震が一番にあげられていること、熊本地震のこわさを直接経験した者にはよくわかる。

 日頃の防災対策、他人ごとではない。今からでも遅くない。


我が家の大切な記念の日・ワインで乾杯

2018-04-10 10:35:42 | 日記

 4月10日は私にとって忘れることのできない大切な日です。

 昭和26年4月10日、中学を卒業したばかりの15歳のわたしは、熊本にある「電気通信職員訓練所熊本学園普通電信科」の訓練生として入園しました。

 入園式で、「電気通信省事務員補」の辞令をいただき、晴れて国家公務員の卵として、人生の第一歩を踏み出したのです。その嬉しかったこと、昨日のことのように思い出します。 

 入園した昭和26年というのは、どのような時代だったかというと、一口でいえば戦後の混乱は、ややおさまりかけていましたが、相当のインフレと就職難の時代でもありました。食糧難の時でもあります。

 学園は全寮制でした。寮は木造2階建て、15畳の部屋に8人が入ることとなりました。大人のような高校卒の方と一緒です。食糧難の時代でした。いつもお腹をすかしていたものです。思い出すのは入寮の日のサラメシ。コッペパンが一つと、お皿の底を少し覆った程度の脱脂粉乳のミルクでした。

 「普通電信科」の訓練期間は9カ月で、当時花形だった有線通信士を養成するところです。朝早くから夜遅くまでトンツ―・トンツー・ツートントンと送信、受信の技術習得に励んだものです。それは大変でした。周囲について行くのがやっとのこと、毎日のように試験があります。つい弱気になって、いつ投げ出そうかと子ども心に悩んだことが昨日のことのように思い出されます。

 9月間の研修を終えたのはその年の暮れ、出身地にある門司電報局に配属になりました。深夜勤や宿直も経験しました。15歳といえばまだこども、よく我慢できたものだと、今になって我ながら感心しているところです。

 電気通信省は昭和24年6月、逓信省が分割され郵政省と電気通信省にわかれました。昭和28年には電電公社となりました。職員の身分は公務員から公社員と変わったのです。昭和61年には、民営化され日本電信電話株式会社(NTT)と変わりました。

 その後、通信手段は時代とともに進化し、いまはインターネットの時代です。長い間携わった電報事業は、過去の遺物となってしまいました。

 平成3年3月。長い間お世話になったNTTを退職しました。いまは”毎日が日曜日”。おかげさまで健康にも恵まれ、楽しいときを過ごしています。

 ”うちの奥さま”、今日は大切な記念の日、夜はワインで乾杯しようと張りきっています。